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ルーマニア革命 (1989年)>左翼こそ弾圧

投稿者: xyzhaya2gou 投稿日時: 2007/06/13 08:16 投稿番号: [35981 / 52541]
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%82%A2%E9%9D%A9%E5%91%BD_(1989%E5%B9%B4)

<以下、一部のみ抜粋>
ルーマニア革命 (1989年)
いわゆる東欧革命における唯一の、武力による政権移譲。

前史
ルーマニアは他の東欧諸国とは一線を画し、ソ連とは一定の距離を維持する独自外交を行っていた。これはルーマニアが産油国であり、ソ連に依存しなくても独自に外貨獲得やエネルギー資源の確保が可能だったためである。こうした状況は
ルーマニアをニコラエ・チャウシェスクによる独裁国家
に変えてしまう事を容易にした一つの要因ともなった。

しかしながら1980年代に入るとルーマニア共産党による一党独裁政権は国内の経済政策に失敗し、ルーマニア経済の疲弊が始まった。経済の落ち込みは国民の生活にも反映され、
チャウシェスクの独裁政権に対しての反目も日増しに強くなった。
こうした状況の中で、ベルリンの壁が崩壊し、
東ヨーロッパ各国の共産党政権が次々と倒れた
と言うニュースがルーマニアにも入ってくると、次第に革命の機運が高くなっていった。

革命の推移
ティミショアラを含むルーマニア西部(バナート地方)はハンガリー国境に近く、1919年のオーストリア・ハンガリー帝国が崩壊するまでハンガリー王国の領域であった。ルーマニアにとどまったハンガリー系住民に対する政府の扱いは、あまり良いとは言えず、マジャル人であるラースローの国外退去処分への抗議とともに待遇改善を求めてデモを起こしたのであった。

勃発
ルーマニア共産党本部庁舎前の広場(旧王宮広場)で約10万人を動員したチャウシェスクを称賛する集会が開催された。
集会の参加者の一部に大学生・市民の一部が合流し
チャウシェスク独裁の抗議集会へと発展した。
しかしこの政治集会に対しても治安部隊が発砲、
多数の死傷者を出す事態と発展なった。軍隊も動員されたが市民のチャウシェスク政権に対する不満は頂点に達した。

この状態に危機感を抱いたチャウシェスクは国防大臣ワシーリ・ミリャに対し軍隊による群集への発砲を指示した。しかしミリャはこの命令を拒否、チャウシェスクの逆鱗に触れ即日処刑された。

事実はすぐ市民に知れ渡り、この事態は軍首脳が大統領に反旗を翻すきっかけとなった。
同日夜には軍隊が広場に集まる市民の側に立ち政府機関の占拠が始まった。

市内各地で反体制派の軍隊と大統領派の治安警察による激しい銃撃戦が発生。

崩壊
12月22日、革命勢力の攻勢は大統領宮殿にまで及び、チャウシェスクはブカレストから脱出し政権は崩壊、反体制派勢力は共産党の反チャウシェスク派とともに暫定政権「救国戦線評議会」を組織した。
チャウシェスクは戒厳令を出して事態に対応しようと試みるが、軍隊が革命勢力に参加したことで頓挫、妻のエレナとともにヘリコプターでの脱出を図った。しかし一連の逃亡劇は反体制側に転じた国営ルーマニア放送他、世界各国のマスメディアで映像が流されるお粗末なものであった。
12月23日、救国戦線によりチャウシェスク夫妻が逮捕される。
12月25日、夫妻は軍事裁判で大量虐殺と不正蓄財の罪により死刑判決を受け、即日銃殺刑が執行された。
チャウシェスクが拘禁されていた軍事基地で秘密警察によるチャウシェスク奪回作戦が敢行され、激しい銃撃戦が行われた。当初は軍事裁判ではなく通常裁判を実施する予定であったが、秘密警察の抵抗でチャウシェスク夫妻の扱いを早急に結論付けなければならなくなった。
チャウシェスク生存説が流布される事を恐れた救国戦線は、チャウシェスク夫妻の遺体を各国メディアに公開した。
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