>>質問ですが...ささやかにお答え
投稿者: oityantyan 投稿日時: 2004/09/03 22:14 投稿番号: [5985 / 29399]
急いで返答し、単位を間違えまして、まことに申し訳ございません。でした。
簡単に答えた事をお詫び致します。
>南京空襲が「南京」事件と繋がり有り、なら..
これは上海派遣軍の上陸の前哨戦としてとらえられているかと思います。
、廬溝橋事件、上海事変勃発をきっかけにして、
1937年8月15日から長崎の大村基地から木更津航空隊の新鋭機96式陸上攻撃機20機空爆に向かっています。
これは海軍の新鋭機のテスト長距離爆撃飛行であったという説が有力です。
勿論のことですが「南京政府に宣戦布告や警告も無く、いきなりの無差別爆撃だったようです。
ですから、戦闘機の護衛など無く、爆撃できたのでしょう。しかし4機の損害を受け、6機の被弾による要修理のため、作戦不可能になるという損害を出し、その後は中国戦闘機の攻撃を受けない夜間空襲に変更し昼間の爆撃は高度3000メートルを維持して対空砲火を受けない高高度爆撃に変更している。(中国方面海軍作戦より)
(長距離飛べる戦闘機など日本海軍にはありませんでした、)
この時点では陸軍との打ち合わせがあったのかは不明です、たぶん、無かったと思います、後に陸軍と協力態勢が整い南京攻略戦が始まったと考えられると思います。
>1.中国政府や他の人々の主張するように「20万人以上」の無差別大量虐殺があったか否か。
これは貴方が言われる南京城内(約世田谷区の面積)に限定したとすれば、果たして海軍の昼夜間の爆撃は何を意味したのか、疑問が残りますね?
狭い範囲を爆撃すれば殆どの住民は被害を被っていたと思います。
南京虐殺事件の範囲につきましては、南京城内と狭い範囲を限定する人は20万人も虐殺していないし、そもそも20万人もそこには居なかった。と言うことでしょう。
(富裕者層、外国人は早々と避難し、残っていたのは貧民や難民、公務を離れられなかった公務員くらいしか残っていなかったようです)
>2.上記は「日本軍上層部の意図的な管理・命令による『組織的実行』であったか否か」
命令系統の瓦解、司令官、上官の虐殺、略奪、強姦の防止に関しての無作為でしょう。
入れてはいけない部隊が南京城内へ入ってしまったと言うことも、悲劇の一因ではないでしょうか。
>3.この期間は南京攻略戦開始から、少なくとも勝敗の決した後数日〜1、2週間程度。
これは説によれば、上海から南京までの直線距離にしての300kmの行軍時も含むべきでしょう。
食料は現地調達ですので、、手当たり次第略奪していると思います。
10数万の日本軍兵士が刈り入れたばかりの穀物、家畜を徴用、徴発と称して、略奪をしています。せっかく刈り取った穀物や家畜を無理矢理、取り上げられれば、中国人農民に限らず抵抗するでしょう。抵抗すれば、撃ち殺す、、それが、徴用、徴発だったと思いますが?
>>南京特別市が「東京、埼玉、神奈川」をあわせたくらいの広さに当たる訳ですから
>これは現在の行政区分ですか?それとも当時の?
これは当時の行政区分です。
六合、江浦、江寧、浬水(あて字です)、句容、高淳の六県が含まれていたとなっています。
次に
一九九七年現在、(句容県は句容市に昇格し南京市を離れ、行政区としては鎮江市に属している)
一九九七年の人口は六合県=六十八万人、江浦県=七十六万人 江寧県=七十六万人 浬水県=四十万人 高淳県=四十三万人 句容市=六十万人
南京城区=二百六十三万人となっています。
スマイス教授によりますと、当時の近郊区の人口は高淳県と六合県半分を除いた四県半でも百二十万人から百三十六万人、南京城区は百万人の人口を抱えていたと言うことです(南京区における戦争被害)
南京防衛軍の防御陣地において広域に虐殺は行われたと見るべきではないでしょうか。
と思います。
簡単に答えた事をお詫び致します。
>南京空襲が「南京」事件と繋がり有り、なら..
これは上海派遣軍の上陸の前哨戦としてとらえられているかと思います。
、廬溝橋事件、上海事変勃発をきっかけにして、
1937年8月15日から長崎の大村基地から木更津航空隊の新鋭機96式陸上攻撃機20機空爆に向かっています。
これは海軍の新鋭機のテスト長距離爆撃飛行であったという説が有力です。
勿論のことですが「南京政府に宣戦布告や警告も無く、いきなりの無差別爆撃だったようです。
ですから、戦闘機の護衛など無く、爆撃できたのでしょう。しかし4機の損害を受け、6機の被弾による要修理のため、作戦不可能になるという損害を出し、その後は中国戦闘機の攻撃を受けない夜間空襲に変更し昼間の爆撃は高度3000メートルを維持して対空砲火を受けない高高度爆撃に変更している。(中国方面海軍作戦より)
(長距離飛べる戦闘機など日本海軍にはありませんでした、)
この時点では陸軍との打ち合わせがあったのかは不明です、たぶん、無かったと思います、後に陸軍と協力態勢が整い南京攻略戦が始まったと考えられると思います。
>1.中国政府や他の人々の主張するように「20万人以上」の無差別大量虐殺があったか否か。
これは貴方が言われる南京城内(約世田谷区の面積)に限定したとすれば、果たして海軍の昼夜間の爆撃は何を意味したのか、疑問が残りますね?
狭い範囲を爆撃すれば殆どの住民は被害を被っていたと思います。
南京虐殺事件の範囲につきましては、南京城内と狭い範囲を限定する人は20万人も虐殺していないし、そもそも20万人もそこには居なかった。と言うことでしょう。
(富裕者層、外国人は早々と避難し、残っていたのは貧民や難民、公務を離れられなかった公務員くらいしか残っていなかったようです)
>2.上記は「日本軍上層部の意図的な管理・命令による『組織的実行』であったか否か」
命令系統の瓦解、司令官、上官の虐殺、略奪、強姦の防止に関しての無作為でしょう。
入れてはいけない部隊が南京城内へ入ってしまったと言うことも、悲劇の一因ではないでしょうか。
>3.この期間は南京攻略戦開始から、少なくとも勝敗の決した後数日〜1、2週間程度。
これは説によれば、上海から南京までの直線距離にしての300kmの行軍時も含むべきでしょう。
食料は現地調達ですので、、手当たり次第略奪していると思います。
10数万の日本軍兵士が刈り入れたばかりの穀物、家畜を徴用、徴発と称して、略奪をしています。せっかく刈り取った穀物や家畜を無理矢理、取り上げられれば、中国人農民に限らず抵抗するでしょう。抵抗すれば、撃ち殺す、、それが、徴用、徴発だったと思いますが?
>>南京特別市が「東京、埼玉、神奈川」をあわせたくらいの広さに当たる訳ですから
>これは現在の行政区分ですか?それとも当時の?
これは当時の行政区分です。
六合、江浦、江寧、浬水(あて字です)、句容、高淳の六県が含まれていたとなっています。
次に
一九九七年現在、(句容県は句容市に昇格し南京市を離れ、行政区としては鎮江市に属している)
一九九七年の人口は六合県=六十八万人、江浦県=七十六万人 江寧県=七十六万人 浬水県=四十万人 高淳県=四十三万人 句容市=六十万人
南京城区=二百六十三万人となっています。
スマイス教授によりますと、当時の近郊区の人口は高淳県と六合県半分を除いた四県半でも百二十万人から百三十六万人、南京城区は百万人の人口を抱えていたと言うことです(南京区における戦争被害)
南京防衛軍の防御陣地において広域に虐殺は行われたと見るべきではないでしょうか。
と思います。
これは メッセージ 5984 (samurai_03_japan さん)への返信です.