イギリス公使オールコックかな
投稿者: rachi_yamero 投稿日時: 2004/11/21 20:28 投稿番号: [159670 / 232612]
http://www.tamano.or.jp/usr/ubik/ubik/revo/w3.htm
馬関戦争
:1864年8月5日、イギリス主導で組織された英仏米蘭の四国連合艦隊が長州攻撃を開始した。連合国側は軍艦17隻、砲は約290門、兵員5千余名。長州側は青銅製の旧式大砲が約120門、兵員は2千名弱。8日まで戦闘は続き、連合国側の死者は12名、負傷者62名。長州側は死者18名、負傷者多数に及んだ。
:イギリス公使オールコックは、300万ドルという莫大な賠償金を要求。これは結局、幕府が肩代わりして払うことになったが、そう仕向けたのは連合国だ。列強が、幕府を揺さぶり始めたのである。
――――――――――
馬関戦争 (長州藩の開国)
http://www.at-m.or.jp/~fuzimoto/net/yageki/y1.html
開国!
長州は、四カ国連合艦隊の圧倒的な攻撃の前に膝を屈し、講和交渉を行う事になった。この時に起用されたのが高杉晋作である。高杉は、その当初から攘夷戦には不賛成の立場だった。高杉は奇兵隊を創設した直後、奇兵隊と長州藩正規兵とのもめ事に追われ、その始末を付けると禁門の変を止めるため、来島又兵衛の下に赴いて説得に失敗。勢い余って脱藩してしまい、その罪のために「投獄」されていたのである。一方、四カ国連合艦隊の攻撃に藩上層部は、まだその実力差を認めようとしない。それを横目で見た伊藤博文や井上馨らは、嫌がらせとばかりに「藩主ご出馬」を願ったり、「藩上層部は、負けたら切腹モノだ。」などと言って藩上層部を脅迫し、すでに長州藩の攘夷論破壊にまわっている。そして、ついに長州は戦争に敗北する事で攘夷論は崩れたのである。諸外国との交渉には、外国事情をよく知っている開国派が望ましい。伊藤と井上が適任だったが、彼らは「高杉晋作」を推薦した。
高杉は、四カ国連合艦隊旗艦ユーリアラス号の船上で交渉を開始した。高杉は最初は尊大に振る舞ったが、後々は友好的な態度を取った。この時に示された外国の条件を、高杉はほとんど反対をせずにみんな承諾してしまっている。通訳をしていたアーネスト・サトウは、それに喜んで高杉(この時は、家老・宍戸刑馬と偽名を名乗った)は、話しの解る人物と見た様だが、実は肝心の問題となると、絶対に譲らず「もう一戦も覚悟の上…。」とばかりの外交交渉を行っている。高杉が許可したのは「馬関海峡の安全」と「下関港の寄港」。そして「下関港での食料や水、石炭の補給」である。実は、これが後々長州藩とイギリスの下関での密貿易につながり、長州藩は急速に開国へと傾く。イギリスが長州藩支援にまわる状況までも作り出す事になるので、高杉晋作の外交は抜け目がない。事実上、攘夷論の国・長州藩の開国はこの一件により行われたのである。では、高杉が一戦を覚悟してまで断った事とはなにか?。「長州攻撃に掛かった費用の負担と賠償金の支払い」である。戦争で一番肝心な部分である。ここを高杉は拒絶した。イギリスが提示した金額は「三百万ドル」で、長州の支払い能力を遙かに上回る。これを飲んだら長州は倒産してしまう。高杉は賠償金を徹底的に拒絶した。しかし、諸外国も折れない。妥協案的に出てきたのが「攘夷は幕府の命令で、行ったことなので、賠償金は幕府に掛け合ってくれ。」という高杉の言葉だった。高杉がこの一言を言うと、イギリスはいきなり承諾してしまうのである。これには裏が有る。三百万ドルが長州に支払えないことは、百も承知で交渉していたのだ。つまり、最初から長州に払わせる気はなく、幕府に払わせる気だったのだ。さらに言うなら、三百万ドルを盾にとって、両港両都の開市と横浜鎖港の撤回という外交上のカードにしようとしていたのである。そもそも四カ国連合艦隊が派遣された真の理由が、外交問題の解決の為だったのだから、いわば長州藩に罰を与えるのは二の次で、幕府へ圧力を掛ける外交カードと手に入れる様な交渉をするのは当然である。高杉も割拠論を唱えている事から、長州が困らなければそれでよい。幕府が困るならどんどん困れ!。と考えていても可笑しくないだろう。高杉としては馬関戦争で、長州藩が開国し討幕へ動いていくという状況を作り出せた為に、成功といえる。長州は怪我を負ったが、時間がたてば回復できる。幕府の方は、長州から調子よく賠償金を押しつけられ、横浜鎖港は断念に追いやられている。しかも、払える様な金額ではない為に、幕府は潰れるまで、これを外交カードの弱みとして使われてしまう。ちなみに、この賠償金は幕府が潰れてからも有効な外交カードとして使われてしまい、結局支払ったのが、明治新政府だった。自分のツケは自分で払わされた訳だ。もっとも長州藩の税金
馬関戦争
:1864年8月5日、イギリス主導で組織された英仏米蘭の四国連合艦隊が長州攻撃を開始した。連合国側は軍艦17隻、砲は約290門、兵員5千余名。長州側は青銅製の旧式大砲が約120門、兵員は2千名弱。8日まで戦闘は続き、連合国側の死者は12名、負傷者62名。長州側は死者18名、負傷者多数に及んだ。
:イギリス公使オールコックは、300万ドルという莫大な賠償金を要求。これは結局、幕府が肩代わりして払うことになったが、そう仕向けたのは連合国だ。列強が、幕府を揺さぶり始めたのである。
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馬関戦争 (長州藩の開国)
http://www.at-m.or.jp/~fuzimoto/net/yageki/y1.html
開国!
長州は、四カ国連合艦隊の圧倒的な攻撃の前に膝を屈し、講和交渉を行う事になった。この時に起用されたのが高杉晋作である。高杉は、その当初から攘夷戦には不賛成の立場だった。高杉は奇兵隊を創設した直後、奇兵隊と長州藩正規兵とのもめ事に追われ、その始末を付けると禁門の変を止めるため、来島又兵衛の下に赴いて説得に失敗。勢い余って脱藩してしまい、その罪のために「投獄」されていたのである。一方、四カ国連合艦隊の攻撃に藩上層部は、まだその実力差を認めようとしない。それを横目で見た伊藤博文や井上馨らは、嫌がらせとばかりに「藩主ご出馬」を願ったり、「藩上層部は、負けたら切腹モノだ。」などと言って藩上層部を脅迫し、すでに長州藩の攘夷論破壊にまわっている。そして、ついに長州は戦争に敗北する事で攘夷論は崩れたのである。諸外国との交渉には、外国事情をよく知っている開国派が望ましい。伊藤と井上が適任だったが、彼らは「高杉晋作」を推薦した。
高杉は、四カ国連合艦隊旗艦ユーリアラス号の船上で交渉を開始した。高杉は最初は尊大に振る舞ったが、後々は友好的な態度を取った。この時に示された外国の条件を、高杉はほとんど反対をせずにみんな承諾してしまっている。通訳をしていたアーネスト・サトウは、それに喜んで高杉(この時は、家老・宍戸刑馬と偽名を名乗った)は、話しの解る人物と見た様だが、実は肝心の問題となると、絶対に譲らず「もう一戦も覚悟の上…。」とばかりの外交交渉を行っている。高杉が許可したのは「馬関海峡の安全」と「下関港の寄港」。そして「下関港での食料や水、石炭の補給」である。実は、これが後々長州藩とイギリスの下関での密貿易につながり、長州藩は急速に開国へと傾く。イギリスが長州藩支援にまわる状況までも作り出す事になるので、高杉晋作の外交は抜け目がない。事実上、攘夷論の国・長州藩の開国はこの一件により行われたのである。では、高杉が一戦を覚悟してまで断った事とはなにか?。「長州攻撃に掛かった費用の負担と賠償金の支払い」である。戦争で一番肝心な部分である。ここを高杉は拒絶した。イギリスが提示した金額は「三百万ドル」で、長州の支払い能力を遙かに上回る。これを飲んだら長州は倒産してしまう。高杉は賠償金を徹底的に拒絶した。しかし、諸外国も折れない。妥協案的に出てきたのが「攘夷は幕府の命令で、行ったことなので、賠償金は幕府に掛け合ってくれ。」という高杉の言葉だった。高杉がこの一言を言うと、イギリスはいきなり承諾してしまうのである。これには裏が有る。三百万ドルが長州に支払えないことは、百も承知で交渉していたのだ。つまり、最初から長州に払わせる気はなく、幕府に払わせる気だったのだ。さらに言うなら、三百万ドルを盾にとって、両港両都の開市と横浜鎖港の撤回という外交上のカードにしようとしていたのである。そもそも四カ国連合艦隊が派遣された真の理由が、外交問題の解決の為だったのだから、いわば長州藩に罰を与えるのは二の次で、幕府へ圧力を掛ける外交カードと手に入れる様な交渉をするのは当然である。高杉も割拠論を唱えている事から、長州が困らなければそれでよい。幕府が困るならどんどん困れ!。と考えていても可笑しくないだろう。高杉としては馬関戦争で、長州藩が開国し討幕へ動いていくという状況を作り出せた為に、成功といえる。長州は怪我を負ったが、時間がたてば回復できる。幕府の方は、長州から調子よく賠償金を押しつけられ、横浜鎖港は断念に追いやられている。しかも、払える様な金額ではない為に、幕府は潰れるまで、これを外交カードの弱みとして使われてしまう。ちなみに、この賠償金は幕府が潰れてからも有効な外交カードとして使われてしまい、結局支払ったのが、明治新政府だった。自分のツケは自分で払わされた訳だ。もっとも長州藩の税金
これは メッセージ 159662 (kometarou39jp さん)への返信です.