>帝政ロシアは日本に進攻しません
投稿者: rachi_yamero 投稿日時: 2004/10/17 22:25 投稿番号: [155118 / 232612]
>>帝政ロシアの暴挙を放置したなら現状の極東は存在しない。
>少なくとも、帝政ロシアは日本に進攻しません。
>弱者の被害妄想でロシア帝國を敵国と見なした薩長出身の弱虫政治家たち
帝政ロシアは日本に進攻しない、という歴史認識にお目にかかったのは初めてです。
作る会「新しい歴史教科書」から引用
【下関条約と三国干渉】
1805(明治28)年,日清両国は下関条約を結び,清は朝鮮の独立を認めるとともに,日本政府の財政収入の3倍にあたる賠償金3億円を支払い,遼東半島と台湾などを日本に割譲した。
しかし,日本が簡単に列強と対等になることは許されなかった。東アジアに野心をもつロシアは,ドイツ,フランスを誘って,強力な軍事力を背景に,遼東半島を中国へ変換するよう日本に迫った(三国干渉)。清を破ったとはいえ,独力で三国に対抗する力をもたない日本は,やむをえず,一定額の賠償金と引きかえに,遼東半島を手放さねばならなかった。日本は,中国の故事にある「臥薪嘗胆」を合言葉に,官民挙げてロシアに対抗するための国力の充実に努めるようになった。
日清戦争は,欧米流の近代立憲国家として出発した日本と中華帝国の対決だった。「眠れる獅子」と呼ばれてその底力をおそれられていた清が,世界の予想に反して新興の日本にもろくも破れ,古代から続いた東アジアの中華秩序は崩壊した。その後,列強諸国は清に群がり,たちまちそれぞれの租借地(他国の領土を借り受けた土地)を獲得し,中国進出の足がかりを築いた。
53.国家の存亡をかけた日露戦争
【親露か親英か】
19世紀末から20世紀のはじめにかけて,日本は弱肉強食の過酷な世界の中にあった。極東の小さな島国である日本の国力では,単独で自国を防衛するのは不可能だった。力のある大国と同盟関係を結ぶ以外に,生き残る方法はなかった。三国干渉のあと,日本は,同盟をロシアと結ぶかイギリスと結ぶかの選択を迫られた。
両国のどちらが日本の独立を確保するのに役立つかを見極めるのは,容易なことではなかった。アヘン戦争の時代をよく知っている伊藤博文らの元老(天皇の政治顧問。昭和初期まで存続し,維新の功労者が任命された)は,ロシアと結ぶ親露政策を,小村寿太郎ら外務省幹部や桂太郎首相は,イギリスと結ぶ親英政策を主張した。
両者の論争の焦点はロシアについての見方だった。ロシアは1900年に中国でおこった義和団事件を口実に,満州(中国東北部)に2万の兵を送り込み,そのまま居座っていた。ロシアが満州にとどまって朝鮮半島に出てこないようにロシアと話し合いがつくか,ということが最大の争点だった。論争に決着をつけたのは,小村寿太郎が提出した意見書だった。
【日英同盟締結】
小村意見書は,日露条約と日英条約の利害得失を論じ,日英条約が優位であると主張したものであった。
小村意見書は,1901年,政府の方針として採択された。当時,ロシアは実際に朝鮮半島に進出する意図をもっていたから,小村の判断は正しかった。日英同盟はこののち20年間,日本の安全と繁栄に大きく役立った。
>少なくとも、帝政ロシアは日本に進攻しません。
>弱者の被害妄想でロシア帝國を敵国と見なした薩長出身の弱虫政治家たち
帝政ロシアは日本に進攻しない、という歴史認識にお目にかかったのは初めてです。
作る会「新しい歴史教科書」から引用
【下関条約と三国干渉】
1805(明治28)年,日清両国は下関条約を結び,清は朝鮮の独立を認めるとともに,日本政府の財政収入の3倍にあたる賠償金3億円を支払い,遼東半島と台湾などを日本に割譲した。
しかし,日本が簡単に列強と対等になることは許されなかった。東アジアに野心をもつロシアは,ドイツ,フランスを誘って,強力な軍事力を背景に,遼東半島を中国へ変換するよう日本に迫った(三国干渉)。清を破ったとはいえ,独力で三国に対抗する力をもたない日本は,やむをえず,一定額の賠償金と引きかえに,遼東半島を手放さねばならなかった。日本は,中国の故事にある「臥薪嘗胆」を合言葉に,官民挙げてロシアに対抗するための国力の充実に努めるようになった。
日清戦争は,欧米流の近代立憲国家として出発した日本と中華帝国の対決だった。「眠れる獅子」と呼ばれてその底力をおそれられていた清が,世界の予想に反して新興の日本にもろくも破れ,古代から続いた東アジアの中華秩序は崩壊した。その後,列強諸国は清に群がり,たちまちそれぞれの租借地(他国の領土を借り受けた土地)を獲得し,中国進出の足がかりを築いた。
53.国家の存亡をかけた日露戦争
【親露か親英か】
19世紀末から20世紀のはじめにかけて,日本は弱肉強食の過酷な世界の中にあった。極東の小さな島国である日本の国力では,単独で自国を防衛するのは不可能だった。力のある大国と同盟関係を結ぶ以外に,生き残る方法はなかった。三国干渉のあと,日本は,同盟をロシアと結ぶかイギリスと結ぶかの選択を迫られた。
両国のどちらが日本の独立を確保するのに役立つかを見極めるのは,容易なことではなかった。アヘン戦争の時代をよく知っている伊藤博文らの元老(天皇の政治顧問。昭和初期まで存続し,維新の功労者が任命された)は,ロシアと結ぶ親露政策を,小村寿太郎ら外務省幹部や桂太郎首相は,イギリスと結ぶ親英政策を主張した。
両者の論争の焦点はロシアについての見方だった。ロシアは1900年に中国でおこった義和団事件を口実に,満州(中国東北部)に2万の兵を送り込み,そのまま居座っていた。ロシアが満州にとどまって朝鮮半島に出てこないようにロシアと話し合いがつくか,ということが最大の争点だった。論争に決着をつけたのは,小村寿太郎が提出した意見書だった。
【日英同盟締結】
小村意見書は,日露条約と日英条約の利害得失を論じ,日英条約が優位であると主張したものであった。
小村意見書は,1901年,政府の方針として採択された。当時,ロシアは実際に朝鮮半島に進出する意図をもっていたから,小村の判断は正しかった。日英同盟はこののち20年間,日本の安全と繁栄に大きく役立った。
これは メッセージ 155070 (quasar1999z さん)への返信です.