立命館大学 入試問題 国語より-1
投稿者: sa_bo_ten_02 投稿日時: 2004/02/06 20:08 投稿番号: [105241 / 232612]
立命館大学
入試問題
国語より
投稿者 trycomp 投稿日時 2004-2-6 3:39:39 (310 ヒット)
立命館大学[A方式(国際関係、経済、理工、情報理工)](2004/2/3) 国語
二 次ぎの文章を読んで、問に答えよ。
*************
クローズアップ――。そして私たちの前には、被害者と化した日本人しかいなくなった。切り落とされた時間、切り落とされた空間。人工的に構成された現在の事実(アクチュアリティ)。
それはあらゆるメディアの基本操作ですらあるだろう。しかし、そのグロテスクな本質がこれほどあからさまにおのれを現すことも珍しい。その意味でも、私たちは、今、ここで、ある例外的な経験をしているのに違いない。
切り落とされた時間は、空間は、今、どこにあるのか?
私たちの<今>とは、私たちの<ここ>とは何か?
この<今>、この<ここ>における私たちとは誰か?
<私たち>とは何か?
一つのクローズアップは、「拉致事件」なるものに憤るべき<私たち>、「憤り」「怒り」と名指しされた一様な感情を抱き表明することを期待された<私たち>に、呼びかけると同時にそれを作り出す。
クローズアップは、事実の確認を超えて、すでに一つの行為である。「新生動物」を作り出す行為である。従って、求められるのも、報道された事実に対する判断を超えた行為、行為に応える行為であるだろう。<今>と<ここ>の点状の堅固さ、<私たち>の等質性に、いくつもの亀裂を見出すと同時に走らせる行為であるだろう。それはまず、【 A 】から始まるだろう。そのようにして、別の応答の場を開くことから。
クローズアップするのは映像ばかりではない。言葉もまたクローズアップする。例えば「拉致被害者」という言葉。この言葉が被せられる当の人々にとって、この言葉が表しうるのは、その存在の数多くの属性の一つである。それがこの人々の、一人一人の<今>にとって、主要な属性であるかどうかも分からない。だが、この人々が「拉致被害者」としてクローズアップされる時、すでにそこには、その一人一人をこの属性に押し込める途方もない暴力が働いている。
この人々なくして<私たち>はない。だが、この人々は<私たち>ではない。もはや、あるいはいまだ、<私たち>ではない。だから、<私たち>が存在するために、あるいは、より正確には、存在したことに事後的になるために、この人々が<私たち>にならなくてはならない(ア)。家族とともに帰ってこなくてはならない。ここに「再帰化」の【 B 】とも言うべき進行中の事態の異様さがある。それはこの国で「帰化」と呼ばれている制度の本質を、レントゲン写真のように顕わにする。
この状況に応答しようとする時、いくつか魅惑的な言葉が思い浮かぶ。例えば「逆拉致」。この言葉は言おうとするだろう。当事者たちを帰さないという「家族の会」の、日本国家の決定は、彼らが非難している北朝鮮の「犯罪」と【 C 】的であり同質である、操作された報道を通してさえこの決定が当事者たちの意思に反していることは明らかである、不当な干渉を止めて当事者の意思を尊重せよと。
それは正当な応答であり、事態のこの一面は日本国家の外部ではすでにはっきり認識されている。十月三十一日、アムネスティ・インターナショナルは声明を発して次のように述べた。「北朝鮮と日本の両政府は拉致被害者五人に対し、どこに住むべきか、今後どうすべきかなどについて、まず彼ら自身の意思を重んじなければならない」(『朝日新聞』、二〇〇二年十月三十一日夕刊)。
だが他方で、応答が求められる場において、対称性を示唆する表現に、今ほど注意深くなければならない時はない。接続詞という品詞の奇妙な働きが、日本語の空間でこれほど鋭く意識されたのはおそらくこれが初めてではないか。「拉致はもちろん赦せない、しかし・・・」。
こう考え、場合によっては表現せざるを得ない立場に置かれた誰もが、言いしれないもどかしさを覚えているに違いない。
「しかし」「だが」その他、これら【 D 】と呼ばれる接続詞は、切断するはずのところで繋げてしまう。切断の接続詞も接続詞である限り、切断すべきものを同じ平面上、同じ線上に置くことなくしては機能しない。
言語というものの多数者的本質(イ)が顕わになるのはとりわけこのような時だ。だからこそ少数者は、言葉その他の媒体における発明を、それらの平面性、線状性を壊乱することによって求めざるをえない。そのような発明がなされるべきところでなされなければ、生き延びる困難は、それだけいっそう大きくなるからだ。
(
鵜\xBB
投稿者 trycomp 投稿日時 2004-2-6 3:39:39 (310 ヒット)
立命館大学[A方式(国際関係、経済、理工、情報理工)](2004/2/3) 国語
二 次ぎの文章を読んで、問に答えよ。
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クローズアップ――。そして私たちの前には、被害者と化した日本人しかいなくなった。切り落とされた時間、切り落とされた空間。人工的に構成された現在の事実(アクチュアリティ)。
それはあらゆるメディアの基本操作ですらあるだろう。しかし、そのグロテスクな本質がこれほどあからさまにおのれを現すことも珍しい。その意味でも、私たちは、今、ここで、ある例外的な経験をしているのに違いない。
切り落とされた時間は、空間は、今、どこにあるのか?
私たちの<今>とは、私たちの<ここ>とは何か?
この<今>、この<ここ>における私たちとは誰か?
<私たち>とは何か?
一つのクローズアップは、「拉致事件」なるものに憤るべき<私たち>、「憤り」「怒り」と名指しされた一様な感情を抱き表明することを期待された<私たち>に、呼びかけると同時にそれを作り出す。
クローズアップは、事実の確認を超えて、すでに一つの行為である。「新生動物」を作り出す行為である。従って、求められるのも、報道された事実に対する判断を超えた行為、行為に応える行為であるだろう。<今>と<ここ>の点状の堅固さ、<私たち>の等質性に、いくつもの亀裂を見出すと同時に走らせる行為であるだろう。それはまず、【 A 】から始まるだろう。そのようにして、別の応答の場を開くことから。
クローズアップするのは映像ばかりではない。言葉もまたクローズアップする。例えば「拉致被害者」という言葉。この言葉が被せられる当の人々にとって、この言葉が表しうるのは、その存在の数多くの属性の一つである。それがこの人々の、一人一人の<今>にとって、主要な属性であるかどうかも分からない。だが、この人々が「拉致被害者」としてクローズアップされる時、すでにそこには、その一人一人をこの属性に押し込める途方もない暴力が働いている。
この人々なくして<私たち>はない。だが、この人々は<私たち>ではない。もはや、あるいはいまだ、<私たち>ではない。だから、<私たち>が存在するために、あるいは、より正確には、存在したことに事後的になるために、この人々が<私たち>にならなくてはならない(ア)。家族とともに帰ってこなくてはならない。ここに「再帰化」の【 B 】とも言うべき進行中の事態の異様さがある。それはこの国で「帰化」と呼ばれている制度の本質を、レントゲン写真のように顕わにする。
この状況に応答しようとする時、いくつか魅惑的な言葉が思い浮かぶ。例えば「逆拉致」。この言葉は言おうとするだろう。当事者たちを帰さないという「家族の会」の、日本国家の決定は、彼らが非難している北朝鮮の「犯罪」と【 C 】的であり同質である、操作された報道を通してさえこの決定が当事者たちの意思に反していることは明らかである、不当な干渉を止めて当事者の意思を尊重せよと。
それは正当な応答であり、事態のこの一面は日本国家の外部ではすでにはっきり認識されている。十月三十一日、アムネスティ・インターナショナルは声明を発して次のように述べた。「北朝鮮と日本の両政府は拉致被害者五人に対し、どこに住むべきか、今後どうすべきかなどについて、まず彼ら自身の意思を重んじなければならない」(『朝日新聞』、二〇〇二年十月三十一日夕刊)。
だが他方で、応答が求められる場において、対称性を示唆する表現に、今ほど注意深くなければならない時はない。接続詞という品詞の奇妙な働きが、日本語の空間でこれほど鋭く意識されたのはおそらくこれが初めてではないか。「拉致はもちろん赦せない、しかし・・・」。
こう考え、場合によっては表現せざるを得ない立場に置かれた誰もが、言いしれないもどかしさを覚えているに違いない。
「しかし」「だが」その他、これら【 D 】と呼ばれる接続詞は、切断するはずのところで繋げてしまう。切断の接続詞も接続詞である限り、切断すべきものを同じ平面上、同じ線上に置くことなくしては機能しない。
言語というものの多数者的本質(イ)が顕わになるのはとりわけこのような時だ。だからこそ少数者は、言葉その他の媒体における発明を、それらの平面性、線状性を壊乱することによって求めざるをえない。そのような発明がなされるべきところでなされなければ、生き延びる困難は、それだけいっそう大きくなるからだ。
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鵜\xBB
これは メッセージ 1 (mitokoumon_2002 さん)への返信です.