朝鮮通信使 33
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/11/07 10:12 投稿番号: [376 / 402]
深川!どした、返事がないぞ!(笑い
前項に書いた『通信使成敗』の場面はオレの悪ふざけだが事実とたいした違いはないはずだし、重要でもない。知りたいのは知る得る限りの『事実』だ。というのも事件の背景とし恣意的と思われる『事実』が語られるからだ。
デジタル版 日本人名大辞典+Plus
鈴木伝蔵 すずき‐でんぞう?‐?
江戸時代中期の通詞。
対馬府中藩につかえる。宝暦13年(1763)朝鮮通信使が日本に着く前、嵐にあった。伝蔵は使節の一員の崔天宗とはかり、進物の朝鮮人参が潮水でくさったといつわり、売り払って大金を得たが、天宗には与えず大坂の宿で殺害した。のち事件が露見して処刑された。
日本の「権威ある辞典」が、「権威ある嫌日学者」によって汚されていることは常識と心得なければならない。たとえば平凡社の百科事典では「従軍慰安婦」「性奴隷」というおどろおどろしい造語が従来の熟語のように使われ、朝鮮人の言い分どおり世界に類を見ない日帝の暴挙、『従軍慰安婦』の悲劇として説明されている。今回は講談社だが、断言調の説明に、なぜか引用元は示されていない。
動機は恋の遺恨とか親の敵討ちなど、事件後さまざまな噂が流れたが、もしこの辞典を書いた学者に傍証を求めても‘そういう噂があった‘としか説明できないだろう。便利なものである,噂の一つを自由に選択採用できるのなら、いかようにも語れるだろう。もし、この文章に目を留めて、講談社の説明に裏づけがあるという人がいるのならぜひご紹介願いたいものだ。
オレは残っている資料からそれなりに事件の真相を推測してみたい。
まず鈴木伝蔵の風体を手配書から見てみよう。
鈴木伝蔵人相書
行年二十六才
1、 背ノ高サ五尺二寸 ( 約 157 センチ )、中肉ニテ顔ノ色白ク、目ハ少シ大キク ( 顎ノ ) 張り強シ、人体骨柄 賤シカラズ、
2、其節 ノ着類 黒羽二重ノ袷 、 下ニハ郡内大嶋 ノ襦袢
右体之者見付次第訴出候 ハバ、御褒美被下候間可遂吟味者也
157センチといえば江戸時代の平均である。太りもやせてもいず、人品卑しからずとあるから教養も感じられる青年だったことが分かる。また目は大きめで色白く顎骨が出ているとあるから現代でいえば「石黒 賢」を思い浮かべればいいのでないか。好男子である。年からいって独身、妻帯どちらともいえるが、その点に触れられたものはない。
鈴木伝蔵はしばらく寺町八丁目に潜伏したのち、中国筋をめざして逃亡したが、八田が長吏を頭とする在方を含めて非人組織をうまく活用した結果、池田村で長吏・小頭が鈴木を発見し、小浜村で身柄拘束。
『悲田院長吏文書』
直後の巷間では、
「鈴木伝蔵と云うた対馬者が、何とやらいふた韓人をころして、大さわぎじや
あった。 中略 是皆つしまの平田将監と云人の欲心からでたさう動じや
とさ。伝蔵は、吟味すんで、尻なし川の韓人の舟の前で、首打たれたとさ。
中略 美男じゃあった故に「あれかいな、あれがなんの人ころそうぞ。公儀と
いふものは、むごいものじゃ」といふたとさ。『上田秋成集』所収「膽大心小
録」岩波書店」同時代の記録である。
対馬の平田将監なるものの名が見えるが、この一文だけのようである。根拠のない『うわさ』のひとつに過ぎないといえる。
少なくとも事件発生当時から庶民は伝蔵に同情心を持っていた。そしてその同情心は2年後からの歌舞伎芝居になってなんども上演されることになる。
「1764年(明和元)年には『長崎丸山細見図』として脚色され、2年後の1767年2月28日人気劇作家並木正三が「世話料理鱸包丁」という作品に織り込み大坂角の芝居嵐雛助座で上演された。」しかし、「わずか二日の興行で打ち切りとなった。幕府の監視の目は、国際的事件の舞台化にきびしく、善隣関係への配慮から中止命令となったが、二年前の大事件の事実に近い脚色は大人気を博し、新しい衣装等で歌舞伎の新機軸をみせた。上演禁止の後26日から「今織蝦夷錦」と開作され上演された。
今度は、唐人・朝鮮通信使を削り、蝦夷人に代え、事件の舞台を奥州に移して検閲の目をくぐり抜けるしたたかさである。観客は裏目読みで崔天宗事件を重ねた。この作品の影響を受けて二十五年後に書き上げられ1789年寛政元年、同じ角の芝居中山福蔵座で上演された「漢人韓文手管始」(かんじんかんもんてくだのはじまり)4幕12場の通し狂言は鈴木伝蔵が寺に隠れた史実を取り入れている」
「同じ題材の作品として1796年寛政8年作者不詳「けいせい花大湊」1799年寛政11年の「唐土織日本手利」」「1792年寛政4年浄瑠璃の「世話仕立唐の縫針」がある。」ネットより。
つづく
前項に書いた『通信使成敗』の場面はオレの悪ふざけだが事実とたいした違いはないはずだし、重要でもない。知りたいのは知る得る限りの『事実』だ。というのも事件の背景とし恣意的と思われる『事実』が語られるからだ。
デジタル版 日本人名大辞典+Plus
鈴木伝蔵 すずき‐でんぞう?‐?
江戸時代中期の通詞。
対馬府中藩につかえる。宝暦13年(1763)朝鮮通信使が日本に着く前、嵐にあった。伝蔵は使節の一員の崔天宗とはかり、進物の朝鮮人参が潮水でくさったといつわり、売り払って大金を得たが、天宗には与えず大坂の宿で殺害した。のち事件が露見して処刑された。
日本の「権威ある辞典」が、「権威ある嫌日学者」によって汚されていることは常識と心得なければならない。たとえば平凡社の百科事典では「従軍慰安婦」「性奴隷」というおどろおどろしい造語が従来の熟語のように使われ、朝鮮人の言い分どおり世界に類を見ない日帝の暴挙、『従軍慰安婦』の悲劇として説明されている。今回は講談社だが、断言調の説明に、なぜか引用元は示されていない。
動機は恋の遺恨とか親の敵討ちなど、事件後さまざまな噂が流れたが、もしこの辞典を書いた学者に傍証を求めても‘そういう噂があった‘としか説明できないだろう。便利なものである,噂の一つを自由に選択採用できるのなら、いかようにも語れるだろう。もし、この文章に目を留めて、講談社の説明に裏づけがあるという人がいるのならぜひご紹介願いたいものだ。
オレは残っている資料からそれなりに事件の真相を推測してみたい。
まず鈴木伝蔵の風体を手配書から見てみよう。
鈴木伝蔵人相書
行年二十六才
1、 背ノ高サ五尺二寸 ( 約 157 センチ )、中肉ニテ顔ノ色白ク、目ハ少シ大キク ( 顎ノ ) 張り強シ、人体骨柄 賤シカラズ、
2、其節 ノ着類 黒羽二重ノ袷 、 下ニハ郡内大嶋 ノ襦袢
右体之者見付次第訴出候 ハバ、御褒美被下候間可遂吟味者也
157センチといえば江戸時代の平均である。太りもやせてもいず、人品卑しからずとあるから教養も感じられる青年だったことが分かる。また目は大きめで色白く顎骨が出ているとあるから現代でいえば「石黒 賢」を思い浮かべればいいのでないか。好男子である。年からいって独身、妻帯どちらともいえるが、その点に触れられたものはない。
鈴木伝蔵はしばらく寺町八丁目に潜伏したのち、中国筋をめざして逃亡したが、八田が長吏を頭とする在方を含めて非人組織をうまく活用した結果、池田村で長吏・小頭が鈴木を発見し、小浜村で身柄拘束。
『悲田院長吏文書』
直後の巷間では、
「鈴木伝蔵と云うた対馬者が、何とやらいふた韓人をころして、大さわぎじや
あった。 中略 是皆つしまの平田将監と云人の欲心からでたさう動じや
とさ。伝蔵は、吟味すんで、尻なし川の韓人の舟の前で、首打たれたとさ。
中略 美男じゃあった故に「あれかいな、あれがなんの人ころそうぞ。公儀と
いふものは、むごいものじゃ」といふたとさ。『上田秋成集』所収「膽大心小
録」岩波書店」同時代の記録である。
対馬の平田将監なるものの名が見えるが、この一文だけのようである。根拠のない『うわさ』のひとつに過ぎないといえる。
少なくとも事件発生当時から庶民は伝蔵に同情心を持っていた。そしてその同情心は2年後からの歌舞伎芝居になってなんども上演されることになる。
「1764年(明和元)年には『長崎丸山細見図』として脚色され、2年後の1767年2月28日人気劇作家並木正三が「世話料理鱸包丁」という作品に織り込み大坂角の芝居嵐雛助座で上演された。」しかし、「わずか二日の興行で打ち切りとなった。幕府の監視の目は、国際的事件の舞台化にきびしく、善隣関係への配慮から中止命令となったが、二年前の大事件の事実に近い脚色は大人気を博し、新しい衣装等で歌舞伎の新機軸をみせた。上演禁止の後26日から「今織蝦夷錦」と開作され上演された。
今度は、唐人・朝鮮通信使を削り、蝦夷人に代え、事件の舞台を奥州に移して検閲の目をくぐり抜けるしたたかさである。観客は裏目読みで崔天宗事件を重ねた。この作品の影響を受けて二十五年後に書き上げられ1789年寛政元年、同じ角の芝居中山福蔵座で上演された「漢人韓文手管始」(かんじんかんもんてくだのはじまり)4幕12場の通し狂言は鈴木伝蔵が寺に隠れた史実を取り入れている」
「同じ題材の作品として1796年寛政8年作者不詳「けいせい花大湊」1799年寛政11年の「唐土織日本手利」」「1792年寛政4年浄瑠璃の「世話仕立唐の縫針」がある。」ネットより。
つづく
これは メッセージ 1 (hendazo04 さん)への返信です.
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