さらにつづきです。
投稿者: ringo_pie03 投稿日時: 2004/02/15 14:37 投稿番号: [106922 / 232612]
当時の学校教育
僕の父(1903〜69)によれば、当時日本の教師達が学齢期の子供のある家を訪ね回りながら、その父母に小学校に入れるよう頼み込んだそうである。
日本と合併して、日本人の建てた学校に送るのを躊躇した父兄が大分あったらしい。だがそれも束の間、父より七つ下の叔父の時になると、中学校はもとより小学校も入学試験で受験生を選抜した。
寺内総督当時は日本の官吏は文官も含めて、すべて軍服にサーベルを下げていたというが、1919年、齋藤総督に代ってからは文官の佩刀<はいとう>が廃され平服になったという。
僕は1926年(大正15年)10月に京城で生まれ、数え年二十で終戦を迎えた。小学校から中学校の教育をほとんど日本人教師から受けており、終戦当時は京城高等工業の学生として日本人学生と共に学んでいた。だから、植民地時代の朝鮮の有り様については一応総合的な構図を捉えているつもりでいる。
僕の場合、6歳で京城師範学校附属小学校に入学した時、初めて日本人と出会った。一年から四年までは緒方篤三郎先生、五年と六年は朝岡寛一郎先生が受け持たれた。お二方は親切誠実なうえ大らかで、曲ったことは決して受け入れない性格であられた。このお二方は僕の恩人であり、僕の人格形成に影響を与えられた。特に朝岡先生には、僕らが六年になってからは放課後の課外授業もしていただき、そのお陰もあって、僕は名門の京畿中に受かった。
当時、朝鮮内の中学校には朝鮮人だけ、日本人だけ、また、少数ながら韓日共学の学校があった。京畿中は朝鮮人だけの中学校であった。当時、小学校にしろ中学校にしろ、日本人と朝鮮人の学生間には、お互いによそ者という感情はあったものの、敵対感情はほとんどみられなかった。
僕が通った師範附属には日本人専用の第一小学校と朝鮮人専用の第二小学校があって、それぞれ別の運動場を中にして隔たっていた。しかし、僕らは六年間を通して、第一附属の日本人学生と反目やいさかいに及んだ覚えはない。
京畿中の教師は三分の二以上が日本人で、残りの三分の一が日本で教育を受けた朝鮮人教師であった。だから、朝鮮のすべての「教育の淵源」は日本ということになる。僕の祖父、朴勝彬も、合併三年前の中央大学出身で、合併前に大韓帝国の検事を勤めた後に弁護士、それから普成専門の校長を七年間勤めている。
当時の朝鮮人は日本人に対して尊敬はしないものの、軽蔑や敵愾心もほとんどなかった。歴史的事実として、植民地化されている現実を認めて生業を営んでいるカタチであった。だから、親は子供らに対して、学校でよく勉強していい大学を出て、いい職場にありつくことを願うばかりであった。
このような朝鮮人の強烈な、そして通俗的あるいは利己的な親心は今もって変わりがない。独立運動をする親もなければ、子に独立運動をそそのかす親など、ただの一人もいなかった。
僕の父(1903〜69)によれば、当時日本の教師達が学齢期の子供のある家を訪ね回りながら、その父母に小学校に入れるよう頼み込んだそうである。
日本と合併して、日本人の建てた学校に送るのを躊躇した父兄が大分あったらしい。だがそれも束の間、父より七つ下の叔父の時になると、中学校はもとより小学校も入学試験で受験生を選抜した。
寺内総督当時は日本の官吏は文官も含めて、すべて軍服にサーベルを下げていたというが、1919年、齋藤総督に代ってからは文官の佩刀<はいとう>が廃され平服になったという。
僕は1926年(大正15年)10月に京城で生まれ、数え年二十で終戦を迎えた。小学校から中学校の教育をほとんど日本人教師から受けており、終戦当時は京城高等工業の学生として日本人学生と共に学んでいた。だから、植民地時代の朝鮮の有り様については一応総合的な構図を捉えているつもりでいる。
僕の場合、6歳で京城師範学校附属小学校に入学した時、初めて日本人と出会った。一年から四年までは緒方篤三郎先生、五年と六年は朝岡寛一郎先生が受け持たれた。お二方は親切誠実なうえ大らかで、曲ったことは決して受け入れない性格であられた。このお二方は僕の恩人であり、僕の人格形成に影響を与えられた。特に朝岡先生には、僕らが六年になってからは放課後の課外授業もしていただき、そのお陰もあって、僕は名門の京畿中に受かった。
当時、朝鮮内の中学校には朝鮮人だけ、日本人だけ、また、少数ながら韓日共学の学校があった。京畿中は朝鮮人だけの中学校であった。当時、小学校にしろ中学校にしろ、日本人と朝鮮人の学生間には、お互いによそ者という感情はあったものの、敵対感情はほとんどみられなかった。
僕が通った師範附属には日本人専用の第一小学校と朝鮮人専用の第二小学校があって、それぞれ別の運動場を中にして隔たっていた。しかし、僕らは六年間を通して、第一附属の日本人学生と反目やいさかいに及んだ覚えはない。
京畿中の教師は三分の二以上が日本人で、残りの三分の一が日本で教育を受けた朝鮮人教師であった。だから、朝鮮のすべての「教育の淵源」は日本ということになる。僕の祖父、朴勝彬も、合併三年前の中央大学出身で、合併前に大韓帝国の検事を勤めた後に弁護士、それから普成専門の校長を七年間勤めている。
当時の朝鮮人は日本人に対して尊敬はしないものの、軽蔑や敵愾心もほとんどなかった。歴史的事実として、植民地化されている現実を認めて生業を営んでいるカタチであった。だから、親は子供らに対して、学校でよく勉強していい大学を出て、いい職場にありつくことを願うばかりであった。
このような朝鮮人の強烈な、そして通俗的あるいは利己的な親心は今もって変わりがない。独立運動をする親もなければ、子に独立運動をそそのかす親など、ただの一人もいなかった。
これは メッセージ 106920 (ringo_pie03 さん)への返信です.