総理の靖国参拝「日本側の言い分」
投稿者: h2s567jp 投稿日時: 2005/05/05 23:44 投稿番号: [7995 / 29399]
>2004年12月1日(水) 河野太郎
>中国側の言い分・・・・
日本側の言い分
(読売新聞2001年7月29日「地球を読む」(抜粋)
靖国参拝論争
小泉総理は終戦記念日に靖国参拝を行うと言っている。小泉氏の性格からいって、やると言えばやるのであろう。そしてその理由は単純明快に、戦没者に哀悼の意を表するという事である。結論から言えば私はそれで良いと思う。公式、非公式の問題などは論ずる必要もない。
ただ、首相の靖国参拝の問題は、一九八〇年代以来内外で激しい論争の対象となって来ているのでこのあたりで問題の経緯をふり返って、もう一度整理して置く事は有益であろう。
敗戦の年昭和二十年の十月、幣原首相は靖国に参拝して大戦の戦没者の霊を弔ったが、その後GHQの指示で、戦没者の慰霊祭への公的関与は一切禁止された。講和条約が署名されると、吉田首相は、その批准を待たず、まだ占領中であったが、「戦没者の慰霊祭等への公人の参拝差し支えなし」という占領軍の許可を得て公式参拝を行った。吉田も遺族達も感無量であったと報じられている。
その吉田は四回、岸は二回、池田は五回、佐藤は十一回、田中は五回、首相として、公的形式で参拝している。
公式参拝と私的参拝の区別が論じられるようになったのは三木首相の時からである。三木は歴代総理の中でも例外的なポピュリスト・パシフィストであり、防衛費の一%枠とか、防衛計画の大綱とか、その軌道再修正にその後数内閣を要するような、自らの手をしばる制限を自ら課しているが、その時私人として参拝したと説明した。これも、そう言わねばならない客観的情勢は何もなく、自分から言い出した事である。何か理由があるとすれば、当時稲葉法相が自主憲法制定国民会議に出席した事を「個人の立場で」と釈明したことがその背景にあったと推察されている。福田首相もその前例にしたがい、その後は私的参拝となった。
次に問題となる戦犯合祀の問題の経緯は、まず講和条約発効と同時に、まだ服役中の同胞の釈放運動が起り、講和条約の規定の下に関係諸国の同意を得て昭和三十三年までに全員が釈放された。これと平行して戦争裁判の刑死、獄死者の遺族年金、恩給支給の運動も起った。懲役三年以上の刑に処せられた者の恩給は停止されるが、戦争裁判の刑死者等は日本国内法の犯罪者ではなく戦争の犠牲者と考えるという事であり、当時の左右社会党を含む国会の全会一致で決定された。その頃の日本人の心の中には迷いはなかったと言える。
「中国外交政策の一部に」
A級戦犯合祀
靖国神社への合祀予定者の選考基準は引揚援護局が決定したが、その際、遺族援護法や恩給法の受給者原簿が参考とされた。そして三四年から戦争裁判受刑者が逐次合祀され、五十三年にA級十四名が合祀されて完了した。
この当時は、中国等から何の抗議もなく、五四年の大平、五五、六年の鈴木参拝も何の問題も生じなかった。五七年となると、最近二十年間の「自虐史観」問題の端緒となる教科書問題が起り、中国の対日批判が激しくなるが、「A級戦犯合祀」の批判はなく、中曽根首相となって五八、五九年の参拝も問題なく行われた。
現在の靖国問題が始まったのは、昭和六〇年からである。中曽根首相は、かねてから「戦後の総決算」を標榜していたが、五九年に靖国懇話会を設け、その報告書に基いて六〇年八月十五日には公式参拝を行った。
これに対し、八月七日の朝日新聞は、靖国問題を「中国が厳しい視線で凝視している」と書き、十一日の人民日報は、靖国参拝に批判的な日本国内の動きを報道し、はじめは互いに相手国を引用する形で、反対運動を開始し、そして遂に十四日には、中国外務省スポークスマンが、「アジア各国人民の感情を傷ける」と、はじめて公式に反対の意思表示をした。そして、二七日から三〇日までの社会党訪中において、社会党と中国は公式参拝批判の気勢を大いに上げ、反対運動は燃え上がり、中曽根首相は、その後退任まで参拝できなくなってしまった。そしてこの時以来、この干渉の成功に味をしめた中国は、靖国問題干渉を中国外交政策の一部として維持し、また、それは一九九五年頃の中国の愛国運動などにより中国の「国民感情」となり、日本国内左翼と相呼応しつつ今日に至っている。
公式と非公式
現在反体制側の立場は、「公式」参拝反対に集約されているようである。公式参拝は三木首相まで、二十五年間誰も違憲だと言いさえしなかった問題である。最近問題とされているのは、昭和六十年まで六年間A級戦犯合祀に、中国も反対しなかったのは、それが非公式参拝の時期だったからだというあとからつけた理屈によるものである。
>中国側の言い分・・・・
日本側の言い分
(読売新聞2001年7月29日「地球を読む」(抜粋)
靖国参拝論争
小泉総理は終戦記念日に靖国参拝を行うと言っている。小泉氏の性格からいって、やると言えばやるのであろう。そしてその理由は単純明快に、戦没者に哀悼の意を表するという事である。結論から言えば私はそれで良いと思う。公式、非公式の問題などは論ずる必要もない。
ただ、首相の靖国参拝の問題は、一九八〇年代以来内外で激しい論争の対象となって来ているのでこのあたりで問題の経緯をふり返って、もう一度整理して置く事は有益であろう。
敗戦の年昭和二十年の十月、幣原首相は靖国に参拝して大戦の戦没者の霊を弔ったが、その後GHQの指示で、戦没者の慰霊祭への公的関与は一切禁止された。講和条約が署名されると、吉田首相は、その批准を待たず、まだ占領中であったが、「戦没者の慰霊祭等への公人の参拝差し支えなし」という占領軍の許可を得て公式参拝を行った。吉田も遺族達も感無量であったと報じられている。
その吉田は四回、岸は二回、池田は五回、佐藤は十一回、田中は五回、首相として、公的形式で参拝している。
公式参拝と私的参拝の区別が論じられるようになったのは三木首相の時からである。三木は歴代総理の中でも例外的なポピュリスト・パシフィストであり、防衛費の一%枠とか、防衛計画の大綱とか、その軌道再修正にその後数内閣を要するような、自らの手をしばる制限を自ら課しているが、その時私人として参拝したと説明した。これも、そう言わねばならない客観的情勢は何もなく、自分から言い出した事である。何か理由があるとすれば、当時稲葉法相が自主憲法制定国民会議に出席した事を「個人の立場で」と釈明したことがその背景にあったと推察されている。福田首相もその前例にしたがい、その後は私的参拝となった。
次に問題となる戦犯合祀の問題の経緯は、まず講和条約発効と同時に、まだ服役中の同胞の釈放運動が起り、講和条約の規定の下に関係諸国の同意を得て昭和三十三年までに全員が釈放された。これと平行して戦争裁判の刑死、獄死者の遺族年金、恩給支給の運動も起った。懲役三年以上の刑に処せられた者の恩給は停止されるが、戦争裁判の刑死者等は日本国内法の犯罪者ではなく戦争の犠牲者と考えるという事であり、当時の左右社会党を含む国会の全会一致で決定された。その頃の日本人の心の中には迷いはなかったと言える。
「中国外交政策の一部に」
A級戦犯合祀
靖国神社への合祀予定者の選考基準は引揚援護局が決定したが、その際、遺族援護法や恩給法の受給者原簿が参考とされた。そして三四年から戦争裁判受刑者が逐次合祀され、五十三年にA級十四名が合祀されて完了した。
この当時は、中国等から何の抗議もなく、五四年の大平、五五、六年の鈴木参拝も何の問題も生じなかった。五七年となると、最近二十年間の「自虐史観」問題の端緒となる教科書問題が起り、中国の対日批判が激しくなるが、「A級戦犯合祀」の批判はなく、中曽根首相となって五八、五九年の参拝も問題なく行われた。
現在の靖国問題が始まったのは、昭和六〇年からである。中曽根首相は、かねてから「戦後の総決算」を標榜していたが、五九年に靖国懇話会を設け、その報告書に基いて六〇年八月十五日には公式参拝を行った。
これに対し、八月七日の朝日新聞は、靖国問題を「中国が厳しい視線で凝視している」と書き、十一日の人民日報は、靖国参拝に批判的な日本国内の動きを報道し、はじめは互いに相手国を引用する形で、反対運動を開始し、そして遂に十四日には、中国外務省スポークスマンが、「アジア各国人民の感情を傷ける」と、はじめて公式に反対の意思表示をした。そして、二七日から三〇日までの社会党訪中において、社会党と中国は公式参拝批判の気勢を大いに上げ、反対運動は燃え上がり、中曽根首相は、その後退任まで参拝できなくなってしまった。そしてこの時以来、この干渉の成功に味をしめた中国は、靖国問題干渉を中国外交政策の一部として維持し、また、それは一九九五年頃の中国の愛国運動などにより中国の「国民感情」となり、日本国内左翼と相呼応しつつ今日に至っている。
公式と非公式
現在反体制側の立場は、「公式」参拝反対に集約されているようである。公式参拝は三木首相まで、二十五年間誰も違憲だと言いさえしなかった問題である。最近問題とされているのは、昭和六十年まで六年間A級戦犯合祀に、中国も反対しなかったのは、それが非公式参拝の時期だったからだというあとからつけた理屈によるものである。
これは メッセージ 7985 (yominokuni56 さん)への返信です.