小泉首相の訪朝と課題について☆☆☆☆☆

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Re7>黄&重さん 

投稿者: sofiansky2003 投稿日時: 2004/11/11 05:22 投稿番号: [157871 / 232612]
どうもその貴レスMeg.157494〜157495において、江戸時代の儒教の見方、諸々の流派の発展が説明してありますが、このことを別に否定する気も何もありませんし、またこの思想の流れが、幕末の尊皇攘夷に流れていったことも当然であります。
他にも葉隠れとか武士道のことは、この儒教の影響を受けて形成されていった。
さらにはこの流れが明治維新後も続き、戦後の現在も外来思想と併せて日本人の行動の規範を形成していることも事実であります。
(この中味を分析する能力はありません−汗)

対してすね朝鮮半島のことなんですがどうなんでしょうか。
これは外側から見ることになるのですが。
李氏朝鮮(1392〜1910)の期間は長く、その前の高麗末に朱子学が入ったとされ、
李氏朝鮮は朱子学を国学とし仏教を禁じます。
まあここから徹底した朱子学の国=朝鮮が始まると思うのですけど。

http://kintaro2-2001.hp.infoseek.co.jp/abesonnou6.htm
>朱子学を保護した李朝は、支配層の教化にも力を入れました。そのため官学の郷校が開かれました。しかし、さらに重要なのは私学校である書院でした。白雲洞書院(1542年開設)、陶山書院を始めとして多くの書院が作られます。士林派の政治は地縁と書院の学閥が入り混じったものでした。朱子学を理論的根拠とし、学閥の性格を持った士林派は、朱子学のさらなる導入を目指しました。16〜19世紀の李氏朝鮮における支配者階級の中国的知識は深く、日本の学者の及ぶところではありませんでした。朝鮮通信使が行くところ、日本の学者が殺到し、日本の学者は争って教えを請いました(これは日本側の近世の研究者も指摘していることです)。

>徳川家開祖家康公は、儒教に非常な関心を持つ→それを継いで、三代将軍家光公は林羅山に江戸・忍岡に邸宅を与えて、儒教の学校を開校させた。→昌平校

このとおりだと思いますけど、それ以前に藤原惺窩という学者がいまして、徳川家康に進講し招待を受けながら断り、林羅山を弟子にしております。
この藤原惺窩という人物、何故に朱子学者になったとかというと、秀吉の時代に朝鮮からの使者に会ったから仏弟子から儒学者になってしまったとのことです。
http://www.city.miki.lg.jp/tra-hi/sisek02c.htm

>>司馬遼太郎
   ↑
>彼こそ、イイカゲンな人です。
明治の歴史、日本の近代史を何故、正確に伝えず、面白おかしな、主観的幻想にもとずく→フィクション歴史を事実の如く、読者は誤解する。

まあまあそう言わないでください(笑)
当方だって司馬遼太郎を盲目的に奉っているわけではありませんので。
誰でもかと思いますが、歴史を理解するのに、固苦るしい歴史書よりも、歴史上の人物が行動するであろうことを、当時の歴史環境の中において小説として再現させると非常に面白いわけでして、こうでもしないと自国の歴史を理解することはなかなか難しいかと。
east_jungle3さんには不人気な作家ですが、もう一つ彼の小説に出てきた話です。

秀吉の時代に朝鮮に侵攻していくわけですが、当時日本の武士の中にこの朱子学の朝鮮における実情を知っていて、朝鮮こそ理想の国ということで憧れ、日本の陣営からおさらばし、朝鮮の陣営に駆け込んだ日本人武士が数人いたとあります。

当時李氏朝鮮(1392〜1910)の朱子学のことが徐々に知られつつあったのでしょうね。
当時、想像するにハイカラな思想に見えたのではありませんか?

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