外務省報道官談話・・毒ガス
投稿者: rirabeat 投稿日時: 2004/11/28 22:46 投稿番号: [6961 / 29399]
★黒龍江省チチハル市における毒ガス事故について
平成15年8月22日
1. 22日午前、中国外交部よりわが方在中国大使館に対し、今回の事故の被害者のうち1名が、21日午後8時55分に死亡した旨の通報があった。わが国政府としては、今回亡くなられた被害者の御家族に対して心からお悔やみ申し上げる。
2. わが国政府は、今後、このような被害が生じないようにするためにも、危険な状態にある遺棄化学兵器を出来るだけ早く処理すべく、
化学兵器禁止条約上の廃棄義務に則り適切に対処していく考えであり、また、今回の事故への対応に当たり、中国側と密接に協力しつつ、引き続き誠実に対応していきたい。
(参考)
1. 今回の事故に関しては、わが国政府として、これまで事実関係確認のための調査チーム(8月8日)、事故原因となったドラム缶の仮梱包チーム(8月4日から15日)を派遣したほか、医療専門家チームも派遣(8月15日から17日)している。
2. 中国側によれば、22日現在、本件事故の被害者は43名(そのうち危篤であった1名が21日に死亡したもの)。
★立教大学の粟谷教授や中央大学の吉見教授は「日本の化学戦争が東京裁判で免責にされて、お咎めなしになったが、これはいったい何故だろう。」
ということで、ずっと研究してきた結果、
【アメリカの公文書保管所で、日本の化学戦争の実態が文献として残っていることを発見した。】
この文献をひもといて見ると、
【日本陸軍がその時の参謀の名において、何月何日にどこで毒ガス戦争をして、】どうなったかが、びっしりと書いてある。
しかも、昭和12年(1937年)に日中戦争が始まって、その翌年の8月に毒ガスを使いなさいという命令を出している。
その時の参謀総長は皇族の1人なんです。
また、大久野島で昭和8年(1933年)頃からまともな毒ガスが造れるようになったと言いましたが、その昭和8年(1933年)には高松の宮殿下が視察にきています。
昭和9年(1934年)には、秩父の宮殿下がやはり視察にきています。
こういったことは、毒ガス資料館でも展示しています。
それなのに、昭和58年(1983年)に大学の先生たちがそれを発見して新聞報道するまでは、
【政府は化学戦争はなかったと否定し続けてきた。】
昭和58年以降は否定も肯定もできなくなった。しかし、化学戦争は認めていないと政府は言うのです。そして、現在に至っているわけです。
ここ3年くらい前から、こんどは中国側から発表がありました。「日本の化学戦は、昭和12年(1937年)から17年の間に、2100回以上行われた。その間に8万人以上の死傷者をだした。」さらには、元満州、今の中国東北部では、200万発の毒ガス遺棄弾が埋蔵されている。
これは日本政府のもとで、調査するようにといっている。そして、ここ2年くらいは調査したんでしょう。
今年になって、その毒ガス遺棄弾の中には日本のものがあることを確認したそうです。
うまくいけば、来年にはそれらの処理に入っていく。一方、一昨年の1月だったと思いますが、パリで昔のジュネーブ協定よりまだ厳しい生物・化学兵器全廃条約が締結されました。そして、日本はその条約に調印しました。
ところが、調印しても調印国が批准して自国での法律を成立させなければ、条約そのものが効力を発することができない。だから、調印国全部が批准したら、生物・化学兵器を持っている国は、その国の責任において処分しなければならないわけです。
当然、日本は中国に埋まっている毒ガス弾を処理しなくてはならない。
早々と、その処理の金額を算出しています。1発が10数万円かかります。200万発といいますと、相当な金額になるでしょう。
そういう問題が今クローズアップされている。その時に現在のサリン問題が起こりました。それで急遽、日本は条約を批准することにしたそうです。
そして、毒ガス・サリン法を整備しました。毒ガスの問題ですから、あまり新聞にも大きくできないんです。ここらが、今日の演題「加害者としての日本ーそして広島」に関連してくるものにおそらくなってくるんだと、私は考えます。
http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou01-2.html
平成15年8月22日
1. 22日午前、中国外交部よりわが方在中国大使館に対し、今回の事故の被害者のうち1名が、21日午後8時55分に死亡した旨の通報があった。わが国政府としては、今回亡くなられた被害者の御家族に対して心からお悔やみ申し上げる。
2. わが国政府は、今後、このような被害が生じないようにするためにも、危険な状態にある遺棄化学兵器を出来るだけ早く処理すべく、
化学兵器禁止条約上の廃棄義務に則り適切に対処していく考えであり、また、今回の事故への対応に当たり、中国側と密接に協力しつつ、引き続き誠実に対応していきたい。
(参考)
1. 今回の事故に関しては、わが国政府として、これまで事実関係確認のための調査チーム(8月8日)、事故原因となったドラム缶の仮梱包チーム(8月4日から15日)を派遣したほか、医療専門家チームも派遣(8月15日から17日)している。
2. 中国側によれば、22日現在、本件事故の被害者は43名(そのうち危篤であった1名が21日に死亡したもの)。
★立教大学の粟谷教授や中央大学の吉見教授は「日本の化学戦争が東京裁判で免責にされて、お咎めなしになったが、これはいったい何故だろう。」
ということで、ずっと研究してきた結果、
【アメリカの公文書保管所で、日本の化学戦争の実態が文献として残っていることを発見した。】
この文献をひもといて見ると、
【日本陸軍がその時の参謀の名において、何月何日にどこで毒ガス戦争をして、】どうなったかが、びっしりと書いてある。
しかも、昭和12年(1937年)に日中戦争が始まって、その翌年の8月に毒ガスを使いなさいという命令を出している。
その時の参謀総長は皇族の1人なんです。
また、大久野島で昭和8年(1933年)頃からまともな毒ガスが造れるようになったと言いましたが、その昭和8年(1933年)には高松の宮殿下が視察にきています。
昭和9年(1934年)には、秩父の宮殿下がやはり視察にきています。
こういったことは、毒ガス資料館でも展示しています。
それなのに、昭和58年(1983年)に大学の先生たちがそれを発見して新聞報道するまでは、
【政府は化学戦争はなかったと否定し続けてきた。】
昭和58年以降は否定も肯定もできなくなった。しかし、化学戦争は認めていないと政府は言うのです。そして、現在に至っているわけです。
ここ3年くらい前から、こんどは中国側から発表がありました。「日本の化学戦は、昭和12年(1937年)から17年の間に、2100回以上行われた。その間に8万人以上の死傷者をだした。」さらには、元満州、今の中国東北部では、200万発の毒ガス遺棄弾が埋蔵されている。
これは日本政府のもとで、調査するようにといっている。そして、ここ2年くらいは調査したんでしょう。
今年になって、その毒ガス遺棄弾の中には日本のものがあることを確認したそうです。
うまくいけば、来年にはそれらの処理に入っていく。一方、一昨年の1月だったと思いますが、パリで昔のジュネーブ協定よりまだ厳しい生物・化学兵器全廃条約が締結されました。そして、日本はその条約に調印しました。
ところが、調印しても調印国が批准して自国での法律を成立させなければ、条約そのものが効力を発することができない。だから、調印国全部が批准したら、生物・化学兵器を持っている国は、その国の責任において処分しなければならないわけです。
当然、日本は中国に埋まっている毒ガス弾を処理しなくてはならない。
早々と、その処理の金額を算出しています。1発が10数万円かかります。200万発といいますと、相当な金額になるでしょう。
そういう問題が今クローズアップされている。その時に現在のサリン問題が起こりました。それで急遽、日本は条約を批准することにしたそうです。
そして、毒ガス・サリン法を整備しました。毒ガスの問題ですから、あまり新聞にも大きくできないんです。ここらが、今日の演題「加害者としての日本ーそして広島」に関連してくるものにおそらくなってくるんだと、私は考えます。
http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou01-2.html
これは メッセージ 1 (yuukouheiwa さん)への返信です.