Re: 沖縄人の見た沖縄戦/ 中村粲先生
投稿者: yume_sarasa1211 投稿日時: 2011/01/20 00:50 投稿番号: [47956 / 52541]
【墓碑銘】『週刊新潮』7月15日号より
行動する保守派論客・中村粲さんが取り戻した「歴史」
行動派の学者のなかでも、中村粲さんの活動は突出していた。
獨協大学で教鞭を執る身で、朝日新聞社の前で中国寄りの偏向報道を糾弾したり、
台湾の立場を守れと、街宣車の上で日の丸を持ち、外務省にデモをしかけたり――。
外交評論家の田久保忠衛さんは言う。
「純真な人で黙ってはいられない。
歴史には言い分があるのに、具体的な検証もせずに他国の主張に基づき、
日本が悪いと刷り込む報道が、国民を骨抜きにすると危機感をおぼえたのです」
『正論』編集長の上島嘉郎さんも振り返る。
「東京裁判による自虐史観から、内省したうえで日本の歴史をどう解釈するかを
日本人の手に取り戻そうと、中村先生は力を尽くされました。
他国の押しつけを踏まえなければ歴史を書けないとは、真の独立ではないとの
お考えでした」
昭和9年、東京生まれ。東京大学では英文学を学んでいたが、
万葉集など日本文化に関心が移ってゆく。
さらに、愚かな戦争をしたと傍観者のように冷笑する風潮を、
歴史を担った人々への冒涜と感じた。
これが戦争に至る歴史の流れを検証したいと志す原点となる。
34年に卒業、都立高校の英語教師となるが、
日教組や校長とぶつかり4年で退職、獨協大学に移る。
報道批判を始めたのは45年頃からだ。
後に『正論』に『NHKウオッチング』を連載し、終生警鐘を鳴らし続けた。
「主人は、最初はガリ版刷りの冊子をひとりで作って配っておりました」
(妻の貴美子さん)
關国併合は侵略ではないと韓国の歴史学者に平然と述べ、激昂されたこともある。
「国が弱いことが波乱を招く原因となる。弱いことは歴史に対して大きな責任が
あると、当時の清や朝鮮にも反省すべき点を指摘したのです。(田久保さん)
平成2年には、8年をかけて著した『大東亜戦争への道』(展転社)を上梓。
明治から日米開戦に至る通史である。
650ページを越えるが、現在も版を重ね読み継がれている。
「中村さんのようにアメリカの極東での門戸開放政策や共産主義の拡張を、
戦争の元凶として通史で言及するのは注目された」
(拓殖大学前総長の小田村四郎さん)
東京大学名誉教授の小堀桂一郎さんや東京裁判の傍聴を続けた富士信夫さん
らと、東京裁判で却下されたり未提出の弁護側資料を収集し、苦心の末、
7年に全8巻にまとめた。この活動で菊池寛賞を受けている。
「本来は政府がすべき仕事をしたのです。
平成8年に昭和史研究所を設立したのも
政府が検証なく戦争謝罪を重ねることへの批判からです。
戦争体験者の聞き取りを続け、南京やインドネシアにも出かけています」
(弁護士の高池勝彦さん)
東京大学総長を務めた林健太郎さんと、3年にわたり論争が続いたこともある。
憂国の思いから時に論より情念が先走る面もあった。
殺害の脅迫を受け、日本刀を持って演説したことも。
「60歳を過ぎてもデモの先頭に立つほど邪知のない人で、人の意見を聞きました」
(現代史家の秦郁彦さん)
「長男の謙之さんは禅僧、次男の友之むさんは弁護士として活躍していた。
「子供の成長を写真に収め続け、言葉を添えたアルバムがたくさんあります。
憲法記念日以外は国旗を掲げることを自然に教えていました。
子供達とは歴史や哲学の話を楽しそうにしていました」(貴美子さん)
昨年7月、次男の友之さんを急性骨髄性白血病のため、37歳の若さで失った。
「悲しみを振り払うかのように主人は原稿を書き続けていました」(貴美子さん)
しかし、自身も今年1月に進行した肺癌が見つかる。
亡くなる3日前にも会合に出席する意欲を見せていたが、激痛でかなわなかった。
6月23日、76歳で逝去。
偏向報道に異議を唱える活動は仲間が続けてゆく。
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行動する保守派論客・中村粲さんが取り戻した「歴史」
行動派の学者のなかでも、中村粲さんの活動は突出していた。
獨協大学で教鞭を執る身で、朝日新聞社の前で中国寄りの偏向報道を糾弾したり、
台湾の立場を守れと、街宣車の上で日の丸を持ち、外務省にデモをしかけたり――。
外交評論家の田久保忠衛さんは言う。
「純真な人で黙ってはいられない。
歴史には言い分があるのに、具体的な検証もせずに他国の主張に基づき、
日本が悪いと刷り込む報道が、国民を骨抜きにすると危機感をおぼえたのです」
『正論』編集長の上島嘉郎さんも振り返る。
「東京裁判による自虐史観から、内省したうえで日本の歴史をどう解釈するかを
日本人の手に取り戻そうと、中村先生は力を尽くされました。
他国の押しつけを踏まえなければ歴史を書けないとは、真の独立ではないとの
お考えでした」
昭和9年、東京生まれ。東京大学では英文学を学んでいたが、
万葉集など日本文化に関心が移ってゆく。
さらに、愚かな戦争をしたと傍観者のように冷笑する風潮を、
歴史を担った人々への冒涜と感じた。
これが戦争に至る歴史の流れを検証したいと志す原点となる。
34年に卒業、都立高校の英語教師となるが、
日教組や校長とぶつかり4年で退職、獨協大学に移る。
報道批判を始めたのは45年頃からだ。
後に『正論』に『NHKウオッチング』を連載し、終生警鐘を鳴らし続けた。
「主人は、最初はガリ版刷りの冊子をひとりで作って配っておりました」
(妻の貴美子さん)
關国併合は侵略ではないと韓国の歴史学者に平然と述べ、激昂されたこともある。
「国が弱いことが波乱を招く原因となる。弱いことは歴史に対して大きな責任が
あると、当時の清や朝鮮にも反省すべき点を指摘したのです。(田久保さん)
平成2年には、8年をかけて著した『大東亜戦争への道』(展転社)を上梓。
明治から日米開戦に至る通史である。
650ページを越えるが、現在も版を重ね読み継がれている。
「中村さんのようにアメリカの極東での門戸開放政策や共産主義の拡張を、
戦争の元凶として通史で言及するのは注目された」
(拓殖大学前総長の小田村四郎さん)
東京大学名誉教授の小堀桂一郎さんや東京裁判の傍聴を続けた富士信夫さん
らと、東京裁判で却下されたり未提出の弁護側資料を収集し、苦心の末、
7年に全8巻にまとめた。この活動で菊池寛賞を受けている。
「本来は政府がすべき仕事をしたのです。
平成8年に昭和史研究所を設立したのも
政府が検証なく戦争謝罪を重ねることへの批判からです。
戦争体験者の聞き取りを続け、南京やインドネシアにも出かけています」
(弁護士の高池勝彦さん)
東京大学総長を務めた林健太郎さんと、3年にわたり論争が続いたこともある。
憂国の思いから時に論より情念が先走る面もあった。
殺害の脅迫を受け、日本刀を持って演説したことも。
「60歳を過ぎてもデモの先頭に立つほど邪知のない人で、人の意見を聞きました」
(現代史家の秦郁彦さん)
「長男の謙之さんは禅僧、次男の友之むさんは弁護士として活躍していた。
「子供の成長を写真に収め続け、言葉を添えたアルバムがたくさんあります。
憲法記念日以外は国旗を掲げることを自然に教えていました。
子供達とは歴史や哲学の話を楽しそうにしていました」(貴美子さん)
昨年7月、次男の友之さんを急性骨髄性白血病のため、37歳の若さで失った。
「悲しみを振り払うかのように主人は原稿を書き続けていました」(貴美子さん)
しかし、自身も今年1月に進行した肺癌が見つかる。
亡くなる3日前にも会合に出席する意欲を見せていたが、激痛でかなわなかった。
6月23日、76歳で逝去。
偏向報道に異議を唱える活動は仲間が続けてゆく。
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これは メッセージ 47952 (yume_sarasa1211 さん)への返信です.