【再掲】支那の歴史は浅い♪
投稿者: gokigoki_nipponjin_kiero_3 投稿日時: 2005/12/27 13:29 投稿番号: [23970 / 52541]
国家の歴史については、「国名」と「民族」の両面から検証する必要がある。
では「中国」を検証してみよう。
【国名から見た歴史】
「中国」の歴史はまだ100年にも満たない。一般に呼ばれる「中国」とは、「中華人民共和国」(1949年成立)及び、その前身である「中華民国」(1912-1949、1950年以後は台湾)と言った「国号」(国名)の略称である。
また、「漢」「隋」「唐」「明」と言った「王朝」は、そのまま「国号」を王朝名に使っている。そのため、「漢」王朝時代の国号は「漢」であり、「唐」王朝時代の国号は「唐」である。つまり、「漢」や「唐」は決して「中国」ではないのだ。その観点からすれば、「中国」の歴史はまだ100年にも満たないということになる。
【民族から見た歴史】
「中国」は「漢民族の国」とされるが、これで「4,000年以上の歴史」が成立するのだろうか。結論から言おう。民族から見ても「4,000年以上の歴史」は成立しない。
最初の王朝・夏から現在に至る、支那の諸王朝(政権)を支配民族別に追えば分かることだ。
■最初の王朝「夏」から「西晋」(265-317)→基本的に「漢民族」の王朝が続く
→この間およそ2,500年
■匈奴・羯・鮮卑(モンゴル系民族)氏・羌(チベット系民族)の台頭
→異民族「五胡」が西晋を滅ぼす
■華北→「五胡」の国々が興亡を繰り返す→五胡十六国時代へ突入
■「漢民族」は華南へ遷都(南朝成立)へ
→「東晋」(317-420)→「宋」(420-479)→「南斉」(479-502)
→「梁」(502-557)→「陳」(557-589)
■華北→鮮卑族の拓跋部が建てた「北魏」(386-534)が統一(北朝の成立)
■宇文部(匈奴族とも鮮卑族とも言われる)の建てた「北周」(557-581)
→後継王朝である「隋」(581-619)が589年に南朝の陳を滅ぼす
→約3世紀ぶりに支那全土を再統一
■再統一を成した「隋」のポイント
☆純然たる「漢民族」の王朝ではない
(「隋」王室の楊氏や「唐」王室の李氏にも言える)
理由→3世紀もの間「五胡」によって華北が支配された結果、
華北の「漢民族」は北方民族との混血が進んで五胡化されてしまったから。
ここからが特に重要!
更に追い打ちをかけたのが「唐」(618-907)の滅亡。「隋」「唐」は五胡化されたとはいえ、まだまだ「漢民族」としての血を残していた。しかし、蒙古系契丹族が「遼」(916-1125)を建てたことで、支那の歴史は劇的な変質を遂げた。
「唐」滅亡後、支那には主として、中原(支那の中心地)に「五代」と呼ばれる五つの王朝が、その外縁部に「十国」と呼ばれる国々が相次いで興亡した。いわゆる「五代十国」の乱世である。この時代、中原に興亡した「漢民族」の王朝であるはずの五代諸王朝は、何と蒙古系契丹族の王朝「遼」に臣従(臣下として仕えること)していたのだ。
これが何を意味していたのか。つまり、支那世界における「天命」正統性が、「漢民族」から異民族へ移ったことを意味しているのだ。そして、これは女真族の「金」(1115-1234)や蒙古族の「元」(1206-1388)へと継承されていった。「元」王朝のあと、久々に「漢民族」の王朝「明」(1368-1661)が成立したが、「天命」は再び異民族である満州族の王朝「清」に移ってしまったのである。
以上より、「隋」「唐」以後の支那は、異民族王朝のオンパレードとも言える。とてもじゃないが「漢民族」の国の歴史とは言い難い。つまり、「外国支配」も含めて、強引に一つの国家として歴史を成立させようとしているだけの話なのだ。
では「中国」を検証してみよう。
【国名から見た歴史】
「中国」の歴史はまだ100年にも満たない。一般に呼ばれる「中国」とは、「中華人民共和国」(1949年成立)及び、その前身である「中華民国」(1912-1949、1950年以後は台湾)と言った「国号」(国名)の略称である。
また、「漢」「隋」「唐」「明」と言った「王朝」は、そのまま「国号」を王朝名に使っている。そのため、「漢」王朝時代の国号は「漢」であり、「唐」王朝時代の国号は「唐」である。つまり、「漢」や「唐」は決して「中国」ではないのだ。その観点からすれば、「中国」の歴史はまだ100年にも満たないということになる。
【民族から見た歴史】
「中国」は「漢民族の国」とされるが、これで「4,000年以上の歴史」が成立するのだろうか。結論から言おう。民族から見ても「4,000年以上の歴史」は成立しない。
最初の王朝・夏から現在に至る、支那の諸王朝(政権)を支配民族別に追えば分かることだ。
■最初の王朝「夏」から「西晋」(265-317)→基本的に「漢民族」の王朝が続く
→この間およそ2,500年
■匈奴・羯・鮮卑(モンゴル系民族)氏・羌(チベット系民族)の台頭
→異民族「五胡」が西晋を滅ぼす
■華北→「五胡」の国々が興亡を繰り返す→五胡十六国時代へ突入
■「漢民族」は華南へ遷都(南朝成立)へ
→「東晋」(317-420)→「宋」(420-479)→「南斉」(479-502)
→「梁」(502-557)→「陳」(557-589)
■華北→鮮卑族の拓跋部が建てた「北魏」(386-534)が統一(北朝の成立)
■宇文部(匈奴族とも鮮卑族とも言われる)の建てた「北周」(557-581)
→後継王朝である「隋」(581-619)が589年に南朝の陳を滅ぼす
→約3世紀ぶりに支那全土を再統一
■再統一を成した「隋」のポイント
☆純然たる「漢民族」の王朝ではない
(「隋」王室の楊氏や「唐」王室の李氏にも言える)
理由→3世紀もの間「五胡」によって華北が支配された結果、
華北の「漢民族」は北方民族との混血が進んで五胡化されてしまったから。
ここからが特に重要!
更に追い打ちをかけたのが「唐」(618-907)の滅亡。「隋」「唐」は五胡化されたとはいえ、まだまだ「漢民族」としての血を残していた。しかし、蒙古系契丹族が「遼」(916-1125)を建てたことで、支那の歴史は劇的な変質を遂げた。
「唐」滅亡後、支那には主として、中原(支那の中心地)に「五代」と呼ばれる五つの王朝が、その外縁部に「十国」と呼ばれる国々が相次いで興亡した。いわゆる「五代十国」の乱世である。この時代、中原に興亡した「漢民族」の王朝であるはずの五代諸王朝は、何と蒙古系契丹族の王朝「遼」に臣従(臣下として仕えること)していたのだ。
これが何を意味していたのか。つまり、支那世界における「天命」正統性が、「漢民族」から異民族へ移ったことを意味しているのだ。そして、これは女真族の「金」(1115-1234)や蒙古族の「元」(1206-1388)へと継承されていった。「元」王朝のあと、久々に「漢民族」の王朝「明」(1368-1661)が成立したが、「天命」は再び異民族である満州族の王朝「清」に移ってしまったのである。
以上より、「隋」「唐」以後の支那は、異民族王朝のオンパレードとも言える。とてもじゃないが「漢民族」の国の歴史とは言い難い。つまり、「外国支配」も含めて、強引に一つの国家として歴史を成立させようとしているだけの話なのだ。