小泉首相の訪朝と課題について☆☆☆☆☆

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金正日の側近粛清の歴史

投稿者: fabyondarone 投稿日時: 2004/02/29 21:41 投稿番号: [109497 / 232612]
http://www.infovlad.net/underground/asia/nkorea/2003/MonthlyChosun_122003.html

李明山・北朝鮮専門家


金容淳とはどのような人物であったか

北朝鮮の中央放送はさる10月27日、朝鮮労働党対南担当秘書の金容淳が10月26日の午前5時に享年69歳で死亡した、と報道した。彼はさる6月16日に発生した交通事故で長期間入院していたのだが、最期まで回復できずに亡くなった。

彼は北朝鮮労働党の対南担当秘書として、あらゆる対南活動と戦略を総指揮し、5つの対南工作機構を統率するのみならず、そのうち最も重要である統一戦線部の部長を兼職し、アジア・太平洋平和委員会委員長の席に就いていた。形式的には、彼は北朝鮮の権力序列は30位であったものの、実質的には金日成の死亡後、金正日の最側近者として強大な権力を行使した。

1934年に平安南道平原で生まれた金容淳は、金日成大学法学部国際関係学科を卒業しモスクワ大に留学した。1961年1月に江原道人民委員会副委員長として政界に進出し、1969年6月には元山市人民委員会委員長となった。1970年には駐エジプト大使に任命され外交官生活を始めた。1973年には対外文化連絡委員会副委員長を歴任し、1974年には民主法律家協会副委員長を歴任した。

1980年10月の労働党6次全党大会で中央党国際部副部長となった。1984年2月、党国際部の要員たちも外交イルクンであるため社交ダンスぐらいは知っていなければならないため、幹部たちとダンス大会を繰り広げたが、党組織部の批判を受けて解任された。1年6ケ月間、平南の徳川炭鉱で「革命化教育」なる名目にて重労働をし、金日成の娘である金敬姫の救命運動で釈放され、1985年8月に党国際部に復職した。1988年12月には党国際部部長に昇進した。1990年5月には最高人民会議外交委員会副委員長に抜擢され、労働党国際担当秘書となった。

1990年9月には日北関係改善のための交渉で、朝鮮労働党と日本の自民党と社会党の三党共同宣言を引き出した北朝鮮側の主役を果たし、1992年1月にはアメリカを訪問してアーノルド・カンター国務省次官と米北修交のための会談に出席した。

1992年4月には最高人民会議外交委員長となり、1992年12月には労働党政治局候補委員を勤めながら、1991年5月に許ダムが死亡し空席だった労働党対南担当秘書となった。1993年4月には最高人民会議統一政策委員会委員長になった。1994年6月には金泳三・金日成南北頂上会談のための予備会談で、韓国の統一部総理・李洪九と会見した。


黄長菀、金容淳との葛藤の中で脱北

金容淳は歌を上手に歌い、踊りも上手く、酒をよく飲む社交的な人物であり、性格も円満で親切であり、対人関係にて非常に有能な人であった。私生活では金正日と息がぴったり合う人物であり、喜び組のパーティーにはほとんど毎回出席する得意客であった。金正日と酒の席をともにする人々のなかで最強の酒豪を選ぶなら張成沢、金容淳、桂応泰、金基南などがいるものの、踊りと歌では、誰も金容淳には適わなかった。

公務にあっても金正日の気持ちを的確に言葉にする金容淳を、幹部たちのなかには嫉妬する人々もいて、ひどい場合には彼を「お世辞屋」と呼ぶこともあった。特に黄長菀と金容淳は11歳の年齢差があるのだが、二人ともモスクワ留学出身であり、党の国際担当秘書と最高人民会議外交委員長職を経た、一種のライバル意識を持っていた。

学者風の黄長菀は金容淳を乱暴で生意気な人間と扱い、金容淳は黄長菀を高慢で融通の利かない老人と考えた。金容淳は体質的に奔放であり、多くの艶聞をまき散らした人物だ。金正日の妹・金敬姫と夫の張成沢の間は永らく夫妻関係が円満ではなく、離婚直前まで行ったこともある。だが金容淳は金敬姫と隠密な関係を結んで過ごし、その事実を知った黄長菀は金日成に告げ、金容淳を叱責して謹慎に処した。

この事件が黄長菀の運命を変える契機となった。このことで恨みを抱いた金容淳と金敬姫は、黄長菀の足をすくう機会を狙っていたのだが、あまりに潔癖で隙がない黄長菀には、倒すべき弱点が見あたらなかったのだ。やがて1994年7月8日に金日成が死亡すると、黄長菀は自分を信任した金日成がいない北朝鮮を空虚に、また金正日の統治スタイルと北朝鮮の悲惨な現実に幻滅を感じ始めた。疎外感を持った黄長菀は、主体思想の暢達と伝播に専念するよう努力するうち、モスクワ主体思想講演会に行き心血を注いだ討論と講演により、多くの教授、学者、学生たちから拍手喝采を受け、偉大な主体思想学者として賞賛された。

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