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三国干渉に耐えた合言葉「臥薪嘗胆」

投稿者: ringo_pie03 投稿日時: 2004/02/09 21:29 投稿番号: [105713 / 232612]
中国春秋時代の話。
越王勾践(こうせん)に敗れ、命を落とした呉王闔廬(こうりょ)の子、夫差はその悔しさを忘れぬよう薪の上に臥して寝た。そして会稽山で勾践を破り父の無念を晴らした。すると今度はその勾践が苦い胆を嘗めては復習の気持ちを保ち、美人西施にうつつを抜かす夫差に勝った。

この二つの古事から生まれたのが、悔しさをバネに再起を期す「臥薪嘗胆」である。
その四文字熟語が突然、時の言葉として日本史に登場する。明治28(1895)年のことだ。

日清戦争に勝利した日本はこの年の4月17日、清国との間に講和のための下関条約を結んだ。主な条件は、清国による①朝鮮独立の承認②遼東半島、台湾、渤湖島の日本への割譲③賠償金2億両(当時の金で約3億円)の支払いだった。

ところが、この講和に思わぬ横ヤリが入った。条約調印からわずか6日後の4月23日、ロシア、ドイツ、フランスの参加国がそれぞれの駐日公使を通じ日本に、遼東半島だけは放棄するよう申し入れてきたのだ。
いわゆる「三国干渉」である。
リーダーはロシアだった。(ロシアなんか信用できない、っつうの!byりんご)

「極東永久の平和に障害を与える」と言った理由からだった。しかし欧州列強が極東にまでその植民地収奪の矛先を向けていた時代である。旅順という天然の良港を抱え、垂涎の的である遼東半島を日本人ごときに取られてなるものか、と言うロシアの本音は、衣の下の鎧のように透けて見えた。
(略)

日本政府はこの干渉を受け入れ、遼東半島の還付に応じざるを得なかった。清国に勝ったとは言え、当時の国力からしてロシアなどと対立するのは無理だった。兵庫県の舞妓で療養中の外相、陸奥宗光は「拒否すれば虻蜂取らずになる」と主張したといわれ、文字通り苦悩の決断だった。
しかし、戦勝気分にひたる国民がこの屈服を簡単に受け入れられるはずはなかった。

5月10日に受け入れが正式に発表されるや、新聞も「連戦連勝の末、遼東半島還付とは」(東京朝卑!!!)などと、決定を嘆き、政府を批判した。
その中で異彩を放ったのが当時の代表的ジャーナリストの一人、三宅雪嶺が新聞「日本」に2回にわたり「臥薪嘗胆」と言うタイトルで書いた論文だった。

雪嶺は干渉受け入れを「真に憾(うら)むべく・・・」と批判しながらも「ここに挫けざれば必ず或る処に挫けん。ここに挫けしは、すなわち後日大を成す所以ならん」などと述べ、この蹉跌(つまづき)を薬に後日を期すべきだと訴えた。
この嘗胆臥寝(臥薪嘗胆)は、たちまち多くの日本人の心にフィットした。雪嶺の一回目の論文が載った5月15日、板垣退助の自由党は評議員会で、還付問題を協議した。しかし、「胆を嘗め薪に臥して国力を養い、かつ軍備、航路等を拡張すべし」と話し合っただけだったと「時事通信」は伝えている。

そして案ずるかな3年後の明治31年3月、ロシアが清国と旅順・大連湾租借条約を結び、当の遼東半島を手に入れると、日本国民は「臥薪嘗胆」を合言葉に、ロシアへの敵愾心を強めていくのだった。

元タイ大使、岡崎久彦氏は、今年正月の本紙での対談で、日露戦争での日本の勝因の一つとして江戸時代の教育の優秀さを挙げていた。この「臥薪嘗胆」が合言葉となりえたのも、子供までが漢籍を素読するという江戸教育がもとにあったといえるだろう。
また、大東亜戦争の後、米軍は新憲法などで執拗に日本の武装解除にこだわったり、あだ討ち物のある歌舞伎を禁止したりした。
これも、日本人の臥薪嘗胆があまりにも鮮烈な記憶としてあったからに違いない。

しかし今、その日本人から教養としての「臥薪嘗胆」も、その心も失われてしまって久しい。

産経新聞2月4日付
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