小泉首相の訪朝と課題について☆☆☆☆☆

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>北の調査の事情を想像すると1

投稿者: sofiansky2003 投稿日時: 2004/10/07 06:56 投稿番号: [153963 / 232612]
<救う会>西岡力氏のコラム   から2つ
http://www.sukuukai.jp/shiryo/paper05/06.html
>次に、元北朝鮮工作員の安明進氏の証言を紹介する。
「拉致は1960年代からあったが、本格化するのは70年代中頃からだ。74年、金正日が後継者に選ばれた後、対南工作部門、3号庁舎を掌握するために、それまでの工作活動を検閲し、その成果はゼロだったと批判した。そして、『工作員の現地人化教育を徹底して行え。そのために現地人を連れて来て教育にあたらせよ』という指示を出した。その指示により、多くの日本人、韓国人などが組織的に拉致された。自分はこのことを金正日政治軍事大学の『主体哲学』という科目の中で、金正日のおかげでいかに対南工作がうまくいくようになったかという例として学ばされた」(1998年7月新潟空港記者会見)。

http://www.sukuukai.jp/shiryo/paper01/02-3.html
>ここで安明進氏が語っている「三号庁舎」について触れておこう。これは北朝鮮を建国以来ずっと支配してきた朝鮮労働党中央委員会直属の対南工作部署の総称である。「三号庁舎」は統一戦線部、対外情報調査部、対外連絡部(最近、社会文化部が改称)、作戦部という朝鮮労働党中央委員会直属の四つの部からなる。
  >金正日は金日成の後継者としての地位を固めるとすぐ「三号庁舎」を完全に掌握し、1976年初めに開かれた対南工作部門幹部会議で自分の対南戦略について体系的に演説した。安明進氏が金正日政治軍事大学の必修科目「主体哲学」で学習したのがまさにこれなのだが、私はその金正日演説の中味を入手した。

金正日は74年2月の党中央委員会で金日成の後継者として登場、ただし正式な後継者(総書記)になるのが、80年10月の党大会。
この間金正日後継には、世襲に批判的な中国への配慮や労働党内部にも不満があったことから、金正日は経済担当から対南工作の責任者に代わってからは、父親の信頼を得るべく、功を焦って「暴走を繰り返していた」という。(以上、川邊克朗から)

ところで黄長菀によると、94年から実質的にポストについており「金正日を通さないことには、どんな些細な報告も金日成に上がらなくなり、金日成の指示は金正日を通さないことには下におろせなくなり、実現もできないくなったのである」としている。

金正日の統治スタイルは、会議を開いてあれやこれやを決めるのではなく、すべて文書で決めていく。

<金正日はいくら忙しくても、下から上がってくる提議書はすべて自分が読み結論を下す。>
(まるで三国志の諸葛公明みたい)
   ↑
「各課には政策と関連した提議書、または情勢報告書を作成し、副部長、部長を経て秘書まで上げ、通過すれば週に一度ずつ文書を金正日に提出する。現在は彼が党総秘書であるが、その前は総秘書代理であったが総秘書と変わらなかった。党中央の各部署から上がってくる提議書や報告書は膨大である。私が活動していた国際部だけでも、週30―40件になった。党中央以外にも内閣、外務省、軍隊、社会安全部、国家安全保衛部など直接提議書を上げてくる単位がある。
さらに秘書たちが直接提出した文書の場合、内容が重要だと認めると、批准した文書をみずから特殊な封筒に入れて、直筆で秘書の名前を書き封をして下ろすのである。
これらは膨大な作業量であるが、金正日はこの仕事を絶対に他人に任せず直接処理する。
金正日の党中央部署での活動は、基本的には「提議書」を通した活動である。」
(以上、黄長菀から)

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