小泉首相の訪朝と課題について☆☆☆☆☆

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justiceを知れ!justice7_7

投稿者: nanking_victory1937 投稿日時: 2005/04/12 01:18 投稿番号: [199453 / 232612]
>初めて聞きますが。。。ソースは?
それと「すり替え」の匂いがプンプンしますが。。。?


オマエ、ホットドッグが餃子の臭いがしないか?
一度、鼻診てもらって来い。


「重慶爆撃」

  一九三七年七月七日の盧溝橋事件から一九三八年十月二十七日武漢三鎮(武昌・漢口・漢陽)占領までの一六ヶ月間に、日本軍は中国各都市を空襲した。南京への無差別爆撃については、二〇章で述べた。「必ずしも目標に直撃するを要せず、敵の人心を恐怖させるのを主眼とす」という目的そのものが、空襲の一般的本質を物語っている。

  日本は当初イタリアから購入したフィアットBR二〇を主力爆撃機として投入している。「伊式重」である。マドリードと武漢は同じフィアットで爆撃された。

武漢は四か月持ちこたえたのち、一九三八年十月二十七日陥落した(マドリードは一九三九年三月に陥落)。国民政府は四川省の重慶を戦時首都に選んだから、多くの人々が重慶を目指した。人口一〇万の重慶は一〇〇万人以上の大都市となった。

  一九三八年十二月二日重慶爆撃についての奉勅命令が出た。命令はあわせて「特種煙(あか筒、あか弾、みどり筒)」すなわち毒ガスの使用を命じている。日本は毒ガス禁止のジュネーブ議定書署名国であったが、遵守するつもりはなかったようだ。

四川省は三国志でいう蜀である。蜀は「蜀犬、日に吠ゆ」といわれるように、雲が厚く、晴の日は少ない。とくに重慶は霧都といわれ、一年のうち半分近く霧がかかる。したがって重慶空襲は天候との戦いであった。

一九三八年十二月二十六日から重慶爆撃は開始された。

日本新鋭の九七式重爆撃機一二機と伊式重一〇機が漢口W基地を飛び立ち、重慶に向かった。距離は八〇〇キロ弱。しかし重慶は雲におおわれ、当初は成果は少なかった。

日本側は都市空襲の武器として焼夷弾を製造し始めていた。焼夷弾はゲルニカにも投下され、その威力は十分証明されていた。一九三八年開発のエレクトロン焼夷弾は重量二〇キロ、落下の衝撃で発火し、内部のテルミットと弾体のエレクトロンを燃焼させ、一〇〜一五分にわたって、二〇〇〇〜三〇〇〇度を放出、消火はほとんど不可能である。空襲体験者のわたくしは、焼夷弾をアメリカの発明と信じていた。

  一九三九年五月三日と四日の重慶爆撃は大きな被害を与えた。重慶は快晴であったが、当初は日本機と中国機がはげしい空中戦を展開した。上空の空中戦を固唾を飲んで見守っていた市民の頭上にやがて大量の爆弾と焼夷弾が落下してきた。

至るところで火災が発生し、消火できず、市民は逃げ惑った。翌四日日本機は空中戦を避け、夕方重慶上空に到着した。この薄暮攻撃は絶大な効果を発揮した。焼夷弾は繁華街を中心に大きな火災を引き起こし、市民は大混乱に陥り、至るところで阿鼻叫喚の地獄が出現した。

五三・五四空襲の死者は合わせて四〇九一人、これはゲルニカ攻撃での死者一六五四人を上回る。以後連続する重慶爆撃の死者は一万一八八九人に達した。空襲は空からの攻撃という戦法と焼夷弾を組み合わせたまったく新しい戦争であって、戦争に大量の非武装市民が巻きこまれることとなった。非戦闘民への攻撃・虐待を禁じた戦時国際法(ハーグ陸戦法規・ジュネーブ協定)は、大々的に破られた。しかし数年後同じ光景が日本列島各地で繰り広げられようとは、だれも思いも寄らなかった。

一九四〇年に入ると日本軍は百一号作戦に着手し、五月から九月にかけて毎日のように重慶市街を爆撃した。当初は中国側の迎撃が活発であったが、八月後半から零戦という戦闘機が投入され、一気に日本は優位に立ち、制空権を掌握した。零戦というのは紀元二六〇〇年(西暦一九四〇年=昭和十五年)製作の戦闘機といういみである。

http://www1.vecceed.ne.jp/~swtamura/minaosu21.htm
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