東京裁判における南京虐殺事件調書1
投稿者: kinngyoya301 投稿日時: 2004/07/25 19:53 投稿番号: [5583 / 29399]
>東京裁判をあった根拠にすることは
手続き上の不都合はありましたが、無効ではありませんと言うことをまず一言申し上げます。
南京事件に関しての尋問調書を、まず読んでみて下さいね。
これでも、虐殺事件はなかったと言えるのでしょうか?
個人が見た、虐殺事件というモノはホンの枝葉の部分しか見えていないのですよ。
「木を見て森を見ず」の例え通り、枝葉しか見えないのです、その枝葉をかき集めて森の大きさを見る必要があるのではないでしょうか?
巣鴨プリズン尋問調書
被告人 武藤章中将
1937年陸軍参謀本部課長
39年日英交渉(天津英仏租界封鎖事件に関する交渉)に軍の代表を務めた。
39年10月陸軍省軍務局長、
戦争中は 近衛師団長、
44年10月フィリピン派遣軍第14方面軍参謀長を務めた。
東条の政策を支持し、狂信的とも言える軍国主義者の一人として、中国問題の最大の責任者と見なされており、自らもいくつかの軍事衝突にも参加している。
大政翼賛会を軍の政策を支える ファシスト組織に変貌させた実力者であり、米光内閣がドイツとの同盟に反対した際、同内閣を倒した責任者でもある。(田中隆元陸軍少将談=ジョン ハメル米陸軍少佐の聞き取りから)
さて、この人物 武藤章の尋問調書から判断すると、、
質問者 ハイダー他2名
武藤章中将は柳条湖事件、廬溝橋事件、南京攻略戦についての質問に答えた。
南京大虐殺の際 松井石根大将の中支邦方面軍の参謀副長を務めていたことに付いての質問。
ハイダー= 1937年11月将軍は中支那方面軍の参謀部にいましたね?
武藤= はい。
ハイダー= 12月に南京入りして いつまでいたのですか?
武藤= 上海に戻ったのは 12月24日か25日でした。
ハイダー= そうすると 南京陥落の約2週間後までいたわけですね?
武藤= そう、10日ほど後までいました。
ハイダー= 南京陥落の際の日本軍部隊の不品行については、知っていたのですか?
武藤= 当時 司令官の松井大将は結核を病み、後方に留まっていた。我々は、攻略式典の為、南京入りした。街はすでに片づけられており、一人で出歩いても安全だった。日本兵が乱暴を働いているという話は聞きませんでした。
ハイダー=あなたが南京入りする前か?後には?
武藤= 私の上官だった塚田(攻)参謀長から、事件のことは聞きました。
ハイダー= 彼は貴方に なんと言ったのですか?
武藤= 当初 南京攻略命令では 精選された質の良い部隊だけが市中にはいる予定だった。残りの部隊は市外に留まるようになっていた。ところが、全ての部隊が市中に入ってしまい、この行動に対して、松井大将は怒って部下を怒鳴りつけた。私は塚田参謀長から、盗み、殺人、暴行、婦女暴行などの事件が起きていると聞いた。その後、治安維持の為の部隊以外は全て 街を離れる様に命令が出されました。
ハイダー= 精選された部隊だけに市中入りを認めるように、、という命令の理由はなんだったのですか?他の都市で日本軍部隊による乱暴狼藉があったのですか?
武藤= もし、あまりに多くの部隊に南京入りを認めたら、問題が生じるだろうと予想されていた。何しろ日本軍部隊は、上海以来、多くの困難に耐えてきたからだ。それほど長期間にわたって緊迫した状況に置かれてきた兵隊達だから市中に入れることは望ましくないと考えられたのです。
ハイダー= 松井は勿論 そうした報告を知っていた訳ですね?
武藤= 松井大将は後になって そうした事件の事を聞き、激怒していました。
ハイダー= 松井が貴方にそう 話したのですか?
武藤= 松井大将がこの話を聞いて部下を怒鳴り付ける場に、私も居たのです。
ハイダー= それでは報告書にはそうした事件が非常に沢山言及されていた訳ですね?
武藤= それほど多くの事件が報告書に書かれていた訳ではなかった。報告書が出てからすぐ、憲兵に対して そうした行動を止めさせ、参加者を逮捕せよ、との命令がでました。
ハイダー= 貴方が命令を出しましたか?
武藤= 松井大将が出しました。
ハイダー= その命令が出たのは 貴方が南京を離れる前?か後か?
武藤 我々が式典を挙げるため南京入りをして間もなく、彼は情報を受け取り、すぐに命令を出しました。
2へとつづく
手続き上の不都合はありましたが、無効ではありませんと言うことをまず一言申し上げます。
南京事件に関しての尋問調書を、まず読んでみて下さいね。
これでも、虐殺事件はなかったと言えるのでしょうか?
個人が見た、虐殺事件というモノはホンの枝葉の部分しか見えていないのですよ。
「木を見て森を見ず」の例え通り、枝葉しか見えないのです、その枝葉をかき集めて森の大きさを見る必要があるのではないでしょうか?
巣鴨プリズン尋問調書
被告人 武藤章中将
1937年陸軍参謀本部課長
39年日英交渉(天津英仏租界封鎖事件に関する交渉)に軍の代表を務めた。
39年10月陸軍省軍務局長、
戦争中は 近衛師団長、
44年10月フィリピン派遣軍第14方面軍参謀長を務めた。
東条の政策を支持し、狂信的とも言える軍国主義者の一人として、中国問題の最大の責任者と見なされており、自らもいくつかの軍事衝突にも参加している。
大政翼賛会を軍の政策を支える ファシスト組織に変貌させた実力者であり、米光内閣がドイツとの同盟に反対した際、同内閣を倒した責任者でもある。(田中隆元陸軍少将談=ジョン ハメル米陸軍少佐の聞き取りから)
さて、この人物 武藤章の尋問調書から判断すると、、
質問者 ハイダー他2名
武藤章中将は柳条湖事件、廬溝橋事件、南京攻略戦についての質問に答えた。
南京大虐殺の際 松井石根大将の中支邦方面軍の参謀副長を務めていたことに付いての質問。
ハイダー= 1937年11月将軍は中支那方面軍の参謀部にいましたね?
武藤= はい。
ハイダー= 12月に南京入りして いつまでいたのですか?
武藤= 上海に戻ったのは 12月24日か25日でした。
ハイダー= そうすると 南京陥落の約2週間後までいたわけですね?
武藤= そう、10日ほど後までいました。
ハイダー= 南京陥落の際の日本軍部隊の不品行については、知っていたのですか?
武藤= 当時 司令官の松井大将は結核を病み、後方に留まっていた。我々は、攻略式典の為、南京入りした。街はすでに片づけられており、一人で出歩いても安全だった。日本兵が乱暴を働いているという話は聞きませんでした。
ハイダー=あなたが南京入りする前か?後には?
武藤= 私の上官だった塚田(攻)参謀長から、事件のことは聞きました。
ハイダー= 彼は貴方に なんと言ったのですか?
武藤= 当初 南京攻略命令では 精選された質の良い部隊だけが市中にはいる予定だった。残りの部隊は市外に留まるようになっていた。ところが、全ての部隊が市中に入ってしまい、この行動に対して、松井大将は怒って部下を怒鳴りつけた。私は塚田参謀長から、盗み、殺人、暴行、婦女暴行などの事件が起きていると聞いた。その後、治安維持の為の部隊以外は全て 街を離れる様に命令が出されました。
ハイダー= 精選された部隊だけに市中入りを認めるように、、という命令の理由はなんだったのですか?他の都市で日本軍部隊による乱暴狼藉があったのですか?
武藤= もし、あまりに多くの部隊に南京入りを認めたら、問題が生じるだろうと予想されていた。何しろ日本軍部隊は、上海以来、多くの困難に耐えてきたからだ。それほど長期間にわたって緊迫した状況に置かれてきた兵隊達だから市中に入れることは望ましくないと考えられたのです。
ハイダー= 松井は勿論 そうした報告を知っていた訳ですね?
武藤= 松井大将は後になって そうした事件の事を聞き、激怒していました。
ハイダー= 松井が貴方にそう 話したのですか?
武藤= 松井大将がこの話を聞いて部下を怒鳴り付ける場に、私も居たのです。
ハイダー= それでは報告書にはそうした事件が非常に沢山言及されていた訳ですね?
武藤= それほど多くの事件が報告書に書かれていた訳ではなかった。報告書が出てからすぐ、憲兵に対して そうした行動を止めさせ、参加者を逮捕せよ、との命令がでました。
ハイダー= 貴方が命令を出しましたか?
武藤= 松井大将が出しました。
ハイダー= その命令が出たのは 貴方が南京を離れる前?か後か?
武藤 我々が式典を挙げるため南京入りをして間もなく、彼は情報を受け取り、すぐに命令を出しました。
2へとつづく
これは メッセージ 5578 (htfgs719 さん)への返信です.