<丶`д´>世界一優秀な善徳大王
投稿者: hh19951995 投稿日時: 2008/02/09 08:06 投稿番号: [1971 / 2154]
611年、高句麗軍は、総勢113万人の隋軍を撃退。
この大勝利は、日本の善徳のおおきみの支援の賜である。
しかし、663年、日本百済高麗連合軍は、白村江で、新興の唐新羅軍に敗れ、朝鮮半島を失った。
【今日は何の日】611年:隋の煬帝、高句麗へ遠征
2月8日8時8分配信 サーチナ・中国情報局
612年2月8日、隋の煬帝(ようだい)は高句麗に出兵した。
煬帝(569−618年、在位604−618年)は隋の第2代皇帝。中国史上、類を見ない暴君とされる場合が多い。
隋の初代皇帝の文帝の第2子として生まれ、581年に文帝が隋を建国すると北方の守りに就く。589年には南朝最後の王朝、陳の攻略で軍を指揮。その後、兄の勇を失脚させて皇太子になった。
604年、文帝の死去に伴い即位。父を殺害し、帝位を奪ったとする噂も広まったが、皇太子の地位は安定しており、殺害の動機が見当たらないことから、俗説とされている。
即位した煬帝は、百万人以上の民衆を動員して大運河の建設を進め、黄河、淮河、長江なども経由して現在の天津と杭州を結ぶ運河を完成。また、積極的に対外遠征を行い、吐谷渾(とよくこん)、流求(現在の台湾)などに出兵して隋の勢力を拡大した。
さらに、朝鮮半島の大部分を支配していた高句麗が、隋に対抗するため突厥と結びつこうとしたため、高句麗遠征を決意。
船大工を動員して611年には300隻の船を造らせ、自ら大運河を通って現在の北京市に入り、各地から膨大な数の兵士、戦車、民夫を集めた。翌612年2月8日、総勢113万人の軍勢を率いて出兵。隋軍は陸路と水路に分かれて高句麗を目指した。
しかし、高句麗軍は隋軍を撃退。煬帝は計3度の遠征を行ったがいずれも失敗に終わり、隋の権威は失墜した。また、農民や豪族の反発を招き、国内では反乱が多発した。
各地で群雄が割拠する中、煬帝は難を避けて江都(揚州)の離宮に移り、自暴自棄な生活を送っていたが、618年に兵士によって殺された。
なお、煬帝が建設した大運河は分裂が長かった中国南北の経済を結びつけ、後世まで役立った。また高句麗は、周辺地域の「王」が中国皇帝の許可を得て支配権を正当化する「冊封」を拒否。隋側にすれば中華思想に基づく「国際秩序」を乱すとして看過できなかった。
このため、煬帝の二大事業で、政権の命取りになった運河建設と高句麗遠征は、歴代皇帝と同様の政治理念に基づくもので、個人的な欲望を強調する「煬帝暴君論」は一面的との批判もある。
(編集担当:梅本可奈子・如月隼人)
これは メッセージ 1 (zak_k_OO02 さん)への返信です.
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