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特攻隊のお話

投稿者: sos_nippon 投稿日時: 2004/10/05 05:44 投稿番号: [7505 / 52541]
(ある新聞から)



第二次大戦末期の一九四五(昭和二十)年五―六月、訓練用航空機で体当たり攻撃をした高知海軍航空隊(高知県)の神風特別攻撃隊菊水部隊白菊隊で隊編成に携わった長野市の釼持(けんもつ)守さん(81)が三日までに、当時つづった日記を基に、自身の体験を信濃毎日新聞に証言した。婚姻の有無といった家庭事情が必ずしも考慮されないなど、末期の特攻隊の編成状況がうかがえ、専門家は「貴重な証言」と指摘している。

  釼持さんは旧制長野中学から都内の大学に進学、学徒出陣(四三年)で海軍に入り、間もなく高知航空隊で航空訓練を受けた。四四年十月、神風特別攻撃隊出撃が始まると、練習機関だった高知航空隊は翌年までに実戦部隊に移行。教官は「貴様ら一年そこそこで少尉になれるのは何でか分かるか。突っ込むためだ」と言っていたという。

  釼持さんも少尉となり、飛行兵の事実上のトップ「飛行長」を補佐する飛行長付に就任。特攻志願者の名簿をとりまとめる立場になった。

  「いとけなの   ひとみ残せる   若鷲が   死所願い来て   今宵ねむれず」

  「ひたぶるに   願い出てくる   者を見よ   まなこ光る   涙すがしも」

  釼持さんが当時書いた歌だ。「特攻隊に入れてください」と懇願する志願者もいれば、人知れず涙を流す隊員もいた。編成は各分隊長が選抜、作成した名簿を基に振り分ける機械的な作業。自分より二、三歳下の隊員らの命を奪うことに、心が痛んだ。

  練習生は航空技術が未熟で、二十歳前後の教官や教員が特攻隊員に選ばれ、初期の特攻隊では選抜されなかった既婚者の姿もあった。「練習機で特攻するような状況。家庭の事情などは聞き置くだけだった」と振り返る。

  白菊隊を見送った出撃地の鹿児島県・鹿屋基地で、出撃を待つ特攻隊員は比較的平静に見え、酒を飲んでも乱れることはなかった。「水杯」のような儀式はなく、淡々と飛び立った。多くの隊員が残した言葉は「お先に」だったという。

  制空権を米軍に握られる中で飛び立った白菊隊を、米軍は無線で「ベリースロー(とても遅い)」と言っているのを知り、「せめて零戦ならば」と悔しかった。他の特攻部隊では誇大な戦果報告もあり、繰り返す出撃と乏しい戦果に、「生死に関して感覚がまひしてしまった」と打ち明ける。連日にわたり、「いつかは自分も」と日記につづり、新たな出撃の準備中に敗戦を迎えた。

  戦後、特攻を振り返ることはなく仕事に没頭した釼持さん。「戦後六十年」の言葉を耳にするようになり、「何も残さずにいてよいのか」と思うようになったという。「あの大勢の志願は本意だったのか、出撃前夜の隊員は何を思い、どうしていたのかなど、時代のせいにして考えなかった。若い世代に伝えながら、あらためて考えていきたい」と話している。

  特攻   爆弾を装着した飛行機、潜航艇などで体当たりする特別攻撃の略。先の大戦で多くの若者を死地に追いやった。人間の操縦によって命中率を高める狙いだが、命中前に撃墜、撃沈される例が少なくなかったとされる。1944(昭和19)年10月、フィリピン・レイテ沖海戦で海軍の神風(しんぷう)特別攻撃隊が米軍艦艇に突入したのが「必死必殺」の自爆攻撃の最初で、間もなく陸軍も特攻を始めた。防衛庁などによると、特攻死者は航空特攻だけで約4千人に上るとされ、県内の特攻戦死者は、航空特攻だけで100人を超える。水上、水中、地上の特攻と合わせた死者数については正確な資料がない。(おわり)


合掌


     (引用は、信濃毎日新聞)
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