「朝日新聞」検証
投稿者: osoreiriyanokishibojinn 投稿日時: 2008/10/21 11:47 投稿番号: [42861 / 52541]
「朝日新聞」の記事とは何か?
「特種記事」「特集記事」「社説」などから読み解く。
●「伊藤律会見記」
「宝塚山中に伊藤律氏ー本社記者が会見」(1950.9.27)=後に「捏造」と判明
●「北朝鮮期間運動」
「受け入れ準備は万全」(1959.12.5)
「帰還者にわく平壌」(1959.12.21)=入江徳郎記者の現地レポート(「三十八度線の北」というレポートを5回にわたり掲載し、北朝鮮マンセーを宣伝)
●「中国の旅」
本多勝一記者が「中国の旅」を連載(1971.8)=「平頂山事件」「万人坑」「南京虐殺」「三光作戦」を、「日本軍」の「中国軍民大量虐殺事件」として断罪
*本多勝一は、後に「南京への道」を出版して、「南京虐殺」43万人を主張
●「林彪事件」
「中国共産党」の指令により、秋岡家栄「北京特派員」が、1971年9月13日から1972年1月23日にかけて、四ヶ月あまり「林彪事件」を隠した(欧米では当初から大ニュースになっていたにも関わらず)
*秋岡家栄は「文革」礼賛記事を書き続けたことでも知られており、帰国後「人民日報海外版」日本発行代理人に就任
●「チュチェの国北朝鮮」
「首都発見、中心部の25%が緑」(1971.11.17)
「小さな革命家、思想重視する教育」(同年11.22)
「ミジュ、『米帝』に激しい憎悪」(同年11.27)
「ウェノム、『日本軍』へも憎しみ」(同年11.29)
「清津の涙、祖国選んだ9万人」(同年12.2)
「訓民正音、漢字やめ文盲退治」(同年12.3)
など12回にわたって、北朝鮮マンセー記事連載
●「ポル・ポト派、明るい『社会主義』」
「カンボジア解放側、アジア的優しさを持つ」(1975.4.19)=和田俊「元プノンペン支局長」による「ポル・ポト派」支持の記事
●「『教科書』書き換え問題」
「『教科書検定』で『文部省』書き換え」(1982,6,26)
*「華北を侵略」を「華北に進出」、「中国への全面侵略」が「中国への全面侵攻」に書き換えられたとセンセーショナルに報道=後にそういう事実はなかったことが判明
●「『靖国神社』問題」
「中曽根首相の『靖国神社公式参拝』問題」(1985.8.5)=加藤千洋記者は中曽根首相の「靖国神社公式参拝」は戦前の美化であり、「軍国主義」の復活に繋がると批判し、いわゆる「靖国問題」の火を付け役となる→8月26日、田辺誠が訪中し、中国に直接「御注進」、8月27日、それまで「靖国神社」に無関心だった中国が、初めて姚依林福首相の名で「靖国神社」批判、それ以降「靖国カード」は中国の重要な「対日カード」となる
●「沖縄サンゴ損傷事件」
「西表島のサンゴ礁に『K.Y』の文字」(1989.4.20)=「環境破壊問題」として大々的にカラー写真付きで報道したが、後に「写真部員」の本田嘉郎記者の「自作自演」であることが判明
●「慰安婦問題」
「『女子挺身隊』の名で連行された『朝鮮人慰安婦』のうち、一人がソウル市内に生存」(1991.8.11)=植村隆「ソウル支局記者」が特種記事としてセンセーショナルに報道→後にこの女性は金学順という人で、「女子挺身隊」として「連行」されたわけではなく、生活が苦しくなった母親に「キーセン検番」に売られ、その数年後「キーセン検番」の親方から「いい金儲け」があると言われて中国の「慰安所」に移ったことが判明
*なお植村隆記者に金学順「元慰安婦」を紹介したのは、義母で「太平洋戦争犠牲者遺族会」常任理事でもある梁順任だということも判明
●続「慰安婦問題」
「慰安所、軍関与を示す資料、“民間任せ”政府見解揺らぐ」(1992.1.11)=義見義明「中央大学」教授が重要資料を発見したと称し、「日本軍」が「慰安婦」の「強制連行」に関与したことが裏付けられたかのようにセンセーショナルに報道したが、実はこの資料は「日本軍」が悪質な朝鮮人女衒を取り締まるために出した通達に過ぎなかった
*また、この資料は「防研図書館」に所蔵されている「陸士密大日記」であり、専門家の間では既知のものであって、義見教授の新発見でもなんでもない
●「クリスチャン自衛隊員、神社合祀」
「殉職した自衛官を『靖国神社』に合祀」(1995.8.27)=これは「社説」だったので反響も大きかったが、事実誤認、または捏造に基く記事だった、因みに当該自衛官を祀ったのは「山口県・護国神社」であり、「靖国神社」は関係なかった
●「テポドン」
「北朝鮮のミサイルが日本列島に落下することがあっても、日本に対する本格的な侵略とは見なすことはできない」(1999.2.8)
その他、無数
「特種記事」「特集記事」「社説」などから読み解く。
●「伊藤律会見記」
「宝塚山中に伊藤律氏ー本社記者が会見」(1950.9.27)=後に「捏造」と判明
●「北朝鮮期間運動」
「受け入れ準備は万全」(1959.12.5)
「帰還者にわく平壌」(1959.12.21)=入江徳郎記者の現地レポート(「三十八度線の北」というレポートを5回にわたり掲載し、北朝鮮マンセーを宣伝)
●「中国の旅」
本多勝一記者が「中国の旅」を連載(1971.8)=「平頂山事件」「万人坑」「南京虐殺」「三光作戦」を、「日本軍」の「中国軍民大量虐殺事件」として断罪
*本多勝一は、後に「南京への道」を出版して、「南京虐殺」43万人を主張
●「林彪事件」
「中国共産党」の指令により、秋岡家栄「北京特派員」が、1971年9月13日から1972年1月23日にかけて、四ヶ月あまり「林彪事件」を隠した(欧米では当初から大ニュースになっていたにも関わらず)
*秋岡家栄は「文革」礼賛記事を書き続けたことでも知られており、帰国後「人民日報海外版」日本発行代理人に就任
●「チュチェの国北朝鮮」
「首都発見、中心部の25%が緑」(1971.11.17)
「小さな革命家、思想重視する教育」(同年11.22)
「ミジュ、『米帝』に激しい憎悪」(同年11.27)
「ウェノム、『日本軍』へも憎しみ」(同年11.29)
「清津の涙、祖国選んだ9万人」(同年12.2)
「訓民正音、漢字やめ文盲退治」(同年12.3)
など12回にわたって、北朝鮮マンセー記事連載
●「ポル・ポト派、明るい『社会主義』」
「カンボジア解放側、アジア的優しさを持つ」(1975.4.19)=和田俊「元プノンペン支局長」による「ポル・ポト派」支持の記事
●「『教科書』書き換え問題」
「『教科書検定』で『文部省』書き換え」(1982,6,26)
*「華北を侵略」を「華北に進出」、「中国への全面侵略」が「中国への全面侵攻」に書き換えられたとセンセーショナルに報道=後にそういう事実はなかったことが判明
●「『靖国神社』問題」
「中曽根首相の『靖国神社公式参拝』問題」(1985.8.5)=加藤千洋記者は中曽根首相の「靖国神社公式参拝」は戦前の美化であり、「軍国主義」の復活に繋がると批判し、いわゆる「靖国問題」の火を付け役となる→8月26日、田辺誠が訪中し、中国に直接「御注進」、8月27日、それまで「靖国神社」に無関心だった中国が、初めて姚依林福首相の名で「靖国神社」批判、それ以降「靖国カード」は中国の重要な「対日カード」となる
●「沖縄サンゴ損傷事件」
「西表島のサンゴ礁に『K.Y』の文字」(1989.4.20)=「環境破壊問題」として大々的にカラー写真付きで報道したが、後に「写真部員」の本田嘉郎記者の「自作自演」であることが判明
●「慰安婦問題」
「『女子挺身隊』の名で連行された『朝鮮人慰安婦』のうち、一人がソウル市内に生存」(1991.8.11)=植村隆「ソウル支局記者」が特種記事としてセンセーショナルに報道→後にこの女性は金学順という人で、「女子挺身隊」として「連行」されたわけではなく、生活が苦しくなった母親に「キーセン検番」に売られ、その数年後「キーセン検番」の親方から「いい金儲け」があると言われて中国の「慰安所」に移ったことが判明
*なお植村隆記者に金学順「元慰安婦」を紹介したのは、義母で「太平洋戦争犠牲者遺族会」常任理事でもある梁順任だということも判明
●続「慰安婦問題」
「慰安所、軍関与を示す資料、“民間任せ”政府見解揺らぐ」(1992.1.11)=義見義明「中央大学」教授が重要資料を発見したと称し、「日本軍」が「慰安婦」の「強制連行」に関与したことが裏付けられたかのようにセンセーショナルに報道したが、実はこの資料は「日本軍」が悪質な朝鮮人女衒を取り締まるために出した通達に過ぎなかった
*また、この資料は「防研図書館」に所蔵されている「陸士密大日記」であり、専門家の間では既知のものであって、義見教授の新発見でもなんでもない
●「クリスチャン自衛隊員、神社合祀」
「殉職した自衛官を『靖国神社』に合祀」(1995.8.27)=これは「社説」だったので反響も大きかったが、事実誤認、または捏造に基く記事だった、因みに当該自衛官を祀ったのは「山口県・護国神社」であり、「靖国神社」は関係なかった
●「テポドン」
「北朝鮮のミサイルが日本列島に落下することがあっても、日本に対する本格的な侵略とは見なすことはできない」(1999.2.8)
その他、無数
これは メッセージ 1 (jjjjjjjjjjjjjjkohe さん)への返信です.