>南京大虐殺の誤報の訂正を求めた連隊
投稿者: mirokuninoti 投稿日時: 2005/08/27 01:54 投稿番号: [21075 / 52541]
がいしゅつだが本当にひどい話だね〜。http://members.at.infoseek.co.jp/jhistory/nanking/asahi.html
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記者は、60(1985)年12月20日、宮崎支局で中村支局長に会い、インタビューを行った。
――「朝日」で報道した日記の筆者は、故河野氏以外に該当者はいないと思われるがどうか。本当にその人物は都城23連隊の元兵士か。
「日記の持ち主はまぎれもなく元23連隊の方のものだ。その方は北郷村で昭和49(1974)年に腎臓病で死去している。河野氏以外に該当者がいる。当方とそちらの資料が違うのだろう。連隊会の調査不足でないか」
――では、昭和59(1984)年8月4日夕刊の記事には一切のフィクション、デッチあげはないというわけか。
「全くない。あの記事はすべて正しい。昭和60(1985)年2月24日の宮崎版にのった記事は、訂正記事ではない。連隊会の方から抗議があった事実を掲載したまでだ」
――取材の続き、手順は十分にふんだのか。記事を書くまでに、社内でも十分に検討したのか。
「南京虐殺については、西部本社、また東京本社などでもこの問題を専門にしている記者が、本多勝一氏をはじめかなりいる。記事掲載にあたっては、そういった記者とも相談し、十分に資料をつきあわせて書いた。フィクションやデッチあげがあるというのであれば、論理的に書簡で指摘していただければ、満足のいく回答をすることにやぶさかではない」
――日記の信ぴょう性については、コメントをしている大阪市大の広川助教授の他に、直接見せて確認をしたか。
「本州に住むある教授に見せてもらった。その人の名は、先方の了解を得られれば答えてもよい」
――日記は現在、どうなっているのか。
「日記は遺族に返した。当方にはコピーがある。遺族が名前の公表を拒否されている以上、公開はできない。私としても体を張ってニュース源を守らなくてはならない」
朝日のベテラン記者である中村支局長が、記事の真実性を強調し、逆に「連隊会の方の調査不足」とまで言い切ったことには、いささか驚きを覚えた。
彼が言うように、河野氏以外に昭和49(1974)年に腎臓病で死去した元兵士が北郷村にいるのか。連隊会の調査は十分であったか。
調査を担当した中山事務局長らは、北郷村の3つの寺にあった過去帳にあたって、河野氏以外に該当者はいなかったと判断した。が、過去帳にのらなかった人もいるのではないか。河野氏の名前が見つかった恵超寺の荒木住職は、「もちろん、宗教が違えば過去帳に名前はのりませんよ」という。
ならば連隊会の調査は完璧とは言えない。連隊会の協力を得て、宮崎県が発行した23連隊の復員名簿に載っていた北郷村出身者23名の動向を追った。
その結果、23名のうち死亡が判明したのは10人。内訳は戦死者2人。残り8人は昭和27(1952)年、34(1959)年、48(1973)年、49(1974)年、54(1979)年、58(1983)年、59(1984)年、60(1958)年に一人ずつ死去している。
やはり昭和49(1974)年に腎臓病で亡くなった、と「朝日」が報じた人物は、同年9月25日に死去した河野美好氏の他には存在しない。
しかも、その後の連隊会の調べで河野氏が南京事件当時はまだ召集(しょうしゅう)されずに内地にいたというのである。
「朝日」の記事は決定的に矛盾している。虚偽の内容が伝えられている。総合的に判断して書かれたのが、昭和60(1985)年12月27日付、本紙一面トップ記事である。
「南京事件の日記発見報道/朝日支局長が“自作自演”/執筆者存在せず/戦友会が調査し判明」との見出しで、次のようなリードで報じたのである。
日中戦争中の昭和12年暮れ、日本軍が南京を占領した際に、「南京大虐殺」が行われたと戦後、報道し続けている朝日新聞は、昭和59年8月初めにも、南京に入城した兵士が残した日記と写真が見つかり、「無差別大量殺人を物語る歴史的資料」と大々的に報じたが、その後の関係者の調査で、これが全くのデタラメで「朝日」記者によるねつ造であることが判明した。同記者は、記事の信ぴょう性を高めるために、虐殺の様子から兵士の苦悩、家人の談話までいかにもそれらしく描写し、読者のコメントまでのせるなど極めて巧妙で悪質なやり方をしていた。朝日新聞側が謝罪、訂正記事の掲載を拒否し続けていることに対して、関係者は告訴も含めて、対応を検討している。「朝日」記者は最近でも、祖国を捨てて命がけで脱出する難民を「出稼ぎ難民」とわい曲したり、自衛隊幹部を「お前など飛ばすのは簡単」などとどう喝するなどして社会問題化したが、今回の「ねつ造報道」も、ジャーナリストの論理から完全に逸脱した“犯\xBA
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記者は、60(1985)年12月20日、宮崎支局で中村支局長に会い、インタビューを行った。
――「朝日」で報道した日記の筆者は、故河野氏以外に該当者はいないと思われるがどうか。本当にその人物は都城23連隊の元兵士か。
「日記の持ち主はまぎれもなく元23連隊の方のものだ。その方は北郷村で昭和49(1974)年に腎臓病で死去している。河野氏以外に該当者がいる。当方とそちらの資料が違うのだろう。連隊会の調査不足でないか」
――では、昭和59(1984)年8月4日夕刊の記事には一切のフィクション、デッチあげはないというわけか。
「全くない。あの記事はすべて正しい。昭和60(1985)年2月24日の宮崎版にのった記事は、訂正記事ではない。連隊会の方から抗議があった事実を掲載したまでだ」
――取材の続き、手順は十分にふんだのか。記事を書くまでに、社内でも十分に検討したのか。
「南京虐殺については、西部本社、また東京本社などでもこの問題を専門にしている記者が、本多勝一氏をはじめかなりいる。記事掲載にあたっては、そういった記者とも相談し、十分に資料をつきあわせて書いた。フィクションやデッチあげがあるというのであれば、論理的に書簡で指摘していただければ、満足のいく回答をすることにやぶさかではない」
――日記の信ぴょう性については、コメントをしている大阪市大の広川助教授の他に、直接見せて確認をしたか。
「本州に住むある教授に見せてもらった。その人の名は、先方の了解を得られれば答えてもよい」
――日記は現在、どうなっているのか。
「日記は遺族に返した。当方にはコピーがある。遺族が名前の公表を拒否されている以上、公開はできない。私としても体を張ってニュース源を守らなくてはならない」
朝日のベテラン記者である中村支局長が、記事の真実性を強調し、逆に「連隊会の方の調査不足」とまで言い切ったことには、いささか驚きを覚えた。
彼が言うように、河野氏以外に昭和49(1974)年に腎臓病で死去した元兵士が北郷村にいるのか。連隊会の調査は十分であったか。
調査を担当した中山事務局長らは、北郷村の3つの寺にあった過去帳にあたって、河野氏以外に該当者はいなかったと判断した。が、過去帳にのらなかった人もいるのではないか。河野氏の名前が見つかった恵超寺の荒木住職は、「もちろん、宗教が違えば過去帳に名前はのりませんよ」という。
ならば連隊会の調査は完璧とは言えない。連隊会の協力を得て、宮崎県が発行した23連隊の復員名簿に載っていた北郷村出身者23名の動向を追った。
その結果、23名のうち死亡が判明したのは10人。内訳は戦死者2人。残り8人は昭和27(1952)年、34(1959)年、48(1973)年、49(1974)年、54(1979)年、58(1983)年、59(1984)年、60(1958)年に一人ずつ死去している。
やはり昭和49(1974)年に腎臓病で亡くなった、と「朝日」が報じた人物は、同年9月25日に死去した河野美好氏の他には存在しない。
しかも、その後の連隊会の調べで河野氏が南京事件当時はまだ召集(しょうしゅう)されずに内地にいたというのである。
「朝日」の記事は決定的に矛盾している。虚偽の内容が伝えられている。総合的に判断して書かれたのが、昭和60(1985)年12月27日付、本紙一面トップ記事である。
「南京事件の日記発見報道/朝日支局長が“自作自演”/執筆者存在せず/戦友会が調査し判明」との見出しで、次のようなリードで報じたのである。
日中戦争中の昭和12年暮れ、日本軍が南京を占領した際に、「南京大虐殺」が行われたと戦後、報道し続けている朝日新聞は、昭和59年8月初めにも、南京に入城した兵士が残した日記と写真が見つかり、「無差別大量殺人を物語る歴史的資料」と大々的に報じたが、その後の関係者の調査で、これが全くのデタラメで「朝日」記者によるねつ造であることが判明した。同記者は、記事の信ぴょう性を高めるために、虐殺の様子から兵士の苦悩、家人の談話までいかにもそれらしく描写し、読者のコメントまでのせるなど極めて巧妙で悪質なやり方をしていた。朝日新聞側が謝罪、訂正記事の掲載を拒否し続けていることに対して、関係者は告訴も含めて、対応を検討している。「朝日」記者は最近でも、祖国を捨てて命がけで脱出する難民を「出稼ぎ難民」とわい曲したり、自衛隊幹部を「お前など飛ばすのは簡単」などとどう喝するなどして社会問題化したが、今回の「ねつ造報道」も、ジャーナリストの論理から完全に逸脱した“犯\xBA
これは メッセージ 21042 (monmonmontam さん)への返信です.