元寇
投稿者: rachi_yamero 投稿日時: 2004/11/13 13:04 投稿番号: [158133 / 232612]
元寇は半島からと大陸からの2方面があります。
半島からの軍勢は朝鮮人が主力、大陸からの軍勢は支那人が大部分で、モンゴル人は指揮官など少数だったんじゃないかと思います。
↓下記のホームページでは気に入らない部分があります。
どうしてこんな記述になるのか、お支那様に媚びる姿勢が見えて気分がよくない。元使は日本に服属を迫ったのであって、聖徳太子の時代以降、中華帝国に服属しないことを国是とした日本が従わないことは当然のこと。
元の使者周福が送られたのは文永の役後最初の使者杜世忠が処刑された4年後で、杜世忠の処刑を知らなかったというのも信じ難いし、文永の役の前にも
>太宰府に着いた趙良弼たちは「天皇や将軍に会わせないならこの首を取れ」とまで言いましたが,今回も返事はありませんでした.
という具合で、日本は元の国交要求(属国化要求)を完全無視していたのだから宣戦布告も同様の対応をしていたのであって、ましてや文永の役という大戦争の後、敵国の使者がのこのこ出かけて来れば処刑されるのは目に見えていたはず。
>幕府は断固とした態度を示しました.しかしそれは,外交使節を罪人なみに斬ってしまうと言う,当時としても,とてつもなく非常識な出来事だったのです.今も昔も最大級の国際ルール違反という訳です.幕府はそれを知りながら使節を処刑したのです・・・(このことが良いか悪いかについていろいろな説がありますが,現代人の感覚でははかりしれないところがありますね.)
>ついで,幕府は弘安2年(1279年)6月に,周福(しゅう・ふく)を正使とする一行を,今度は博多で全員斬りすててしまいました.この段階で元は,前に送った杜世忠たちが処刑されていたことを知らなかったのです・・・・周福たちは哀れでした・・2ヶ月後の8月に,杜世忠を送った水夫らが高麗へ戻って全員が殺されたことを告げました.周福たちは2ヶ月の差で殺される羽目になったのです.
――――――――――
http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/genkou/index.html
文永の役(文永十一年・1274年)
1274年1月.趙良弼の帰国とともに,フビライは高麗に対して日本遠征(えんせい=おおぜいで他の場所に行くこと,この場合,軍隊を送ること)のための造船を命令しました.高麗はそのための人夫3万5千人と食糧.材料の木材を出すことになり大変な出費となりました.労働者として使われたり食料を出さなくてはならない庶民の生活は苦しくなり,飢えて死ぬ人も多くいたそうです.
わずか10ヶ月の間に大型船300艘(そう),中型船300艘,給水用の小型船300艘.あわせて900艘の船を作るのは大変なことです.高麗ではいっきにたくさんの船を造らなければならなかったため,船のかたちは頑丈な中国式ではなく,簡単な高麗式になりました.このことがあとで災いになったと言われています.(文永の役で嵐が来たという説に立てば・・)
10月になって3万人の兵を乗せた元・高麗の軍がいよいよ日本に攻めてきました.
弘安の役(弘安4年・1281年)
元軍は東路軍(とうろぐん)「兵4万人・軍船900艘」と江南軍(こうなんぐん)「兵10万人・軍船3500艘」の二手に分かれて日本に攻めてきました.※1279年に宋は元との戦争に負け支配されていました.ですから江南軍の兵の大部分は宋の人たちだったのです.下の地図には書き表せませんでしたが,江南軍は寧波(にんぽー)という中国の港から出発しています.現在の上海の近くにあった港町です.
半島からの軍勢は朝鮮人が主力、大陸からの軍勢は支那人が大部分で、モンゴル人は指揮官など少数だったんじゃないかと思います。
↓下記のホームページでは気に入らない部分があります。
どうしてこんな記述になるのか、お支那様に媚びる姿勢が見えて気分がよくない。元使は日本に服属を迫ったのであって、聖徳太子の時代以降、中華帝国に服属しないことを国是とした日本が従わないことは当然のこと。
元の使者周福が送られたのは文永の役後最初の使者杜世忠が処刑された4年後で、杜世忠の処刑を知らなかったというのも信じ難いし、文永の役の前にも
>太宰府に着いた趙良弼たちは「天皇や将軍に会わせないならこの首を取れ」とまで言いましたが,今回も返事はありませんでした.
という具合で、日本は元の国交要求(属国化要求)を完全無視していたのだから宣戦布告も同様の対応をしていたのであって、ましてや文永の役という大戦争の後、敵国の使者がのこのこ出かけて来れば処刑されるのは目に見えていたはず。
>幕府は断固とした態度を示しました.しかしそれは,外交使節を罪人なみに斬ってしまうと言う,当時としても,とてつもなく非常識な出来事だったのです.今も昔も最大級の国際ルール違反という訳です.幕府はそれを知りながら使節を処刑したのです・・・(このことが良いか悪いかについていろいろな説がありますが,現代人の感覚でははかりしれないところがありますね.)
>ついで,幕府は弘安2年(1279年)6月に,周福(しゅう・ふく)を正使とする一行を,今度は博多で全員斬りすててしまいました.この段階で元は,前に送った杜世忠たちが処刑されていたことを知らなかったのです・・・・周福たちは哀れでした・・2ヶ月後の8月に,杜世忠を送った水夫らが高麗へ戻って全員が殺されたことを告げました.周福たちは2ヶ月の差で殺される羽目になったのです.
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http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/genkou/index.html
文永の役(文永十一年・1274年)
1274年1月.趙良弼の帰国とともに,フビライは高麗に対して日本遠征(えんせい=おおぜいで他の場所に行くこと,この場合,軍隊を送ること)のための造船を命令しました.高麗はそのための人夫3万5千人と食糧.材料の木材を出すことになり大変な出費となりました.労働者として使われたり食料を出さなくてはならない庶民の生活は苦しくなり,飢えて死ぬ人も多くいたそうです.
わずか10ヶ月の間に大型船300艘(そう),中型船300艘,給水用の小型船300艘.あわせて900艘の船を作るのは大変なことです.高麗ではいっきにたくさんの船を造らなければならなかったため,船のかたちは頑丈な中国式ではなく,簡単な高麗式になりました.このことがあとで災いになったと言われています.(文永の役で嵐が来たという説に立てば・・)
10月になって3万人の兵を乗せた元・高麗の軍がいよいよ日本に攻めてきました.
弘安の役(弘安4年・1281年)
元軍は東路軍(とうろぐん)「兵4万人・軍船900艘」と江南軍(こうなんぐん)「兵10万人・軍船3500艘」の二手に分かれて日本に攻めてきました.※1279年に宋は元との戦争に負け支配されていました.ですから江南軍の兵の大部分は宋の人たちだったのです.下の地図には書き表せませんでしたが,江南軍は寧波(にんぽー)という中国の港から出発しています.現在の上海の近くにあった港町です.
これは メッセージ 158123 (adzumabito_tokio さん)への返信です.