南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行は事実

Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー

[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | [ メッセージ # オフセット ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

◆南京大虐殺という醜悪なる歴史の捏造③

投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/22 01:47 投稿番号: [28802 / 29399]
当時の国民党や八路軍の連中がどれだけ酷いことをしてきたか。

ニューヨーク・タイムズのダーディン記者が、当時の様子を「支那軍による焼き払いの狂宴」と題して次のようにレポートしています。

「昭和12(1937)年12月7日、日本軍が句容を越えて進撃し始めたことが支那軍による焼き払いの狂宴の合図となった。
南京に向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。
村ぐるみ焼き払われたのである。
農業研究書、警察学校その他多数の施設が灰塵に帰した。
火の手は南門周辺地区と下関(シャーカン)にも向けられた。
支那軍による焼き払いの損害は優に3000万ドルにも及ぶ。
これは日本軍の何ヶ月にもわたって行われた空襲による損害よりも大きい。」

そしてこの12月7日に、蒋介石や馬超俊市長は、自分たちだけさっさと飛行機で逃亡しているのです。

つまり、蒋介石や馬超俊市長は、それまで南京を国民党の本拠地としていながら、日本軍が近づいたと知るや否や、20万の市民と約5万の敗残兵を置き去りにして、そくさくと逃亡している。
あまりにも無責任です。

一方、南京攻略をした松井軍司令官は、攻城戦に際して、南京市内の安全区に対する砲爆撃を厳禁し、占領翌日の14日には、安全区の出入り口全てに歩哨を立てて許可のない者の入区を禁止して庇護してもいます。
実際、14日に安全区の視察のため入区しようと思ったが、歩哨に峻拒(しゅんきょ)されて果たせなかったという東京裁判の供述もある。それほど厳しく安全区内への出入りを管理していたのです。

金陵大学病院医師マッカラム氏は、東京裁判に提出した日記の中で次のように述べている。

「(安全区に入ってきた日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。
若干のたいへん愉快な日本兵がいました。
私は時々日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました」

日本人を憎悪していたマギー牧師でさえ
「安全区は難民の“天国”だったかも知れない」とさえ述べている。

安全区国際委員会の書記長スマイス博士(米)も、その調査報告書の中で「住民のほとんどはここに集まっていた。難民区内は一件の火災もなく平穏であった」と述べている。

それほどまでに日本軍は、市街地の統制をきちんと取り計らっていたのです。

◆南京大虐殺という醜悪なる歴史の捏造②

投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/22 01:47 投稿番号: [28801 / 29399]
南京に従軍した村田和志郎氏(第18師団歩124歩兵伍長)の日記に、こんな記載があります。

<引用> ------------------------ -

湖州は浙江省の首都、呉興県政府の所在地。

城壁をはいると家屋は焼けて一面の焼け野原となり、殆ど瓦礫の巷と化していた。

とくに商店街は影も形もなく、処々に多数の支那兵の死骸が生々しい姿で倒れ転がっていた。誠に見るも無残な有様であった。

街には人影がみられない。

それでもどこからか若い女が三人でてきた。

我々の姿を見ると、彼女らは我々をぽつんと残った唯一の焼け残りの小屋へ招きいれ、いち早くズボンを脱ぐと、進んで下半身を丸出しにした。

助けてくれと一心にわれわれを拝んだ。

我々は三名で巡察の途中で思いかけぬ出来事に遭遇してしまった。

一人は娘、残る二人は人妻らしい体つきだった。
自分達は彼女らをそっとして置いてやった。

それでも恐怖に怯え、彼女ら三人はおののいて、脱いだ紺色のズボンを容易に身につけようとしなかった。

体を提供しても生命さえ助けてもらえれば、これに越したことはないと観念していたかに見えた。

また、ある民家では中年の女性が寝てうめいており、下半身を露出して指さして示し、何かわからぬ言葉を喋っていた。

支那兵は逃亡の際、この女性に迫り、拒絶されると腹を立て、銃剣を一突きにそこに突き刺したに違いなかった。

夥しい出血で苦しんで訴えている。

すぐに治安維持会(既に結成されていた中国人の自治組織)に連絡して看護員を連れてきた。さて助かったかどうか。

このようにして略奪と暴行のあとを見せつけられた。
--------------------------------

当時の支那には、政府がありません。

清が滅びて、地方軍閥による内乱状態にあった。

内乱状態の中で、被害を受けるのは、決まって武器を持たない一般市民です。

そして武器を持った支那の軍閥の代表格が国民党だった。
彼らは、支那の都市を襲い、市民に対して好き放題の乱暴狼藉を働いていた。

日本は行きがかり上、やむなく、彼らを追い払っていたのです。そしてそのひとつが、南京だった。

南京市は、乱暴狼藉軍団である国民党が、勝手に乱入して本拠地にしていたから、日本は叩いたのです。

そして市民の生活に平安を取り戻した。

なかには、市民にまぎれて、日本軍に悪さをしかける国民党のスパイや、共産党のスパイがいた。

こうした連中は、市民の協力を得て、日本軍は逮捕し、国際法上適法な範囲で軍紀に照らして処罰した。そういう連中は治安維持のために殺害した。これは当然のことです。

◆南京大虐殺という醜悪なる歴史の捏造①

投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/22 01:46 投稿番号: [28800 / 29399]
だいたい、戦いの最中にドンパチやりながら、「使用弾薬何発。残り弾薬数何発」と、何度も伝令を出して司令部に報告を入れなければならないのが日本の軍隊です。
それだけ日本軍は物資に乏しかった。

そのあたり、使っている武器にも、その性格がよく出ています。

日本軍の主力銃は、三八指揮歩兵銃です。
この銃は、いわゆる元込め式の単発銃です。
弾を一発一発込めて、装填してから撃つ。
いわゆる「乱射」や「集団虐殺」のようなこと自体、なじまないのです。
ハナからそういうことを想定した銃ではない。

だいたい単発銃で、30万人をいったいどうやって殺すのか。

30万人に、1発ずつ銃弾を撃ち込んで殺すとしても、それには30万発の弾薬がいります。
そんな弾薬、日本軍は持っていません。

機関銃で殺したに違いない?!

バカなことを!

当時の日本軍の機関銃は、米国製の1秒間に何発という高性能機関銃ではない。

パン・・・パン・・・パン・・・と断続的に撃つのが精いっぱい。1分間に打てる弾はおおむね40発。しかも5分も撃ったら過熱して、砲身を冷やさないと、焼き付いた。

お暇な方は計算してみてください。それで30万人殺すには、いったい何日かかるのか。

かつてそのことを指摘した人がいます。
そしたら支那いわく「日本兵は日本刀で、何万人も斬り殺した」

バカをいっちゃぁいけません。日本刀はたしかに切れ味鋭いけれど、3人も斬ったら、脂にまみれて斬れなくなる。人間の体というのは、脂にまみれて斬れなくなった刀でも通せるほどヤワじゃないです。

加えて、当時のシナ人の便服というのは、めちゃめちゃ生地が厚い。銃剣で突き刺そうとしても、素人では刃が立たなかったというのも、有名な話です。

埋葬記録と犠牲者数推計(3)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/21 23:29 投稿番号: [28799 / 29399]
日本軍側の   資料には、数千   あるいは数万の単位で   捕虜を
処断した   と記録されている。   はたして、これほど   大量の
殺戮が可能だったのかと   一般民間人なら   疑問に思うだろう。
南京虐殺「マボロシ派」   などは、ハナから   否定してみせる。
ところが   近代戦において、それは   じつに容易なことだ。

例えば、1万人を殺害するのに、機関銃10丁あれば   1時間、
1個歩兵中隊200名の兵力があれば、30分で   射殺できる。
その歩兵中隊を、1個連隊では   12個隊   保有していた。
もちろん、南京に攻め込んだのは   1個連隊だけ   ではない。
しかも、捕虜の殺戮は   数時間程度で   行われたわけではない。

南京攻撃に動員された日本軍の総兵力は   10万を超えていた。
そして、大量虐殺は   南京城陥落直後の   数日間ではなく、
長期にわたる   攻防戦と占領後の掃蕩作戦の中で   発生した。
しかも、一部の無法者の犯行ではなく、組織的に   実行した。

近代軍の大兵力が、小銃や   機関銃による掃射   のみならず
銃剣による刺殺などを   数日間にわたり組織的に実行すれば、
抵抗できない捕虜の   大量殺戮は、いたって   容易だった。
参考として   南京戦にあたった将校の陣中日記を見てみよう。
以下は、歩兵第65連隊   第1大隊本部・上等兵の日記だ。

  十二月十六日
   今日南京城に物資徴発に行く。
   捕虜の廠舎失火す、二千五百名殺す。
  十二月十七日
   今日は南京入城なり(一部分)。
   俺等は今日も捕虜の始末だ。
   一万五千名、今日は山で。   大隊で負傷、戦死有り。
   (参考資料:『南京戦史資料集2』南京戦史編集委員会編)

1個大隊だけ、しかも   2日間だけで、1万7500名もの
捕虜を殺害した   という記録だ。
日本軍全体で、何日間もかけた   「捕虜処断」   の総数は、
はたして   どれほどだったのか、想像を絶する。
当時、南京に駐在していた   ドイツ外交官の   外交文書が
残されており、そこには   本国とのやりとりが記されている。
以下に   引用しよう。
(岩田勇治訳『資料・ドイツ外交官の見た南京事件』大月書店)

   南京入城のさいの   日本軍の所業については、語らぬに
   越したことはない。チンギス=ハーンを思い出さずには
   いられないほどの   徹底した破壊ぶりであった。
   (中略)
   こうして南京に残っていた女という女はまったくひどい
   目にあわされた。   これを   目の当たりにした男たちと
   このことについて話をするのは容易ではない。残忍非道な
   行為にたいする嫌悪感が、かれらの胸によみがえるからだ。

日本国内では、いまだに   この虐殺事件をめぐって   「論争」が
止まない。   しかし、虐殺そのものの否定や   学問を装う
自由主義史観の「学者」もどきの主張も含めて、これらの論は
国際社会という舞台では   歯牙にもかけられない   というのが
実情であり、狭い日本の   ごく一部でしか、通用していない。

埋葬記録と犠牲者数推計(2)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/21 23:27 投稿番号: [28798 / 29399]
前述した   慈善団体などによる   遺体の   収容・埋葬に関して
とくに   多数の埋葬作業にあたった団体としては、「紅卍会」と
「崇善堂」   があり、1937年12月から   38年3月までに
両者併せて   約15万5000体以上を   埋葬している。
東京裁判でも   南京虐殺事件の   最大の証拠とされたのが、
これら   慈善団体などによる   作業報告だった。

南京虐殺マボロシ派は、こうした数字はウソだ   と決め付ける。
なかには、崇善堂は民間の葬儀屋なので、多額の報酬を得るため
数を水増ししているのだ   という根拠のない説を唱える者もいる。
しかし、崇善堂は   日本軍の依頼にもとづき業務にあたっていた。
軍が依頼して   報酬を支払ったのであり、当然   その費用は
公金であるから、最低限の実績確認・検査は   行っている。

仮に   水増しがあったとしても、日本の役人の目を   欺くのには
限度というものがある。   なお、通常   戦場の掃除は自軍兵士や
捕虜が実行する。   軍がわざわざ民間団体に   委嘱したことは、
捕虜を大量に殺害したため労働力不足となったうえ、軍だけでは
処理しきれないほどの遺体が存在していた事実を   示している。

紅卍会と   崇善堂による遺体収容は、南京行政区の中だけであり、
周辺地域や   南京沿いを除く   揚子江などは   含まれていない。
さらに、遺体埋葬を行ったのは   この2つの組織だけではなく、
紅十字会(赤十字)など   複数の機関も   別途実施した。
したがって、南京周辺だけに限っても   約20万以上の   遺体が
存在していたということは、間違いない事実だ。

大量の遺体が遺棄されていたという事実は、日本軍の関係者も
記録している。   たとえば、第16師団の佐々木到一支隊長は
日記に   次のように   記している。
「この日、わが支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は1万数千に
上り   その外、装甲車が江上に撃滅したもの   ならびに各部隊の
俘虜を合算すれば、我が支隊のみにて2万以上の敵は解決されて
いる筈である。(中略)   午後2時ごろ、概して掃蕩を終わって
背後を安全にし、部隊を纏めつつ前進、和平門にいたる。」

「その後俘虜続々投降し来たり数千に達す、激昂せる兵は上官の
制止を肯かばこそ、片はしより   殺戮する。   多数戦友の流血と
十日間の辛酸を顧みれば   兵隊ならずとも『皆やってしまえ』と
言いたくなる。」
「白米は   もはや一粒もなし、城内には   有るだろうが、俘虜に
食わせるものの   持ち合わせなんか   我が軍には無い筈だった。」
(佐々木到一少将私記「南京戦史資料集」南京戦史編集委員会編)

佐々木少将が   大ウソつき   でなければ、支隊のみで2万以上の
敵兵を「解決」したこと、俘虜だと認識しながら   殺戮したこと、
食料が底をつき   俘虜の給養は不可能であった状況   などが判る。
このほかにも   数千あるいは数万の単位で捕虜を処断した事実を
記録している軍関係の資料が多数   残されている。
では、短期間に   これほどの大量殺戮が   可能だったのだろうか。

埋葬記録と犠牲者数推計(1)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/21 23:26 投稿番号: [28797 / 29399]
南京城の内外には、夥しい数の   集団埋葬地が   存在している。
南京大学(旧金陵大学)   天文台そばの   金陵大学難民収容所及
遇難同胞記念碑、紫金山を望む   中山陵(孫文陵)近くにある
集団埋葬地なども   その一つ。   また、北極山の   至る所に
埋められた遺体叢葬の記念碑の数は、じつに   二千を超える。
犠牲者の遺体は   次の5つのルートで   埋葬、処理された。

①   国際委員会によるもの
  同委員会のメンバーであるベイツは、戦後の東京裁判で証言し、
  南京陥落後   72時間以内に、国際委員会が雇った   労働者が
  埋葬した軍人・市民の遺体は「3万体に達した」と語っている。
②   慈善団体や宗教団体等によるもの
  南京城内外に放置された   遺体の埋葬作業にあたった   団体で、
  紅卍会   43,123体、   崇善堂   112,267体、
  中国赤十字社   22,683体、合計   約178,000体の
  埋葬記録がある。さらに   同善堂という団体が7,000体余
  を埋葬したと記録されている。
③   市民の埋葬によるもの
  市民の手で   合計36,000体あまりを収容・埋葬している。
  湖南の木材商   盛世征、昌開運が出資して行った   水西門外の
  遺体収容が28,730体、城南市民の   張瀉儒、楊広才らが
  難民を組織して   中華門外の   7,000体あまりを   収容。
  また、回教徒の埋葬隊が収容・埋葬した遺体は   約400体。
④   汪兆銘政権によるもの
  汪兆銘政権(南京政府)   の市、区の両級機関の   共同組織が
  7,400体を収容・埋葬したと記録され、うち第一区役場が
  1938年2月に   同区の所轄内で   1,233体を収容。
  下関区役場が   37年12月15日から   38年1月までに、
  3,240体を収容。   南京市政公署の   監督官高冠吾が  
  38年12月から   39年の   春にかけて、衛生局に命じて
  中山門外の霊谷寺、馬群一帯の3,000体余を   収容した。
⑤   南京進駐日本軍によるもの
  日本軍の資料では、部隊を動員して約15万体を焼却・処理。
  うち、南京停泊場の司令部の   足立少佐と   大田寿男が率いた
  部隊は、10万体を   長江に投げ捨てたり、江北まで運んで  
  焼却・土中に埋めた   と記録されている。  
  また、南京侵攻部隊が処理したものは、5万体とされる。  

上述した   遺体収容・埋葬処理の記録を   単純に加算すると
40万体にのぼる。   ただし、収容・処理された   遺体には
重複して集計されたものも含まれている可能性がある。
また、捕虜や市民ではなく、交戦中に戦死した中国軍兵士の
遺体も相当数   含まれている   と考えるべきだろう。

なお、日本軍関係者の記録によれば、揚子江に   投げ捨てたり、
城外に搬送して   密かに埋めた遺体も   少なくはない。
収容できなかったものは記録されず、正確な数を把握することは
残念ながら   困難だ。   したがって、公式には   東京裁判が  
認定した犠牲者数「30万人以上」   としか   言えないのだ。

◆すでに決着済みの「強制連行」という大嘘

投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/21 19:06 投稿番号: [28796 / 29399]
韓国人女性、呉善花氏

従軍慰安婦という言葉は最近になって出てきたものです。慰安婦がいたことは事実ですが、強制的に戦地へ連れて行くことなどは絶対にあり得ません。朝鮮も同じ国内でしたから、法治国家として司法の三審制度もあり、無法地帯ではありませんでした。もちろん、警察権力もしっかりしていました。そういう法治主義システムの網をかいくぐって、婦女子を強制的に連れて行くことなど、当時の朝鮮ではとうていできることではありませんでした。

私は韓国で生まれて二十六歳まで韓国で生活していた間、村の女を軍や総督府の官憲が 強制的に連行したといった話はいっさい耳にしたことがありません。   また、私が『生活者の日本統治時代』で、インタビューした植民地世代の韓国人の誰一人として、 そのような光景を見たことも聞いたこともないといっていますにもかかわらず、最近になってそうした話が出るなんて、まったくおかしなことだというしかありません。日本の左翼活動家が反日民族主義の活動家に入れ知恵して以来、 「そういうことがあったらしい」「そういうことがあったに違いない」「そういうことが事実あった」 というようにエスカレートしていったことは明らかです。こうして「従軍慰安婦」問題は、女子挺身他(女性の徴用者たち)と意図的に混同させられ、 大量の女たちが「従軍慰安婦」させられた、強制連行でそうさせられた、という物語がつくられ、 それがあたかも真実であるかのように韓国国内で信じられるまでになってしまったのです。


「台湾人と日本精神」   蔡焜燦(台湾人)著   より
         
引き揚げ者の中には、海南島から日本兵と共に引き揚げてきた二十名ほどの台湾人慰安婦の姿もあった。彼女達は我々と同じキャンプに収容されて台湾への帰国を待っていた。彼女らは口々に、「海南島は儲かるし、それよりも兵隊さんが喜んでくれたんです」と語っていた。そうした生の声には、日本で騒がれるような強制連行の(悲劇)などは存在しなかったことを、私のこの耳がしっかり聞いている。(略)1999年、8月号の「正論」に掲載された許文龍氏(実業家であり、李登輝総統の国策顧問)の記事も、まさしくそんな氏の客観的な歴史観と実行力の賜物だったと言っていいだろう。日本でくすぶり続ける慰安婦の「強制連行」なる問題に首を傾げた許氏は、戦時中に慰安婦だった女性を集めてその事実を明らかにしたのである。もちろん結果は、日本の一部のマスコミや学識者がヒステリックに訴えるような「強制連行」なる事実は存在しなかった。

◆屁理屈まみれの元慰安婦とやらの証言

投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/21 19:02 投稿番号: [28795 / 29399]
自称・元従軍慰安婦   算数も出来ない韓国人

韓国で元従軍慰安婦のチョン・ソウン氏が80歳で亡くなった。
朝鮮日報は次のように報じた。

『13歳のとき、インドネシアに連れて行かされ、7年間にわたって日本軍の従軍慰安婦として生きなければならなかった「挺身隊おばあさん」チョン・ソウン氏が、26日未明、慶尚南道の自宅で老患で亡くなった。80歳。
チョン氏は、1995年9月、中国で開かれた北京女性大会に、韓国代表として堂々と出席、全世界に向かって、「日本の軍医官から不妊手術を受けさせられ、金の代わりに軍票を受けた。1日平均50人ずつ、週末には100人の軍人と性関係を持たなければならなかった」などど証言。日本軍の蛮行を知らせた人物』


日本軍の蛮行を北京女性大会で話したとの事ですが、この話は100%有り得ません。

一日平均50人、週末100人と性関係を持ったとの事ですが時間的、体力的に不可能です。慰安婦の一日労働時間を15時間と仮定してみますと有り得ない数字が出てきます。

計算方法。

一日労働時間を15時間と仮定。分に直すと15×60=900分。

間の休憩時間を一回5分と定めると50人の場合で49回、よって49×5=休憩時間245分。900−245=655分。655÷50人=1人あたり13分。   100人の場合は休憩回数99回、よって99×5=休憩時間495分。900−495=405分。405÷100=1人あたり4分。

7年間の合計は、6日間が50人、週末が100人なので合わせて週400人。一年は約52週なので年間20800人。慰安婦経験は7年なので14万5600人、つまり約14万6千人と寝た。

一回あたり13分、4分では慰安婦の意味を全く成していませんし、たかが13歳の少女がこれほどまで人気が有ったとでも言うのでしょうか?大人でも身の危険がある上に、13歳の少女なら数日で普通死にます。死去が目に見えている上に年間20800回、合計14万6千回は常識の枠を超えていますので、不可能と断定する以外ありません。また、慰安婦は接客を断る自由が認められており、激務でしたらそれを理由に接客を断れたはずです。

万歩譲って可能だとしても80歳で死去したのですから、誕生年は1924,5年と計算でき13歳の時に従軍慰安婦となったのですから年は1937年となります。1937年当時のインドネシアは蘭領で日本領となったのは1942年の話です。蘭領インドネシアで日本軍の蛮行などありえない話であり完全に自己矛盾に陥っています。本当に慰安婦だったのであればこのような間違った発言は絶対にしません。

この記事を記載した朝鮮日報もおかしいと思ったのか既に記事を削除しています。明らかに少し考えれば問題点に気が付くのですがそれにも気が付かずに堂々と褒め称えている所に韓国の異常を感じます。韓国人は算数の計算も出来ないのでしょうか?また、従軍慰安婦と挺身隊は全く関係ありません。ニュースにもなる人が死去して死者を批判するのは気が進みませんが、結局の所はまた捏造者が1人逝ったに過ぎないのです。

◆慰安婦=性奴隷という噴飯モノの戯言

投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/21 18:56 投稿番号: [28794 / 29399]
=超高給だった当事の「慰安婦」=

●『軍』慰安婦急募

一、行き先     ○○部隊慰安所
一、        年齢十八歳以上三〇歳以内体
一、募集   日    十月二十七日    十一月八日

一、開催日     十一月十日頃
一、     待遇   本人面談
一、募集人員    数十名
一、希望者
京城           町一九五
朝鮮旅館内
光   二六四五
(許氏)


●慰安婦(急至)大募集

年齢   一七歳以上
勤先   後方○○   慰安
月収   三〇〇円以上   (前借三〇〇〇円迄可)
午後八時より午後一〇時迄本人   談

今井紹介所


※巡査の初任給が45円だった時代、月収300円というのは現在の価値に換算すると月収133万円以上の高給であり、軍の高級将校の給与に匹敵する。


●強制連行された慰安婦はいたか?(日本側の調査)

当時、内閣官房副長官だった石原信雄氏は、次のように明らかにしている。強制連行の証拠は見あたらなかった。元慰安婦を強制的に連れてきたという人の証言を得ようと探したがそれもどうしても証言がなかった。納得できる証拠、証言はなかったが(今に至るも発見されていない)「彼女達の名誉のために、これを是非とも認めて欲しい」という韓国側の強い要請に応えて、河野洋平氏が強制的という言葉を使ってしまったというわけです。もう少し補足しますと、この問題の初期の段階では韓国政府は、この問題をあまり問題にしたくないような雰囲気を感じたんですけれども、日本側のいま申した人物がとにかくこの問題を掘り起こして大きくするという行動を現地へいってやりましてそしてこれに呼応する形で国会で質問を行うと。連携プレーのようなことがあって、韓国政府としてもそう言われちゃうと放っておけないという、そういう状況があったことは事実です。


●強制連行された慰安婦はいたか?(韓国側の調査)

韓国で慰安婦問題の取組みの中心となっている「挺身隊問題対策協議会」は、元慰安婦として登録された55名のうち、連絡可能な40余名に聞き取りをした。論理的に話が合うか、など、検証をしつつ、その中から信頼度の高い19人を選んで、証言集を出版した。今まで何らかの機会に、強制連行されたと主張しているのは9人だが、信憑性があるとしてこの証言集に含められたのは、4人のみ。さらにそのうちの二人は富山、釜山と戦地ではない所で慰安婦にされたと主張していて、「従軍慰安婦」ではあり得ない。残る2人が、金学順さんと、冒頭の4〜5千万円相当の貯金をしたという文玉珠さんなのだが、この証言集では、強制連行されたとは述べていない。結局、韓国側調査で信憑性があるとされた証言のうち、従軍慰安婦として強制連行されたと認められたものは、ひとつもない、というのが実態である。


■アメリカ軍による北ビルマのミチナ慰安所の慰安婦からの聞き取り報告

捕虜にした朝鮮人従軍慰安婦について米軍が聞き取り調査をした記録が、戦争情報局関係資料、心理戦チーム報告書 No.49、ビルマ(1944年10月1日)に記載されている。

[募集]

1942年(昭和17年)5月、日本人の業者が朝鮮半島に赴き、東南アジアにおける「軍慰安業務」のためとして女性を募集した。高収入、家族の借金返済のための好機、軽労働等の宣伝に応じて多くの女子が慰安婦業務に応募し、200〜300円の前払い報酬を受領した。

[日常生活]

(原告の文玉珠も生活していた)ビルマのミートキーナにおいては、通常二階建ての大きな建物に住んでおり、一人一部屋を与えられていた。食事は経営者が用意したものであった。食事や生活用品はそれほど切り詰められていたわけでもなく、彼女らは金を多くもっていたので、欲しいものを買うことができた。兵士からの贈り物に加えて、衣類、靴、タバコ、化粧品を買うことができた。ビルマにいる間、彼女らは(日本軍)将兵と共にスポーツをして楽しんだり、ピクニックや娯楽、夕食会に参加した。彼女らは蓄音機(レコード・プレーヤー)を持っており、町に買い物に出ることを許されていた。

◆慰安婦強制連行の嘘・デタラメ・捏造②

投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/21 18:54 投稿番号: [28793 / 29399]
●1989年大分市の青柳敦子氏と在日朝鮮人の宋斗会氏という二人の反日運動家が「慰安婦に日本国家が謝罪と補償をする運動」を起こしました。そして原告を100人と被害者を募集しはじめたわけです。

●1990年韓国梨花大学教授尹貞玉氏は吉田証言を事実と信じ込み、挺身隊と慰安婦を同一視しました。そして日本兵29人に対し、慰安婦1人(ニクイチ)のごろ合わせを用いて、慰安婦の数は朝鮮人だけで17万人から20万人いたと換算しています。大学教授であっても反日とか反体制とかいうイデオロギーに捕らわれると巧みなこじつけをするのは、韓国でも日本でも同じです。

4、1991年4月にはソウルの日本大使館が尹氏を呼び、「強制連行の証拠はない」と伝えて韓国挺身隊協議会からの六項目の要求を拒否しました。その六項目とは下記です。
①強制連行を認める
②公式謝罪する
③蛮行の全てを自ら明らかにする
④慰霊碑を建てる
⑤補償をする
⑥歴史教育で語り続ける

●1991年から朝日新聞は従軍慰安婦強制連行に関する一大キャンペーンを開始しました。初めの証言者となった金学順という朝鮮人慰安婦は日本軍に強制連行されたと報ぜられましたが、本人が日本に来て証言したところによれば、14歳の時、家が貧しかったのでキーセンハウスに売られ、17歳になったとき、キーセンハウスの経営者である義父に日本軍の慰安所につれて行かれたことが分かりました。しかし朝日新聞はこれについての訂正記事を出していません。まだ前出の吉田清治の嘘の証言も真実として報道しました。更に宮澤首相訪韓の時に合わせて「挺身隊の名で連行された慰安婦の数は8万人とも20万人とも言われる」という嘘の解説を載せました。その結果、1992年1月宮澤首相は韓国でこの件について謝罪せざるを得ないようになりました。また、その後も河野官房長官談話でこれを追認した形になりました。この二人の日本高官の行った軽率な謝罪が国連に対するクマラワスワミ女史(スリランカ)の「日本軍性的奴隷問題に関する報告書」の中で、日本政府がその犯罪を認めたとされることになったのです。

●1992年1月14日、韓国ではマスコミが一斉に「小学生までが慰安婦にさせられた!」というショッキングなニューズを流しました。ところがこれがまた大言誤報で、真相は女子児童が挺身隊として勤労動員されたというだけの話だったのです。つまり挺身隊=慰安婦というデマを信じたマスコミの判断であったのです。

●1992年11月中央大学教授吉見義明編「従軍慰安婦資料集」が刊行されましたが、その中に「強制連行」を示す資料は一つもありませんでした。その本の解説の中で吉見教授は「一般には、強制連行というと人狩りの場合しか想定しない日本人が多いが、これは狭義の強制連行であり、詐欺などを含む広義の強制連行の問題をも深刻に考えてしかるべきであろう」と述べています。この人はこれまで「強制連行はあった」と論じてきたのに、色々調べていった末、それを裏付ける資料がないことが分かると論点をすり換えて「広義の強制連行」を考えるべきだなどと言い始めました。また「政府が資料を隠しているのかもしれないから、それが出てきたら事情が変わってくる」と暗示しているのも学者らしい狡さを見せつけられます。

●1997年1月3日の「朝まで生テレビ」に出演した吉見義明教授は、「植民地での奴隷狩り的強制連行は確認されていない」ことと、および「挺身隊が慰安婦にさせられた例も確認されていない」ことを認めました。これは日本政府の5年前に調査した公式発表と一致するものです。

  従って、従軍慰安婦強制連行問題は、議論が出つくして、調査もしつくして決着していると言わねばなりません。

◆慰安婦強制連行の嘘・デタラメ・捏造①

投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/21 18:54 投稿番号: [28792 / 29399]
●日本ではじめて「従軍慰安婦」を戦争犯罪として世に広めたのが、千田夏光著「従軍慰安婦」(1973年)および「続・従軍慰安婦」(1974年)です。

この本では、千田氏が「挺身隊」として動員された朝鮮人女性20万人のうち、5〜7万人が慰安婦にさせられたと書いています。しかし「挺身隊」とは軍需工場などへ勤労動員された者のことで「慰安婦」とは全く別のものです。
また、挺身隊員で慰安婦になれと強制された例は一つも確認されていません。これは朝鮮の反日運動家が「挺身隊で連れて行かれる者は慰安婦にさせられる」というデマを流したのを、千田氏がろくに検証もせずに書いてしまったようです。

●次に発行されたインチキ本は「私の戦争犯罪−朝鮮人連行−」吉田清治著(1983年)です。この本で吉田氏は韓国済州島で慰安婦にするための女性狩りを度々行ったと告白した上、日本・韓国およびアメリカなどで謝罪講演をして廻りました。
  しかし、千葉大学教授の秦郁彦氏が済州島に行って実際に調査したところ、吉田氏が慰安婦にするための女性を1000人近く徴用したとう事実はないことが判明しました。

それに現地の新聞がすでに「吉田証言に該当する事実はない」と報道していたのです。

  韓国政府も国際人権委員会も吉田証言を引用して報告書を書いていますが、それは日本の朝日新聞が吉田証言をとりあげて、これを権威付けたからです。
  しかし、今日では、吉田証言は全くの嘘であることが証明されて、本人もフィクション(作り話)であることを認めています。

Re: 兵士達の述懐(1)

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/21 06:53 投稿番号: [28791 / 29399]
歩三三作命甲第一二四号
      歩兵第三十三連隊命令   十二月十日午前一時三十分
於   下   麒   麟   門
一.第九師団ハ、南京城東南側近ク進出シ、城壁ニ依ル敵ト交戦中ナリ、南京城東北角ハ十五糎砲ヲ以テ九師団ヲ射撃シアリ
南京城攻略ノ端緒ハ、師団ノ柴金山進出攻略ニアル、師団ハ直前ノ敵ニ追尾シ、速ニ南京城ニ肉迫セントス、右側支隊ハ、主力ヲ以テ玄武湖北側地区ヨリ、一部ヲ以テ柴金山付近ヨリ、追撃隊ハ爾近左翼隊トナリ本道南側地区ヨリ攻撃前進ス
二.連隊(Ⅰ.5.8欠)ハ右翼隊トナリ(本道ヲ含マズ)攻撃前進セントス
右側支隊トノ戦闘地境五旗―蒋王廟―玄武湖東方五百米―南京城東北角ヲ通ズル線(線上ハ含ム)、左翼隊トノ戦闘地境下麒麟門、中山門ヲ通ズル線(線上ハ含ム)
野砲第二十二連隊長ハ、野砲十二連隊第二大隊ヲ併セ指揮シ、本道両側地区ヲ前進シ、両翼隊戦闘ニ協力ス
三.前衛ハ、本朝七時〇分下麒麟門西端ヲ出発、獅子&#22503;郭家&#22503;付近ヲ経テ青馬付近ニ進出シ、攻撃目的ヲ以テ本道以北ノ敵情地形ヲ捜索スベシ
四.爾余ノ部隊ハ本隊トナリ、連隊本部、第九中隊、第十中隊、第二大隊(5.8欠)、速射砲、連隊砲中隊、小行李、第二大隊ノ一ヶ小隊ノ順序ヲ以テ、午後七時〇分迄ニ下麒麟門三叉路ヲ先頭トシ、徒上縦隊(要スレバ道路ノ北側ニ集合)、爾後ハ前衛ノ後方四百米ヲ続行スベシ
五.余ハ午前七時〇分本部先頭ニアリ
連隊長   野田   大佐

下達法
命令受領者ヲ集メ口達筆記セシム

↑歩兵第三十三連隊第一大隊の兵士が「南京は忘れた」と言ったそうだが、上記命令によると第一大隊は参加していないよね。

述懐した日本兵は「日本語を知らない」ようだね。

又朝香宮様からの命令などと言うことは無いよね、軍命令と言う事になり、大隊に居るような下士兵卒が知る由もない。

軍命令→旅団命令→師団命令→大隊命令→中隊命令という流れになるんだよ。

上記の流れのように直接大隊に命令は来ない。

Re: 兵士達の述懐(1)

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/21 06:15 投稿番号: [28790 / 29399]
歩三三作命甲第四〇四号
歩兵第三十三連隊命令   十月二十三日〇時五五分
於李家凹
一.師団当面ノ戦況大ナル変化ナシ
第十師団ノ一部ハ既ニ省境ヲ突破シ又第十三師団ハ将軍寨ヲ占領シ福田珂ニ向ヒ追撃ヲ準備中ナリ
師団本二十三日萬難ヲ排シ追撃ヲ続行ス右側支隊ハ前任務ヲ続行シ其ノ歩兵第隊及砲兵一中隊ハ風間支隊トナリ本二十三日黎明示ヲ利用シ打虎寨(土門關西南約四粁)急襲占領シタル後周可河ヲ経テ福田珂ヲ経テ福田珂方向ニ進出ス
右翼隊ハ本二十三日白雲山上寺ノ高地ヲ占領之ヲ確保シタル後制高地点ヲ経テ追撃ヲ続行ス
左翼隊ハ本二十三日一部ヲ以テ破求店東北側高地ヲ占領シ主力ヲ以テ陶家山北側高地ヨリ追撃ヲ続行ス
左側支隊長ハ迂回隊ヲ併セ指揮シ本二十三日当面ノ敵ヲ撃破シ両路方向ニ前進ス
左翼隊ト左側支隊トノ戦闘地境ハ柴家山北側鞍部566.3高地(騎龍寺東方約二粁)北側鞍部朱家大廟ヲ連ヌル線トス
砲兵隊ハ本二十三日各一部ヲ以テ両翼隊ノ戦闘ニ協力シ爾余ノ部隊ヲ以テ敵砲兵ノ制壓ニ任ズ
二.連隊ハ本二十三日払暁追撃ヲ再興シ陶家山北側高地ノ敵ヲ撃破シ小界嶺ニ向ヒ追撃セントス
上田大隊(11欠)ハ当面ノ敵ヲ駆逐シ老虎山南方高地ニ進出後王家山西方高地方向ヨリ小界嶺ニ向ヒ追撃ス
三.第一大隊本二十三日払暁追撃ヲ再興シ陶家山北側高地ノ敵ヲ撃破シ小界嶺ニ向ヒ追撃スベシ
四.第二大隊ハ現在地ニ於イテ第一大隊ノ陶家山北側高地攻撃ヲ援助シタル後第二線トナリ第一大隊ノ後方ヲ続行スベシ
五.歩兵砲中隊ハ本二十三日拂曉迄ニ犀牛望月西端付近ニ陣地ヲ変換シ第一大隊ノ攻撃ニ協力スベシ
六.山砲兵中隊ハ依然現陣地ニアリテ第一大隊ノ攻撃ニ協力スベシ
七.迫撃砲大隊ハ依然現陣地ニアリテ第一大隊ノ攻撃ニ協力シ特ニ第一大隊陶家山北側高地攻撃ニ方リ其ノ稜線ニ沿ヒテ行フ逆襲阻止ヲ準備スベシ
八.発煙中隊ハ約一小隊ヲ以テ第一大隊ノ攻撃ニ協力セシメ主力ハ依然予備隊ト共ニ行動スベシ
九.爾余ノ諸隊ハ依然前任務ヲ続行スベシ
一〇.予ハ犀牛望月西端在リ第一線ノ前進ニ伴ヒ陶家山北側高地ニ前進ス
連隊長代理   渡   辺   綱   彦
下達法   命令受領者ヲ集メ口達筆記セシム

↑兵隊が此の事を思い出さないという事は無いだろう、連隊長が負傷した事を。

Re: 兵士達の述懐(1)

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/21 03:50 投稿番号: [28789 / 29399]
国際法に違反するような事を証明する資料は現在迄発見されていない。

逆に、国際法を遵守したという証拠は五万と在る、日本国内外に。

兵士達の述懐(5)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/21 03:28 投稿番号: [28788 / 29399]
16師団歩兵第38連隊第1大隊の兵士の証言は次のとおり。

   南京の   和平門に着いた。   門が閉まっていて   野砲が
   どんどんと撃った。   抵抗がやんだので縄梯子で登った。
   中にいた敗残兵が、次々と   手を挙げて   出てきました。
   大隊長は「切れ」   という仕草をして両手を振り下ろし
   ました。    命令ですので   みんなで   突き殺しました。
   門を入ると捕虜を集めていました。   捕虜は、固まって
   こちらに   十五、六人、あちらにまた   十五、六人と
   たくさん   いました。   それを   集めていましたな。

第33連隊   第2大隊の   兵士の証言は   次のとおり。

   十二月十三日南京陥落後の翌日朝八時頃に南京の太平門に
   入りました。   そこで   十四日、十五日と   二日間警備を
   しました。   入った日の   前々日の攻撃で   死んだ死体が
   そのまま   放ったらかしてありました。
   松井司令官の命令で   各師団長に、師団長から各中隊長に
   伝わってきていたと思うんやが、兵隊は何事も命令なしで
   勝手にやってはならんからな。   当時分隊長が「男は皆
   殺してしまえ!」   と言って   話は覚えています。
    
下記も   同大隊に所属していた   別の兵士の証言だ。

   陥落してから、二日ぐらいしてから   南京城内で   掃蕩を
   しました。   家を一軒一軒調べて、男なら全部引き出した。
   調べることはせえへん。捕まえて調べるので引っ張ることも
   あるし、その場で   ぼんと銃でやってしまうこともあった。

同隊の   別の兵士の証言は   次のとおり。

   捕虜の処分は   師団命令です。
   実際に   私ら兵隊に   命令を下したのは、中隊長で、
   「捕虜にした者は全部殺せ」と言って指令されました。
   どのぐらいの人数を   殺したか、数は   分かりません。
   一日にだいたい一個小隊ぐらい、五十〜六十名ぐらいを
   処分しました。

同連隊の第3機関銃中隊の   兵士の証言は   次のとおり。

   私らは   小銃中隊の兵隊と一緒に   入城しました。
   小銃隊の兵隊が支那の兵隊を銃剣で突き刺しているのを
   目撃しました。   男は   みんな捕まえてましたな。
   でも、私ら   重機関銃隊は   そんなことをしてません。
   実際、南京戦で「支那人を殲滅しろ」   という命令が
   私ら   第三機関銃中隊に   来てましたけれど、
   各中隊にもそんな命令が出ていたかどうかわかりません。

以上、参考『南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて』松岡環編著
社会評論社(2002年8月15日初版第1刷発行)

兵士達の述懐(4)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/21 03:26 投稿番号: [28787 / 29399]
前述した   第16師団歩兵第33連隊第3機関銃中隊の
兵士の叙述は、次のように   続いている。

   「今から上陸するところは米が穫れる、水牛がおる、」
   「支那人は全部殺せ、家は全部焼け」   と言う命令でした。
    (略)
   上陸してから   常熟で一晩泊り   翌日の出発前に
   家を全部   焼き払いました。   民家の中のタンスやらを
   積んで火を点けたら全部燃えました。   結構広い部落が
   全部燃えました。   そうしたら、後方部隊が来るように
   なったので「家を焼くな」   という命令が再び出たんです。
   それは無錫の手前でした。   命令は小隊長から聞きました。

同中隊の   別の兵士の証言もある。   内容は   以下のとおり。

   中島師団長という人は剛胆な人で、「支那の家を全部焼いて
   しまえ」   と言いましてな。   白茆口へ   上陸した時です。
   「ここは抗日の一番ひどいとこやから各部落の家は全部焼け」
   とも言いました。   私も上陸してから露営して、すぐに家を
   焼きました。   仲間内で   伝わって来ましてな。
   「師団長が   言うたんで、やってしまえ」   と。
    (略)
   師団長はそういう人ですので、支那兵はみんな殺してしまえと
   二十聯隊か   三十八聯隊か   九聯隊か   知らんけど、
   そういうことを   やりましたでしょうな。
   それが   問題になったわけです。
    (略)
   命令授与で   「風紀・軍紀厳正」   という命令は
   いつでもありましたけど、じっさいには、支那におった時には
   あんまり   やかましく   言われませんでした。
   日本の兵隊は   無茶なことしてますわ。
   強姦は   南京戦より徐州戦の方が   ひどかったくらいです。
   南京でも   もう乱れてましたな。

大量殺戮の背景には、無差別掃蕩命令の存在があった。
同連隊第1大隊に属した   別の兵士の証言を   見てみよう。

   十二月十四日、揚子江岸で   捕虜を千二百人いっぺんに
   処分しました。日記に書いているように惨いことでした。
   処分がすんでから、悒江門から城内へ掃蕩に入りました。
    (略)
   捕虜剔出には人数を数える暇なくどんどん捕まえました。
   捕虜といっても   中国服を着た   男ばっかりでした。
   掃蕩をやる時は   中隊長の指揮によってです。
   注意事項というものはなく
   「戦争に耐えると思えるような者は全部殺してしまえ」と
   上部の命令として   言われていました。
   直接この命令を聞いた覚えはないが、中隊長か   大隊長が
   発したのだろう   と思っています。
   実際、男を敵兵として捕らえ、一人ひとりを調べることなど
   しませんでした。
   おとなしく   投降しても、中国人は全部   殺してしまう。

兵士達の述懐(3)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/21 03:06 投稿番号: [28785 / 29399]
第16師団   歩兵第33連隊   第1大隊と   第2大隊の兵士の
証言を引用した。   次に、第3大隊の   兵士の証言を引用する。

   昭和十二年八月、大召集を受けて、九月に   久居を出発し、
   大阪港から出航しました。九月、十月、十一月は   河北の
   戦闘で   韓家頭や八里荘で   初めて戦闘を体験しました。
   (略)
   部隊本部から「韓家頭の部落を攻撃する。   部落に入ったら、
   猫の子でもいいから   生きとる者は、男でも女でも全部殺せ」
   と命令が出ました。
   それでわずか百メートル先に五十戸位の部落が見えたんです。

   これこそと   攻撃をかけたけど、猫の子一匹もいやしません。
   粗末な一軒の   農家の中のアンペラが   コソコソと動くので
   めくり上げると、四十歳位の   妊婦が   二人の幼児を
   両脇に   だきしめて   隠れていました。
   コノーと引きずり出すと   子供は泣き叫び   母親の後に
   しがみついている。

   母親は   もう一人の子を   クリークの中に   つっこんだ。
   ××伍長が   これこそ戦友の仇と   即座に   銃で三人を
   撃ち殺してしまった。
   その時は   気がたっていた   というか、女子供なのに
   酷いことを   しました。

同連隊   第1機関銃中隊の   兵士の証言は   次のとおり。

   私ら行った時は   白茆江やったかな。
   弾飛んで来えへんかったということは   敵おらへんかった。
   上陸の時   命令受領に行ったら「普通の男も殺せ、皆敵や」
   と言われていたで。
   家を焼けとの命もあって、うちの中隊でも   放火班があった。
   十人位で   火をつけたけども   常熟の前やったか、
   一日ぐらいで止めた。

後者の証言にある   白茆江は、南京城攻撃の   1か月前に
攻略した地点であり、すでに   この時点で無差別な殺害を
兵士たちは   命じられていたという事実が   うかがえる。
この事実を裏付ける   別の兵士の   証言もある。
以下は、同連隊   第3機関銃中隊の   兵士の証言だ。

   大連から南下して上海から揚子江を上にいった白茆口
   という所に   着きました。   そこでは   敵前上陸で、
   そこから   どんどん追撃して   南京まで行ったんです。
   その時、私は   上からの命令文を   見ました。
   「支那人は全部殺せ、家は全部焼け」と書いてありました。
   その命令は   白茆口に上陸する   前日に出たんです。

兵士達の述懐(2)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/21 03:05 投稿番号: [28784 / 29399]
第16師団   歩兵第33連隊第1大隊所属の兵隊の証言は
他にもある。   たとえば、以下のようなものだ。

   行軍が早くて   どんどん進むもんでね。
   部落は   日本軍が火をつけて   焼けてますやろ。
   上陸した始めの頃は焼いてなかったけど、途中で
   そりゃもう、部落を   どんどん焼いてました。
   放火分隊って、上陸の時は   うちの中隊もありましたな。
   中隊長が   あの部落   焼いてこいって。
   家の中には、住民が隠れていてますわな。
   それを   殺さなならんのですわな。
   それで   兵隊嫌がってましたな。
   その命令が出ると。おると殺さないかんのです。
   (『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P302)

同大隊の某中隊指揮班の   兵士の証言は   次のとおり。

   中隊には「男も女も子どもも区別なしで殺せ」という命令が
   出ました。   つまり   虐殺でした。
   攻略戦で、その残虐さは   南京に入ったらすぐそうでした。
    (略)
   南京攻略戦は   ちょっと   やりすぎでした。
   反日の根拠地というので、南京に入るまでは   家を全部焼け
   という命令が   ずっと出てました。
   すると   また後続部隊が   泊まる所がないからといって、
   家を焼くのを中止したんです。   とにかく「家は全部焼いて
   人間は全部殺せ」   という命令でした。
   命令が出てなかったら   こっちは   しませんよ。
    (略)
   南京攻略戦は手当たり次第やったので、戦争がしやすかった。
   それも   もちろん命令が   あったからです。
   皆伝え聞いて   分かっていました。
   中支では、上陸してからずっとやりたい放題にやっとったんです。
   その代わり   こっちの被害も   多かったですな。
   あそこは   支那の部隊も   集中してました。

次に、同連隊   第2大隊の   兵士の証言を   見てみよう。

   南京に向かう途中   どこの戦闘だったかは忘れたけれど、
   部落があって、あそこに共産党がいる   ということで、
   上から「負傷者に関わらず全部共産兵なので、全部殺せ」
   と命令してきたんです。
   それで部落に火を点けると、後ろから煙が上がってきました。
   その中から   オギャーオギャーと   赤ちゃんの泣き声が
   聞こえてきました。

兵士達の述懐(1)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/21 03:04 投稿番号: [28783 / 29399]
捕虜の殺害は   明確に   国際法に   違反する行為だったが、
非戦闘員である   一般市民に対する   残虐行為も、当然
違法行為であり、人道上からも   許されない蛮行だった。  

第16師団   歩兵第9連隊第2大隊の   兵士は、
次のように   証言している。

   「子どもにしても年寄りにしても誰でも全部殺してしまえ」
   と聯隊長の命令が   でました。
   二人とか三人とかの百姓を   捕まえてきて、
   「そこらに兵隊はおるかおらんのか」などの尋問して
   地形を聞いて、後は   殺してしまうんです。
   クリークの縁に   連れ出して、そこに   座らせました。
   将校は、めったに   刀で首切りなんて   できへんのやから、
   軍刀持ってるさかいに   試し切りを   するんです。
   私ら兵隊は   突き殺しました。
   鉄砲の弾   できるだけ使うな   と言われてました。

また、同師団の歩兵第33連隊   第1大隊の兵士は   次のように
叙述している。

   上海の近くで   敵前上陸して   南京に向かったな。
   途中、クリークや大きな池を越えたりして行くので
   大変やった。   工兵隊が橋を作ってくれたりしてな。
   南京へ攻めていって、揚子江で   たくさんの死体が
   流れていくのを見たな。   女や子どもも入っとるやろね。
   いや入ってて当然や。私も下関で軽機で撃っとるけどね。
   敵が(揚子江を)下って行くのを撃った。
   しかし南京のことは忘れてしまった、ぜんぜん憶えてない。
   ただ   上から「男見たら殺せ」   と命令されたことだけは
   よう憶えとる。
   南京へ行くまでに常熟か無錫辺りかな、もうそういう命令が
   出ていたな。   部隊長の××中尉が言ったんじゃないか。
   あるいは「人見たら殺せ」とな。
   (『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P159-160)

同じ大隊に属した   別の兵士の証言も   見てみよう。

   南京戦の時、当時の宮さん〔朝香宮〕から命令があって、
   その命令は   中隊長か小隊長から聞いたけど、
   「犬も猫も含め生きている者は全部殺せ」ちゅう
   命令やった。   天皇陛下の命令やと   言ったな。
   当時のことを書いた日記帳は終戦の時に全部焼いた。
   (『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P271)

Re: 証拠隠滅(1)

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/20 05:44 投稿番号: [28782 / 29399]
証拠を隠滅したというその証拠を何故知っているの?

軍が多くの資料を焼却したと言うが、其の中にどの様な資料が在ったかを何故知っているの?

断片的資料には、南京虐殺どころか、軍の規律が守られていた事しか書いてないよ。

少なくとも敗戦時には、日本軍の永久保存の文を含んで一千萬ページは残っていたし、それは総て今国内に有る。

未だに南京大虐殺を信じている低脳がいる④

投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/19 22:44 投稿番号: [28781 / 29399]
当時、同盟の特派員であった故前田雄二氏(元日本プレスセンター専務理事)は、内外のニュース社発行の「世界と日本」の中で次のように述べています。

「いわゆる“南京大虐殺”というのは、2〜30万という数は別としても、主として住民婦女子を虐殺したというものだとされている。

ところが殺されなければならない住民婦女子は、当時全部“難民区”内にあって、日本の警備司令部によって保護されていた。

そして私の所属していた同盟通信社の旧支局はこの中にあり、入城4日目には、私たち全員はこの支局に居を移し、ここに寝泊まりして、取材活動をしていた。

すなわち難民区内が私たちの生活圏で、すでに商店が店を開き、日常生活を回復していた。

住民居住区の情報はちくいち私たちの耳目に入っていたのだ。

こういう中で、万はおろか、千あるいは百をもって数えるほどの虐殺が行われるなど、あり得るはずはなかった。

すなわち“捕虜・便衣兵の処刑・殺害”はあったがそれは戦闘行為の枠内で論ぜられるべきものであって、非戦闘員の大量虐殺などはなかった。

それがさ も事実あったかのように伝えられ、教科書にまで記載されるということは、見過ごしていいことではない。」

当時、反日的な報道をしていた米紙「タイム」でさえ、「日本軍は“安全区”をちょっぴり可愛がった」と、評しています。

未だに南京大虐殺を信じている低脳がいる③

投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/19 22:43 投稿番号: [28780 / 29399]
当時の国民党や八路軍の連中がどれだけ酷いことをしてきたか。

ニューヨーク・タイムズのダーディン記者が、当時の様子を「支那軍による焼き払いの狂宴」と題して次のようにレポートしています。

「昭和12(1937)年12月7日、日本軍が句容を越えて進撃し始めたことが支那軍による焼き払いの狂宴の合図となった。
南京に向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。
村ぐるみ焼き払われたのである。
農業研究書、警察学校その他多数の施設が灰塵に帰した。
火の手は南門周辺地区と下関(シャーカン)にも向けられた。
支那軍による焼き払いの損害は優に3000万ドルにも及ぶ。
これは日本軍の何ヶ月にもわたって行われた空襲による損害よりも大きい。」

そしてこの12月7日に、蒋介石や馬超俊市長は、自分たちだけさっさと飛行機で逃亡しているのです。

つまり、蒋介石や馬超俊市長は、それまで南京を国民党の本拠地としていながら、日本軍が近づいたと知るや否や、20万の市民と約5万の敗残兵を置き去りにして、そくさくと逃亡している。
あまりにも無責任です。

一方、南京攻略をした松井軍司令官は、攻城戦に際して、南京市内の安全区に対する砲爆撃を厳禁し、占領翌日の14日には、安全区の出入り口全てに歩哨を立てて許可のない者の入区を禁止して庇護してもいます。
実際、14日に安全区の視察のため入区しようと思ったが、歩哨に峻拒(しゅんきょ)されて果たせなかったという東京裁判の供述もある。それほど厳しく安全区内への出入りを管理していたのです。

金陵大学病院医師マッカラム氏は、東京裁判に提出した日記の中で次のように述べている。

「(安全区に入ってきた日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。
若干のたいへん愉快な日本兵がいました。
私は時々日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました」

日本人を憎悪していたマギー牧師でさえ
「安全区は難民の“天国”だったかも知れない」とさえ述べている。

安全区国際委員会の書記長スマイス博士(米)も、その調査報告書の中で「住民のほとんどはここに集まっていた。難民区内は一件の火災もなく平穏であった」と述べている。

それほどまでに日本軍は、市街地の統制をきちんと取り計らっていたのです。

未だに南京大虐殺を信じている低脳がいる②

投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/19 22:42 投稿番号: [28779 / 29399]
南京に従軍した村田和志郎氏(第18師団歩124歩兵伍長)の日記に、こんな記載があります。

<引用> ------------------------ -

湖州は浙江省の首都、呉興県政府の所在地。

城壁をはいると家屋は焼けて一面の焼け野原となり、殆ど瓦礫の巷と化していた。

とくに商店街は影も形もなく、処々に多数の支那兵の死骸が生々しい姿で倒れ転がっていた。誠に見るも無残な有様であった。

街には人影がみられない。

それでもどこからか若い女が三人でてきた。

我々の姿を見ると、彼女らは我々をぽつんと残った唯一の焼け残りの小屋へ招きいれ、いち早くズボンを脱ぐと、進んで下半身を丸出しにした。

助けてくれと一心にわれわれを拝んだ。

我々は三名で巡察の途中で思いかけぬ出来事に遭遇してしまった。

一人は娘、残る二人は人妻らしい体つきだった。
自分達は彼女らをそっとして置いてやった。

それでも恐怖に怯え、彼女ら三人はおののいて、脱いだ紺色のズボンを容易に身につけようとしなかった。

体を提供しても生命さえ助けてもらえれば、これに越したことはないと観念していたかに見えた。

また、ある民家では中年の女性が寝てうめいており、下半身を露出して指さして示し、何かわからぬ言葉を喋っていた。

支那兵は逃亡の際、この女性に迫り、拒絶されると腹を立て、銃剣を一突きにそこに突き刺したに違いなかった。

夥しい出血で苦しんで訴えている。

すぐに治安維持会(既に結成されていた中国人の自治組織)に連絡して看護員を連れてきた。さて助かったかどうか。

このようにして略奪と暴行のあとを見せつけられた。
--------------------------------

当時の支那には、政府がありません。

清が滅びて、地方軍閥による内乱状態にあった。

内乱状態の中で、被害を受けるのは、決まって武器を持たない一般市民です。

そして武器を持った支那の軍閥の代表格が国民党だった。
彼らは、支那の都市を襲い、市民に対して好き放題の乱暴狼藉を働いていた。

日本は行きがかり上、やむなく、彼らを追い払っていたのです。そしてそのひとつが、南京だった。

南京市は、乱暴狼藉軍団である国民党が、勝手に乱入して本拠地にしていたから、日本は叩いたのです。

そして市民の生活に平安を取り戻した。

なかには、市民にまぎれて、日本軍に悪さをしかける国民党のスパイや、共産党のスパイがいた。

こうした連中は、市民の協力を得て、日本軍は逮捕し、国際法上適法な範囲で軍紀に照らして処罰した。そういう連中は治安維持のために殺害した。これは当然のことです。

未だに南京大虐殺を信じている低脳がいる①

投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/19 22:40 投稿番号: [28778 / 29399]
だいたい、戦いの最中にドンパチやりながら、「使用弾薬何発。残り弾薬数何発」と、何度も伝令を出して司令部に報告を入れなければならないのが日本の軍隊です。
それだけ日本軍は物資に乏しかった。

そのあたり、使っている武器にも、その性格がよく出ています。

日本軍の主力銃は、三八指揮歩兵銃です。
この銃は、いわゆる元込め式の単発銃です。
弾を一発一発込めて、装填してから撃つ。
いわゆる「乱射」や「集団虐殺」のようなこと自体、なじまないのです。
ハナからそういうことを想定した銃ではない。

だいたい単発銃で、30万人をいったいどうやって殺すのか。

30万人に、1発ずつ銃弾を撃ち込んで殺すとしても、それには30万発の弾薬がいります。
そんな弾薬、日本軍は持っていません。

機関銃で殺したに違いない?!

バカなことを!

当時の日本軍の機関銃は、米国製の1秒間に何発という高性能機関銃ではない。

パン・・・パン・・・パン・・・と断続的に撃つのが精いっぱい。1分間に打てる弾はおおむね40発。しかも5分も撃ったら過熱して、砲身を冷やさないと、焼き付いた。

お暇な方は計算してみてください。それで30万人殺すには、いったい何日かかるのか。

かつてそのことを指摘した人がいます。
そしたら支那いわく「日本兵は日本刀で、何万人も斬り殺した」

バカをいっちゃぁいけません。日本刀はたしかに切れ味鋭いけれど、3人も斬ったら、脂にまみれて斬れなくなる。人間の体というのは、脂にまみれて斬れなくなった刀でも通せるほどヤワじゃないです。

加えて、当時のシナ人の便服というのは、めちゃめちゃ生地が厚い。銃剣で突き刺そうとしても、素人では刃が立たなかったというのも、有名な話です。

証拠隠滅とか言う人ほど

投稿者: rugaruga12 投稿日時: 2012/12/19 21:44 投稿番号: [28777 / 29399]
皇軍最強といいたいらしい。まさに極右ですな。


>特に   虐殺事件など戦争犯罪に問われるような
軍にとって都合の悪い   証拠書類の多くは   廃棄されたため、
かろうじて   処分を免れた   断片的な資料から
事件の実相に迫るしか手段がない   というのが現状だ。

よくもまぁ、証拠がないのにあったとここまで大口をたたけるのでしょうね

ちなみに世間様ではこのようなことを”言いがかり”とか”冤罪”と言うのだが

>事実、敗戦決定から   撤退あるいは占領軍進駐までの期間に
多くの書類を焼却処分した   という記録や証言が   存在する。

つまり貴方はこう言いたいと。
秦の始皇帝をはじめ歴代の独裁者は国家の総力をあげて焚書をやりまくっても残るものは残ったのに日本政府や軍は敗戦の混乱期のしかも進駐軍か来るまでのわずかな時間で場合によっては部隊が壊滅または投降などしてそのような命令を実行できないのにもかかわらずしかも連合国の追跡調査をさせないほど完璧に証拠隠滅したと。

正に皇軍様万々歳ですな。

証拠隠滅(3)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/19 21:00 投稿番号: [28776 / 29399]
日本軍は、敗戦時に   軍部も政府も   責任の追及を恐れて、
証拠湮滅のために   多くの軍関係書類を   焼却処分した。
とくに   軍にとって都合の悪いもの、たとえば   戦争犯罪、
国際法違反に問われるような証拠を   隠滅するうえで
重要な書類を、全組織を挙げて   処分したのだ。

こうしたことが、南京事件や従軍慰安婦、細菌兵器開発や
占領地での強制動員など、日本軍による残虐行為の実態を
解明するうえで   大きな障壁となり、さらには「南京事件
は無かった」   などという否定論が   日本国内の   一部で
臆面もなく   振り回される要因   ともなっている。

しかし、限られた期間に   軍の書類すべてを処分するのは
できなかったはずだ。   事実、公文書の   最重要書類が、
軍の焼却指示にもかかわらず、所轄の軍将校が   隠匿し、
GHQの追求から逃れた   という記録が   残されている。

例えば、防衛研究所戦史部が   保管している『大陸命』に
付せられた『経歴票』   には、次のように   記されている。

  「昭和20年8月14日大東亜戦争終戦に方り陸軍一般に
  保管書類焼却の指令が出されたが、第二課〔参謀本部作戦
  課〕においては   本大陸命綴のみは   焼却せず、庶務将校
  椎名典義中尉が都内某所に隠匿し、第一復員省(局)史実
  調査部(資料整理部)編成に伴い、占領米軍の公私に亘る
  一般資料追及の監視を避けて   部長宮崎周一中将が自宅に
  保管した。
  〔中略〕
  昭和21年12月宮崎中将退職に伴い後任部長服部卓四郎
  大佐が   保管を継承し、同大佐は   占領時代終了を待って
  正統戦争史の本格的編纂にあたるためこれを自宅に保管した」

こうした記録からも   わかるとおり、焼却されずに軍幹部が
隠し持つなどして   残された書類もあった   と考えられる。
歴史の事実を知るためには、隠滅を免れた資料を   一つ一つ
確認していく   根気のいる   地道な検証作業が   必要であり、
否定派による   感情的で口汚い人格攻撃などに惑わされずに、
冷静に   調査を進めることが   何よりも重要なのだ   と思う。

虐殺の証拠は   ないのではなく、組織的に   消されたのだ。
こうした現実を   踏まえれば、南京虐殺マボロシ派のような、
軍国政府を   免罪し、侵略戦争を美化しようとする   勢力が、
被害を受けた   人々に対して   「証拠を示せ」   などと
声高に   がなりたてることが、いかに   卑怯で   醜い態度か、
いささかでも理性のある者ならば   理解できるだろう。

証拠隠滅(2)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/19 20:59 投稿番号: [28775 / 29399]
近年、鳥取市の   鳥取県立公文書館で   敗戦の際に日本軍が
自治体に出した   徴兵関係書類の焼却命令を記録したメモが
確認された。   同県日野郡二部村(現・西伯郡伯耆町)   の
「兵事動員ニ関スル日誌」の   1945年8月15日の項に
はさまっていたのだ。   軍の焼却命令を伝える文書は珍しく、
軍部による   指示の具体的内容を知るうえで   貴重な資料だ。

メモは、はがき大の紙に「連隊区司令部ヨリノ通知」として、
「現在入営並ニ応召者ノ名簿丈ケヲ残シ其他ノ兵事関係書類ヲ
全部至急焼去スル事」   などと書かれていた。
末尾には赤字で   「二部駐在所   津島巡査」   とあり、当時、
村の駐在所に勤務していた巡査(故人)が軍部からの命令を
書き取り、村役場に渡したもの   とみられる。

召集令状の回収・焼却なども   指示されており、その内容は
日誌にも   転記されていた。   日誌の翌16日午前の項には、
「関係一切ノ焼去ヲ実施ス」   との記述が   あることから、
軍の命令通りに   焼却が行われた   とみられる。

戦前、全国の市町村役場には「兵事係」   が置かれ、兵役や
招集など戦時対応に係る   兵事関係書類が   存在していた。
東海大の   山本和重教授(軍隊社会史)によると、現存する
兵事関係書類は、全国で   わずかに   約20町村分だという。
それは、敗戦直後に   陸軍などの命令で、全国の役場などで
一斉に   焼却処分されたためだ。

市町村に対する   兵事書類の全国一斉焼却命令   だけでなく、
軍機関係書類の処分が   敗戦直後に   組織的に   行われた。
吉田裕著『現代歴史学と戦争責任』   (青木書店97年)には
「敗戦前後における公文書の焼却と隠蔽」(P127〜141)
の章で、書類の焼却処分のことが   詳しく   書かれている。

その中には、たとえば   敗戦当時、官房文書課事務官だった
大山正が   「内務省の文書を   全部焼くようにという命令が
でまして、後になってどういう人にどういう迷惑がかかるか
判らないから選択なしに全部燃やせということで、内務省の
裏庭で三日三晩、えんえんと夜空を焦がして燃やしました」
と   回想している。

処分されずに残った   記録資料も   進駐してきた米軍に
押収されたため、軍関係資料は   ほとんど   残らなかった。
現在   残されている資料の多くは、兵士などの軍関係者が
個人で   隠し持っていたものや、米国との協定に基づいて
返還を受け、防衛省が保管しているものに   限られている。

証拠隠滅(1)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/19 20:57 投稿番号: [28774 / 29399]
南京事件の全容解明を   困難にしている   要因の一つに、
敗戦時に   軍が   多くの書類を   焼却するなど処分したことが
挙げられる。   特に   虐殺事件など戦争犯罪に問われるような
軍にとって都合の悪い   証拠書類の多くは   廃棄されたため、
かろうじて   処分を免れた   断片的な資料から
事件の実相に迫るしか手段がない   というのが現状だ。

事実、敗戦決定から   撤退あるいは占領軍進駐までの期間に
多くの書類を焼却処分した   という記録や証言が   存在する。
一例としては、近年   米国で公開された   資料がある。
これは   米国立公文書館に保管されていたもので、米陸軍省が
大戦中に傍受・解読した日本軍の暗号通信を要約したものだ。

資料によると、指示は45年8月15日午前0時に始まった。
「ご真影や連隊旗、天皇の手によって書かれた   書類を集め、
部隊指揮官は   崇拝の念をもって   焼却せよ――」   と、
陸軍省が   主な野戦司令部に   命令していた。
さらに   玉音放送が   敗戦を告げた   同日午後には、
「陸軍の機密文書と重要書類は、保持している者が焼却せよ」
という命令を   追加している。

前線に近い部隊になるにつれ、処分対象は   具体的になった。
たとえば   同月20日、上海にある   支那方面隊では、
将校の登録簿や   勤務経歴を   「即座に焼却せよ」   とした。
戦争責任を追及される際、誰がどこに配属されていたかが
分からないようにするためだった   とみられる。

インドネシアの   海軍第23根拠地隊では   8月24日、
「化学戦用機材」   や、残酷兵器として   ハーグ会議で
使用禁止が宣言されていた「ダムダム弾」の処分を命じた。
戦後、国際的な批判にさらされることを   恐れたからだ。
軍にとって   何が都合悪いかを   冷静に識別し、組織的に
処分したことが   こうした記録などからも   明確に判る。

敗戦直後から   焼却命令が出されていた   という事実を
裏づける   貴重な証言もある。   一例を   紹介しよう。
「赤紙と徴兵   105歳   最後の兵事係の証言から」
(吉田敏浩著)   には、滋賀県大郷村(現・長浜市)の
元兵事係、西邑仁平さんの告発内容が   収録されている。

   「焼却命令には合点がいきませんでした。   村からは
   多くの戦没者が出ています。これを処分してしまったら、
   戦争に征かれた人の労苦や功績が   無になってしまう、
   遺族の方に申し訳ない、と思ったんです」

村人に毎日のように赤紙(召集令状)を届け続けた兵事係、
西邑仁平さん(一昨年105歳で死亡)   は、敗戦の時、
軍から   24時間以内の焼却命令が   出ていたのに背き、
命がけで   大量の兵事書類を   残した。
戦前の徴兵制の運用の詳しい実態が、焼却せずに残した
兵事書類を通じて   明らかにされた   貴重な史料だ。

◆「南京大虐殺」という史上最大のヨタ話

投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/19 19:57 投稿番号: [28773 / 29399]
戦後に参戦者の手記、日記、インタビュー等から、盛んに「虐殺」を言っている記事で、その取材の仕方が全く偏向したものである例を挙げます。

  まず、第一に、取材する相手に、虐殺を証言する人間しか選ばないという点があります。
  虐殺を否定すると思われる人には取材をしません。
  そればかりか取材をすると何とかデッチあげてでも虐殺に仕立てるという事を致します。
  場合によっては、証言を意図的に歪曲し、時には正反対の解釈をして、証言者がそんなことは言ってない、と憤慨(ふんがい)している例もあります。
  また、証言者が、
  「中隊の軍紀は非常に厳正でありました。」
  などと証言しても、そんなことは一切取り上げようとしません。
  自分の取材意図に合ってさえいれば、証言内容が明瞭(めいりょう)なウソであると判っていても、そのまま記事にしております。
  宮崎県の農家で写真と参戦者の日記を発見したとして南京虐殺の決定的証拠とした、朝日新聞の昭和58(1983)年8月4日の記事に対し、その写真は満州の馬賊の写真で、昭和初期に朝鮮買ったものであると、読者が抗議しています。
  また森村誠一の「続・悪魔の飽食」に、日露戦争当時の伝染病による死体写真を今次大戦の関東軍の虐殺の証拠写真としていつわって掲載しているのを、読者よりの指摘抗議によって暴かれたのは有名な話です。
  そのような記事について、
  「そんなことはあり得ないことである」
  と反論されても、無視し、認めないか、言を左右にしてうやむやにするのが、彼らの常套手段(じょうとうしゅだん)なのです。
  都城連隊関係者が、朝日新聞に対して名誉毀損の抗議訴訟を起こして朝日が敗訴した件、京都新聞の無責任な記事に対する歩兵20連隊第3中隊の抗議に対する態度、また「平和のための京都の戦争展」の朝日新聞の記事に対し私が抗議しましたが全く無回答、これが新聞の態度です。
  全く礼儀知らずと言うほかありません。


さらに、偏向的時後取材により「南京大虐殺」を盛んに主張する例を挙げます。
  朝日新聞の本多勝一という記者が「中国の旅」という本を書いています。
  これは彼が戦後・満州・中国に行って、日本人がそんなに悪い事をしたかを中国人に取材して、全く無批判に鵜呑みにして書いたものですが、その内の南京関係の例をあげてみましょう。

  イ、姜根福の証言。
    日本軍は南京城北の燕子磯で10万人くらい機関銃で射殺した。
    紫金山で2千人を生き埋めにした。
    あるいは軍用犬に中国人を襲わせ、その人肉を食わせた。城内で20万人を虐殺、死体を積み上げて石油をかけて焼いた。

  ロ、伍長徳の証言。
    南京戦直後、日本兵に銃剣で肩を刺されたが逃げ、揚子江に飛び込んで、日が暮れるまで水中に隠れていた。日本軍は逮捕した青年を高圧線にぶら下げてあぶり殺し、工業用硝酸をかけて殺した。

  ハ、李秀英(女性)の証言。
    日本兵に強姦されそうになり抵抗、その銃剣を奪って格闘して追い払った。しかし37ヶ所も刺されて気絶していたのを、親族の者達に助けられた。

  2千人を生き埋めにするための労力と時間と穴の大きさは、どれ程のものであったのでしょうか?
  軍用犬に人を襲わせて、その肉を食わせるなどという馬鹿なことがあり得るのでしょうか?
  石油や工業用硝酸を、戦場でいつ、どこで入手したのでしょうか?
  揚子江は確かに冬でも凍りはしませんが、12月の揚子江に飛び込んで、首だけ出していて一体日が暮れるまで我慢できるのでしょうか?
  高圧線に、どうやって人間を吊り下げるのでしょうか?
  当時の日本兵は現役バリバリで士気も高く、女性と格闘して銃剣を奪われ、尻尾を巻いて逃げ出すような情けない兵士がいる訳がありません。
  37ヶ所も刺されて失神した者が、また蘇生するなどという事があり得るでしょうか?
  どれ1つ取ってもすぐウソだと判る事ばかりです。
  それを本多勝一記者は、「なるほど、ごもっともです」とそのまま本にしているのです。
  本多記者については、
  「朝日の中には、本多君に対して良くない感情を持っている人が沢山いる」という事を朝日新聞の同僚の記者が言っていますし、又石原慎太郎氏は平成3(1991)年の「文藝春秋」に、
  「朝日には本多という奇妙な性格の記者がいて、盛んに南京虐殺のことを書く」と言っております。
  本多勝一記者は、
  「日本の子弟に国際性を持たせるため、南京大虐殺の教育を徹底させる必要がある」と言っています。
  私は売国奴、何を血迷ったか、妄語断じて許すべからずと、憤(いきどお)りに駆られます。

◆まさに噴飯ものの戯言「南京大虐殺」

投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/19 19:55 投稿番号: [28772 / 29399]
南京攻略した日本軍の先兵の記述によると、国民党軍は戦闘を放棄し、南京市内で略奪の限りを尽くす中国兵士たち。

当時の中国軍には、「占領されるくらいなら何もかも破壊してしまえ」との考えがあったそうで、南京以外にも日本軍が攻め込む前に村ごと焼き払って敗走した事が何度もあったそうです。

南京市民から略奪した後は、国民党軍の殆どが敗走し、一部が奪い取った衣服を身にまとい国際法に抵触する便衣兵となって、日本軍が占領したあとも散発的なゲリラ行為を続けてたそうです。

こうして、便衣兵を処分したのですが、それも武装解除してから市街追放する程度で、当時の「処分」=「処刑」とは違うわけです。

勿論抵抗した便衣兵やそれに疑われた人物がその場で射殺されたこともあるでしょうが、南京での死亡者の殆どがこの類であり、その数は決して多くはなかったのです。(抵抗する捕虜や便衣兵の殺害は戦場においては正当なる行為です)

当時の記録でも日本軍が南京を占領してから数万単位で人口が増加してる事実。

非常に危険だった中国大陸においては、国民党軍が治めてる地域よりも日本軍が治めている南京の方が安全と判断したからこその人口増なんですよね。


  追記

日本軍が攻めてくるというのに、これから攻められる南京城に逃げ込む馬鹿がどこにいるというのでしょうか。

安全な山や草の生い茂った野原に逃げ込んで身を隠すに決まっているでしょう。

国民党軍にしても共産軍にしてもゲリラ戦術を取っていたんですから真正面から戦闘を挑んでくる訳がないのです。

南京市の人口20万人の中の中国軍のほとんどが我さきに逃げ出して、南京城はほとんど空っぽだったと考えるのが当然だし、それが歴史の真実だったでしょう。

石井松根大将らの南京入場の映像からもそれは伺い知ることが出来るのです。

そして日本軍が撤退した3ヶ月後に、人口が25万人へと5万人も増えたのは周辺の町から南京城へ避難した人たちによって膨らんだからに違いないのです。

何故ならば、安全区以外にいる一般中国市民は、日本のスパイとみなされて共産軍によって虐殺されるかもしれないからです

Re: 目撃者証言(3)

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/18 09:30 投稿番号: [28771 / 29399]
>南京制圧
   第一線に近づくにつれて、部落を通過するたびに虐殺死体が
   目立ち始めました。   (略)奥の部屋に踏み込むと、下半身
   裸の婦人が、下腹部を切り裂かれて、死んでいます。
   少し奥には、五〜六歳の子供が、うつぶせに死んでいました。
   プーンと、血生臭いにおいが、立ちこめています。 (略)
   このような虐殺死体は、随所に見られました。 婦人に暴行を
   加えて虐殺し、女性の性器に   棒を差し込んでおくような、
   残虐な事例も   何回か目にしました。

↑これは中国兵の通常の殺し方。

日本兵がやったという記録は何処にも無い。

Re: 目撃者証言(2)

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/18 09:27 投稿番号: [28770 / 29399]
首をはねることが出来るのは慣れれば左程難しくは無いが、後の刀の手入れが大変なんだよ。

当分は使い物にならなくなるからね。

客観的にも当時の軍隊の状態からしても、有り得ない。

井手純二の手記には間違いが多よね。

当時の中国人が大人しく付いて来ることなどある訳がない。

下士官用の軍刀は二分の一しか附刃していないし、日本刀も同じく二分の一刃を潰してある。

これで切れる訳がない。

日本軍が提げている刀は、指揮刀で突撃の時に突き刺すことが出来るようになっているだけだよ。

Re: 目撃者証言(1)

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/18 09:21 投稿番号: [28769 / 29399]
南京入城後、便衣平を差し出したのは南京安全委員会の連中だよ。

便衣兵の内高級将校は匿ったようだけどね。

然し内通者によって摘発されたんだよ、これ中国人。

Re: 陣中日記(4)

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/18 08:45 投稿番号: [28768 / 29399]
>砲兵隊を最前線に置く方が戦法として理にかなっているのだが。

↑第一線は歩兵だよ、其の歩兵を掩護するのが機関銃だよ、夫れ等を後方から支援するのは砲兵だよ。

砲兵は第一線の何処にでも掩護出来る様な場所に陣地を於くんだよ。

大砲を歩兵の前に置くのは君位だろうね、自由が利かずに、直ぐ殲滅される。

Re: 陣中日記(3)

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/18 08:42 投稿番号: [28767 / 29399]
>誰かが改竄したのだろう。

>資料の改竄をするお前さんがとやかくいう話ではないようだが。

↑矢張り改竄された居た、偽物と言うことだね、納得。

Re: 陣中日記(2)

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/18 08:41 投稿番号: [28766 / 29399]
>軍隊では階級が違えば、天国と地獄。

↑天国と地獄という事は無いよ、日本軍の場合。

司令官は、軍の先頭に居るんだよ。


歩兵第三十八連隊命令   十二月九日午後一時五十分
於   東流鎮
一.東流鎮西北側ニハ兵力不明ノ敵ヲ見ル

二.第一大隊(第三、第四中隊欠)ハ前兵トナリ前面ノ小敵ヲ撃破シ中隊ノ目標ニ向ヒ前進スベシ

三.連隊本部、第三中隊、連隊砲(一小隊欠)、速射砲1/2、野砲二小隊ハ前衛本隊トス順序ハ前兵ノ後方約七百米ヲ続行スベシ

四.余ハ前衛本隊ノ先頭ヲ行進ス
連隊長   助川大佐

>だがどこにでも世渡り上手の人間はいるもので、うまく上官に取り入って、軍の上層部の動きまで把握しているものもいたという話はよく聞く。

↑誰から聞くのか知らんが、上層部の考えが解っていれば、命令はいらんだろう、然し命令は毎日有るんだよ。

Re: 陣中日記(1)

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/18 08:36 投稿番号: [28765 / 29399]
使用の改竄をしても良いなどとは主張したことはないよ。

日記はやっぱり改竄されていたんだね、君の主張に依ると。

目撃者証言(3)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/17 21:55 投稿番号: [28763 / 29399]
南京事件否定派の東中野教授は   『南京事件証拠写真を検証する』
という著書で、いくつかの写真を   「検証」   してみせた。
しかし、これは   はじめから   南京虐殺とは関係ない写真ばかりを
引き合いに出し、「証拠とならない」   と言ってみせることで、
事件の証拠はない   と思わせる   トリックに   すぎなかった。
その東中野教授が、「検証」   しようとしない   写真がある。

それは、村瀬守保氏が   撮影した写真だ。
村瀬氏は、当時   目黒輜重連隊   兵站自動車第17中隊に所属し、
補給部隊として   南京戦の後を   辿りながら、貴重な記録写真を
多数   撮影した人物だ。   村瀬氏の   写真は   撮影の日時、場所、
状況などが   はっきりしているが、こうした、信憑性の高い写真を
初めから   除いたうえで   「検証した」   というのは、詐欺だ。
以下、『村瀬守保写真集   私の従軍中国戦線』   から引用する。

   南京制圧
   第一線に近づくにつれて、部落を通過するたびに虐殺死体が
   目立ち始めました。   (略)奥の部屋に踏み込むと、下半身
   裸の婦人が、下腹部を切り裂かれて、死んでいます。
   少し奥には、五〜六歳の子供が、うつぶせに死んでいました。
   プーンと、血生臭いにおいが、立ちこめています。 (略)
   このような虐殺死体は、随所に見られました。 婦人に暴行を
   加えて虐殺し、女性の性器に   棒を差し込んでおくような、
   残虐な事例も   何回か目にしました。

   南京の攻略が   大幅に遅れたので、第一線部隊の   兵隊は、
   厳しい命令を受けて、目が血走っていました。
   小休止で一緒に休んだ時の話をきくと、「南京一番乗りは
   師団の至上命令だ。南京へいけば、女はいくらでもいるし、
   酒もある。速くいったものは、やりたいほうだい、何でも
   やれるぞ」   と上官からハッパをかけられているのです。
    (略)
   ようやく足止めが解除されて、ある日荷物受領に揚子江岸の
   下関埠頭へ行きました。   すると、広い河岸が一杯に死体で
   うまっているのです。 岸辺の泥に埋まって幅十メートル位は
   あろうか、と思われる   死体の山でした。
   揚子江岸で大虐殺が行われたという   その現場でしょうか、
   軍服を着た者は   ほとんどなく、大部分が平服の   民間人で、
   婦人や子供も   交じっているようでした。
   死体に油をかけて、焼こうとしたため黒焦げになった死体も、
   数多くありました。   死臭で息もつけない中を、工兵部隊が
   死体を   沖に運んで   流す作業を   やっていましたが、
   こんなやり方では、一〜二ヵ月は   かかりそうでした。

補給部隊が   第一線を追っていく途上で、虐殺死体が   第一線に
近づくほど目立っていった   という事実が   記されている。
否定派お得意の“中国軍の自作自演”の可能性については、一言も
述べておらず、「やりたいほうだい、何でもやれるぞ」   いう声を
聞いた事実を記すことで、実行犯が誰かなのかを   示唆している。

例によって南京虐殺否定派は、村瀬氏を   嘘つき呼ばわりするか、
あるいは、村瀬氏が見たのは   戦闘で死んだ   兵士の死体であり、
民間人というのは間違いだ   などと   主張するだろう。  
しかし、当時の軍隊生活と   戦場の実体験を有する者の記述を、
現場を見ていない者が   憶測をならべて、ウソや間違いだ   などと
断じるのは、やはり   無理な話だろう。
犯行現場に居た者、目撃した者の証言は、犯罪捜査の場面でも、
また、裁判の場でも、重要な証拠として   採用されるものだ。

目撃者証言(2)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/17 21:54 投稿番号: [28762 / 29399]
南京事件否定論は、いずれも「なかったはずだ」「信じられない」
「あったはずがない」   という   主観論、憶測に   過ぎない。
これに対し、その時・その現場に   居た者の証言は   客観的で、
具体的な供述であり、「直接証拠」   としての価値を有している。
前述の   井出純二氏の手記を   続けて   引用しよう。

   私は   彼らが屠所へ引かれる羊のように   おとなしく
   追い立てられるのが、ふしぎで   ならなかった。
   (中略)
   もっとも、その前に北支戦線で   やはり捕虜を日本刀で
   処刑する現場を見たことがあるが、このときも観念して
   おとなしく   斬られていた。
   あきらめのよいのは   中国人の民族性なのだろうか。
   (中略)
   さていよいよ処刑が始まった。日本刀もあれば下士官用の
   ダンベラを   振りかざす者もいるが、捕虜は   おとなしく
   坐りこんでいる。  
   それを   次々に斬って、水面に   けり落しているのだが、
   ダンベラは   粗末な新刀だから   斬れ味は   悪い。

   一撃で首をはねることができるのは   かなりの名人で、
   二度、三度と   斬りおろして   やっと首が落ちるのが
   大多数だが、念入りにやるのも   面倒くさいのか、
   一撃して   半死半生のままの捕虜を   けり落していた。
   傍まで行くと、四十歳前後の   ヒゲの応召兵が
   「戦友○○のカタキ討ちだ。   思い知れ」   と大声で
   怒鳴りながら   ダンベラを   ふるっている。
   (中略)
   その後もう一度同じような処刑風景を見たが、別の日に
   江岸で   数人の兵が   指さしながら   見物しているので、
   「何ですか」   と聞いてみると、十数人の捕虜を乗せた
   舟を   揚子江の中流まで   漕ぎ出して   捕虜を突き落し、
   舟の上から   機銃で   射ち殺しているところだった。

   その前後、江岸にたまった死体を   工兵隊らしい連中が、
   舟の上からサオとカギを使って流しているのを目撃して、
   カメラに収めた。   北支でも   そうだったが、こうした
   処刑場面を   第三者の目から   隠そうという気持が、
   当事者には   まったく   なかったようだ。
   将校か指揮官でもいたら   事情を聞いてみたはずだが
   姿は   なかった。
   末端の兵隊に掃除させているような   感覚だったのだろう。
   (中略)
   そのころ   市内の電柱に、日本軍の名で   「兵器修理工場を
   つくる。   少しでも   兵器取扱いの経験者は来れ、優遇する」
   といった   求人広告が   貼ってあるのを見た。
   中国で   兵器取扱いの経験者   といえば、旧軍人とみて
   まず間違いなし   というわけで、これも   苦しまぎれの
   敗残兵狩出しの   奇策だったようだ。
   (1984年発行「増刊歴史と人物   秘史・太平洋戦争」より)

目撃者証言(1)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/17 21:53 投稿番号: [28761 / 29399]
容疑者の自白、そして   被害者や   目撃者による   証言は、
犯罪捜査でも   裁判でも、犯行事実を証明する直接証拠となる。
南京虐殺事件に関しても、同様のことが   言える。
被害者や   目撃者の証言は、「直接証拠」   にほかならない。
当時の陸軍航空兵軍曹・飛行第8大隊付従軍記者、井出純二氏も
重要な   証言者の一人だ。   その手記を   以下に引用してみたい。

   いわゆる南京虐殺事件は、十七日の入城式と   翌十八日の
   慰霊祭を前に、治安の確立を焦った   日本軍が、
   市民の間に逃げこんだ便衣兵を、大量に   狩り立てて
   殺したのが   主体ではないか   と推測する。
   中支方面軍最高指揮官である松井大将が、慰霊祭における
   訓示の中で、特に軍の暴行にふれて   批難、叱責したのも、
   今後の再発を予見し、戒めてのことではなかったのか。

   にもかかわらず、それから   十数日経った後、南京埠頭で
   私が見た   光景は、なんと   解すべきか。
   軍司令官の威令、日本の軍規は、なぜに   そこまで
   堕落していたのか。

   ましてや   私が見た限りでは、大量、組織的、軍命令による
   白昼堂々の   “公的処刑”   としか   見えなかったのは、
   いったい   どうしたことなのか。
   私は、松井大将の声涙くだる異例の訓示と、この現実との
   相関について、いまだに   その解釈に   苦しんでいる。
   (中略)
   鉄橋の手前で、収容所から   運ばれてきたらしい  
   二十人ばかりの   中国人捕虜が   トラックから降ろされ、
   江岸へ   連行されて行く。
   釈放するからと偽って   連れてきたのか、みんな   大きな
   フロシキ包みをかかえ、厚い綿入りの冬服を   着ていた。
   軍服姿は   見当らなかったが、二十、三十歳代の男が主で、
   坊主刈りが   多いので、便衣兵かなあと   眺めていた。

   江岸まで200メートルもあったろうか、道路のカーブを
   曲ると、江岸の斜面から水際にかけて   処刑された死体が
   ゾロゾロと   重なっている。
   追い立てられて   よろよろと歩いてきた   捕虜たちは  
   気づいて   動揺したようだが、ここまで来ると、
   もう   逃げ道はない。

井出氏が   中国人捕虜の大量殺害を   目撃した時期は、
日本軍の入城・占領から、すでに   十数日が   経過していた。
当然ながら、すでに「戦闘中」   ではない。   にもかかわらず、
「大量、組織的」   な殺害が   遂行されていた   というのだ。

松井大将が   わざわざ「異例の訓示」で、「軍の暴行」にふれて
「批難、叱責した」   ほどだったが、その訓示と実際に目撃した
光景とは   相反するものであり、理解に苦しむものだった――
これが、   その時、その現場に居た者による   目撃証言だ。
[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | [ メッセージ # オフセット ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Yahoo! Japan 掲示板 アーカイヴ

[検索ページ] (中東) (東亜) (捕鯨 / 捕鯨詳細)