この国は
投稿者: boobooaction 投稿日時: 2004/06/05 01:20 投稿番号: [135650 / 232612]
拉致被害者の方達のために本当に死ぬ覚悟があるのか?
そういったコンセンサスがはたして実際に存在するのか?
俺はそれを非常に疑っている。
この国は国民全体の利益のためには一部の国民の利益を犠牲にしても良い
という理念のもとになりたっているのではないか?
こんなことを言うと右よりの人から売国奴とか罵声を浴びせられるんだろうが、
あくまで現状認識として俺はそう考えている。
原発を考えてみればわかる。周辺住民の権利は明らかに侵害されている。東海村で起きた事故をみてもあきらかだろう。しかし、より多くの国民が「より豊かな」生活を享受するために彼らの権利は認められない。そのことを多くの国民が黙認しているのは確かなはずだ。
それに、沖縄。沖縄住民は在日米軍基地の存在によって著しく不利益を被っていると
ずっと訴えてきているが、今までの間、日米安保条約という国民全体の(と政府が考える)利益のために、
彼らの権利もまた犠牲にされてきた。
その他、ハンセン病患者にとってきた隔離政策などなど、国の取ってきた政策には明らかに一定の原理がある。大学時代少しかじった程度だが、ベンサムの言葉を借りれば、「最大多数の最大幸福」が明らかに国の政策を決定する価値基準になってきたと言える。
拉致事件に関して、気になるのもその点だ。
もし、国の主権侵害に対して、戦争も辞さない覚悟で対応すべきだと
いうのがこの国のコンセンサスというなら、
いままでの原発その他国家の政策決定にみられる価値基準とどういった整合性があるのか?
俺にはそれは国のあり方そのものをひっくり返さなければならない程の大飛躍に思えるのだが。
その飛躍をするために、どれだけの議論がなされたというのだろうか?
実は、俺自身はこの国はまだ、「一部の犠牲の上に成り立つ全体の幸福」
という価値観の上に立っていると思っている。
だから、政府もよっぽどでなければ経済制裁はできない
のではないかと疑い始めている。
経済制裁しようという相手になぜ、米を送るのか・・。考えてみればわかるだろう。
国のかたちをどうするかはあくまで、議論により、最終的には国民の代表者たちによって決められるべきものと思う。
ただ、俺個人として意見を言わせてもらえば、いかなる場合でも大多数の国民の生命と財産を尊重することに価値を認める。
まあ、時と場合にもよるだろうが最大限、国民が危険にさらされるような方法はとらずに、できる限りの努力をする、というスタンスを支持したい。
やらなきゃやられるっていう状態が本当に存在するのなら別ですけどね。
だから、拉致被害者(家族も含め)の主張に対して違和感を感じる理由もこのへんの認識に由来しているのかもしれない。
これは メッセージ 135613 (boobooaction さん)への返信です.
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