在日朝鮮人は母国ほとんど帰国した
投稿者: ahoahoaonecemore80 投稿日時: 2005/01/23 17:40 投稿番号: [171920 / 232612]
北へ渡った南出身の貧しい人たち
「朝鮮総連と収容所共和国」 李英和 1999年 小学館文庫
終戦当時、日本には二百数十万人以上の在日朝鮮人がいた。そのほとんどは、終戦直後の引き揚げ事業や自力渡航で朝鮮半鳥に続々と帰還して行った。遅い時期に日本に渡って来た者、あるいは強制連行で無理やり連れて来られた者。これらの朝鮮人ほど帰国を急いだ。地縁・血緑など祖国とのつながりが強く残っていたからである。比較的早い時期の渡航朝鮮入は引き揚げようにも、祖国にはすでに住居もなければ、耕す田畑もなかった。頼りにすべき親類縁者とは、長い年月の間にすっかり関係が希薄になっていた。私の祖父母の場合は、後者のケースに該当する。
おまけに大半の朝鮮人の故郷である韓国でコレラが大発生したり、米軍の軍政下で社会混乱が起きた。さらに朝鮮戦争(50〜53年)の勃発が、帰るべき祖国を灰燼に帰してしまう。様子眺めをしたり、帰るに帰れなくなった朝鮮人が日本に多数とどまった。この60万人ほどが、現在の在日韓国・朝鮮人の基数となる。
ところが、終戦から14年経った頃に突然、第二の引き揚げブームが起きた。1959年12月14日、在日朝鮮人の北朝鮮への帰還が始まった。日・朝両国の赤十宇社の協定(59年8月13日調印)によるものだった。一般に「帰国事業」と呼ばれるものである。以後、3年問の中断期(68〜70年)をはさんで、84年までに果計で約9万3000人余りが北朝鮮に永住帰国した。その中には、日本人配偶者とその子供も含まれる。当時の日本は、いまと違って、父系血統主義を採っていた。その国籍法によれば、厳密な意味での日本人は約6600人だった。その内「日本人妻」と称される人たちが約1800人いる。数は少ないが「日本人夫」もいた。
この「帰国事業」は、いまから考えてみると、奇妙なものだった。在日朝鮮人は、その98パーセントが「南半分」、つまり今の韓国出身である。だから、厳密にいえば、北朝鮮は故郷ではない。守るべき祖先の墓もなければ、頼るべき親類縁者もほとんどいない、「異郷の地」だった。だのに、この人たちは北朝鮮へと「帰った」そのせいもあってか、韓国政府は、「帰国事業」という用語を使わない。「北送事業」と呼んでいる。「帰国者」も「北送者」と称する。ともかく、歴史上でも稀に見る性格の「大量移住」だったことだけはまちがいない。
それだけに、その背景や動機には、複雑なものがある。この点で、帰国事業は大きくふたつの時期に区分できる。
68〜70年の中断期をはさんで、ちょうど前期と後期にわかれる。大半は前期の帰国事業で「北」に渡った。その帰国者たちの背景と動機は、次の三点に尽きる。(1)日本での生活難と将来への不安、(2)韓国政府による事実上の「棄民政策」、そしてなにより(3)北朝鮮政府による荒唐無稽な「地上の楽園」宣伝だった。帰国者の動機は単純だった。同時に、その単純さは、重苦しい現実を反映している。
まっさきに挙げられるべき理由は「貧困」である。高度経済成長の恩恵にあずかるまで、在日朝鮮人の生活は困窮をきわめた。たしかに、1950年代は、日本人もそれはど豊かでなかった。だが、在日朝鮮人の場合、差別が貧困にいっそう拍車をかけていた。なかでも、在日朝鮮人をひどく苦しめたのが雇用差別だった。大手企業への就職などは夢のまた夢。中小零細企業でも、正規採用ははとんど望めなかった。パチンコ屋や飲食業の店員、臨時雇いの工員、そして日雇い労働者といったところだった。おかげで、貧困にあえぐ世帯が多かった。このあたりの事情は、被差別部落の場合と似通っている。だが、在日朝鮮人は外国人だという点が決定的に違った。法制度による差別を受けることになるからだ。
(中略)
これで「貧乏をするな」と言うほうが無理というものだろう。おかげで、在日朝鮮人の生活保護率も高かった。私が生まれた54年末の数字を見てみよう。当時、生活保護を受ける在日朝鮮人は約13万人だった。実に、朝鮮人全体の約23パーセントにのぼる。日本人の場合は2パーセントだった。
「朝鮮総連と収容所共和国」 李英和 1999年 小学館文庫
終戦当時、日本には二百数十万人以上の在日朝鮮人がいた。そのほとんどは、終戦直後の引き揚げ事業や自力渡航で朝鮮半鳥に続々と帰還して行った。遅い時期に日本に渡って来た者、あるいは強制連行で無理やり連れて来られた者。これらの朝鮮人ほど帰国を急いだ。地縁・血緑など祖国とのつながりが強く残っていたからである。比較的早い時期の渡航朝鮮入は引き揚げようにも、祖国にはすでに住居もなければ、耕す田畑もなかった。頼りにすべき親類縁者とは、長い年月の間にすっかり関係が希薄になっていた。私の祖父母の場合は、後者のケースに該当する。
おまけに大半の朝鮮人の故郷である韓国でコレラが大発生したり、米軍の軍政下で社会混乱が起きた。さらに朝鮮戦争(50〜53年)の勃発が、帰るべき祖国を灰燼に帰してしまう。様子眺めをしたり、帰るに帰れなくなった朝鮮人が日本に多数とどまった。この60万人ほどが、現在の在日韓国・朝鮮人の基数となる。
ところが、終戦から14年経った頃に突然、第二の引き揚げブームが起きた。1959年12月14日、在日朝鮮人の北朝鮮への帰還が始まった。日・朝両国の赤十宇社の協定(59年8月13日調印)によるものだった。一般に「帰国事業」と呼ばれるものである。以後、3年問の中断期(68〜70年)をはさんで、84年までに果計で約9万3000人余りが北朝鮮に永住帰国した。その中には、日本人配偶者とその子供も含まれる。当時の日本は、いまと違って、父系血統主義を採っていた。その国籍法によれば、厳密な意味での日本人は約6600人だった。その内「日本人妻」と称される人たちが約1800人いる。数は少ないが「日本人夫」もいた。
この「帰国事業」は、いまから考えてみると、奇妙なものだった。在日朝鮮人は、その98パーセントが「南半分」、つまり今の韓国出身である。だから、厳密にいえば、北朝鮮は故郷ではない。守るべき祖先の墓もなければ、頼るべき親類縁者もほとんどいない、「異郷の地」だった。だのに、この人たちは北朝鮮へと「帰った」そのせいもあってか、韓国政府は、「帰国事業」という用語を使わない。「北送事業」と呼んでいる。「帰国者」も「北送者」と称する。ともかく、歴史上でも稀に見る性格の「大量移住」だったことだけはまちがいない。
それだけに、その背景や動機には、複雑なものがある。この点で、帰国事業は大きくふたつの時期に区分できる。
68〜70年の中断期をはさんで、ちょうど前期と後期にわかれる。大半は前期の帰国事業で「北」に渡った。その帰国者たちの背景と動機は、次の三点に尽きる。(1)日本での生活難と将来への不安、(2)韓国政府による事実上の「棄民政策」、そしてなにより(3)北朝鮮政府による荒唐無稽な「地上の楽園」宣伝だった。帰国者の動機は単純だった。同時に、その単純さは、重苦しい現実を反映している。
まっさきに挙げられるべき理由は「貧困」である。高度経済成長の恩恵にあずかるまで、在日朝鮮人の生活は困窮をきわめた。たしかに、1950年代は、日本人もそれはど豊かでなかった。だが、在日朝鮮人の場合、差別が貧困にいっそう拍車をかけていた。なかでも、在日朝鮮人をひどく苦しめたのが雇用差別だった。大手企業への就職などは夢のまた夢。中小零細企業でも、正規採用ははとんど望めなかった。パチンコ屋や飲食業の店員、臨時雇いの工員、そして日雇い労働者といったところだった。おかげで、貧困にあえぐ世帯が多かった。このあたりの事情は、被差別部落の場合と似通っている。だが、在日朝鮮人は外国人だという点が決定的に違った。法制度による差別を受けることになるからだ。
(中略)
これで「貧乏をするな」と言うほうが無理というものだろう。おかげで、在日朝鮮人の生活保護率も高かった。私が生まれた54年末の数字を見てみよう。当時、生活保護を受ける在日朝鮮人は約13万人だった。実に、朝鮮人全体の約23パーセントにのぼる。日本人の場合は2パーセントだった。
これは メッセージ 171918 (wasabi701 さん)への返信です.