小泉首相の訪朝と課題について☆☆☆☆☆

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「母の思い出、一片でも」

投稿者: salas8913 投稿日時: 2004/03/01 13:48 投稿番号: [109582 / 232612]
電脳補完録さんより
http://nyt.trycomp.com:8080/modules/news/article.php?storyid=1958


News : 「母の思い出、一片でも」
投稿者 ブルー 投稿日時 2004-3-1 12:55:49 (15 ヒット)
「母の思い出、一片でも」田口八重子さんの長男の闘い

  「明確な解決の兆しを見いだしてほしい」――北朝鮮による拉致被害者・田口八重子さんの長男、飯塚耕一郎さん(27)は、中国の北京で開かれた6か国協議や日朝交渉の成り行きを祈るような思いで見つめた。

  写真でしか知らない実母も含め、北朝鮮側が死亡・不明としている拉致被害者のことも「忘れずに交渉を続けてほしい」と思っているからだ。

  「問題が大き過ぎて何も言えないけど頑張って」

  都内で会社員として生活している耕一郎さんが、6か国協議を目前に控えた先月23日に記者会見した姿を見て、会社の同僚たちは、そう励ましたという。

  八重子さんは、大韓航空機爆破事件の実行犯、金賢姫(キム・ヒョンヒ)元死刑囚の日本語教育係「李恩恵(リ・ウンヘ)」だったとされる。八重子さんの長兄で、耕一郎さんの戸籍上の父でもある飯塚繁雄さん(65)の配慮から、人前に出ることがなかった耕一郎さんがこの時期に報道陣の前に姿を現したのには理由があった。

  拉致被害者5人の家族の帰国・来日問題ばかりがクローズアップされ、八重子さんたちの真相究明が「置き去りにされたまま、幕引きされては」と危惧(きぐ)したからだ。

  1978年6月、22歳だった八重子さんが突然姿を消し、1歳だった耕一郎さんは繁雄さんに引き取られた。以来、「飯塚家の二男」として、繁雄さん夫妻の3人の子どもたちと分け隔てなく育てられた。養子であることは、長く家族の中でも触れられることはなかった。

  87年11月には大韓航空機爆破事件が起き、八重子さんの存在が明らかになると、繁雄さん一家は連日、警察の事情聴取や取材攻勢にさらされた。

  「本当のことを知らせない方が幸せかもしれない」。悩んだ末、繁雄さんは耕一郎さんが21歳となった98年の夏、近所のすし屋に誘い、「おまえの母親は、お父さんの1番下の妹なんだよ」と真相を打ち明けた。

  そのときのことを耕一郎さんは「テレビの中、新聞の中の話と思っていた。実は自分も当事者だったと知っても、現実味を感じられなかった」と振り返る。

  2002年9月17日の日朝首脳会談で、北朝鮮側は長くその存在さえ否定してきた八重子さんの拉致を認めたが、消息は「死亡」と伝えてきた。耕一郎さんは、仕事先の英国・ロンドン近郊で、繁雄さん夫妻からの国際電話でそのことを聞いた。受話器を置くと、涙がこぼれてきた。

  「なぜ泣いたのか、自分でも分からない」。現実味がなく「特別な感慨はないと思っていた」のに。

  繁雄さんの勧めで、金さんにあてて手紙を書いた。会見の数日前、出張先の香港で明け方までかかってパソコンに向かった。「母なのに、笑顔を見たことも、しかられたことも、抱かれたことも覚えていない。母について、思い出の一片でも分けてほしい」と記した。

  会見で母八重子さんの「奪還にまい進する」と言い切った耕一郎さんは繁雄さんとともに、家族連絡会の活動に加わるつもりだ。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20040229ic26.htm
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