児玉誉志夫も
投稿者: dorawasabi5000 投稿日時: 2004/01/11 21:45 投稿番号: [4283 / 29399]
盗賊やったのか。
笹川良一達も戦後大阪で、連合軍相手の「RAA」と言う慰安施設を大々的にやり、「日本女性」を差し出したそうだ。
>「強盗殺人は悪い」という基準は、当然皇軍の侵略戦争にも当てはまり、その上、放火・強かんまでくり返したのであるから、弁解の余地もない。
ほんとね。「皇軍の加害」だけは見ないふり出来る人って、都合のいいフィルターが脳みそにかけてある、「フィルター頭」なんだ、きっと。
> 児玉誉士夫という泥棒は、戦後アメリカの犬として大活躍したが、中国からの略奪品が多すぎて、よって重すぎて飛行機も離陸がやっとこさだったというぞ。
↓ 皇軍の残虐に憤慨してたのに、自分も盗賊やったのか。
(児玉誉士夫氏は、1938(昭13)年6月から8月にかけて中国を旅している。以下は、このときの経験に関して氏が戦後に述懐した内容である。)
自分は日本を発つ前に外務省情報部長河相達夫氏を訪ねて、外地を旅する必要な援助と注意を受けたが、そのとき河相氏が数枚の写真を見せて「これが天皇の軍隊がすることだろうか」と言って憤慨していたが、それは現地にある日本軍が中国の婦女に暴行を加えている、
みるに堪えぬ写真であった。そのとき、ふと、これは中国政府が民衆に抗日思想を宣伝するためのトリックではなかろうかと疑ったが、いろいろなできごとに直面してみると、
***この写真は真実であることを肯定せざるを得なかった。
当時大同では、「大同に処女なし」という言葉があったが、この言葉の意味は日本軍の恥辱を意味するものであった。
また占領地の寺や廟に行ってみても仏像の首などが無惨にとり毀され、その壁に「何年何月何部隊占領」などと落書きしてあった。
人間が神や聖人でないかぎり、どこの軍隊でも戦場では若干の非行はあるとしても、当時、日増しに激化してきた中国の抗日思想の源が満州事変のみではなく、
***こうした日本軍の常識はずれの行為がさらにそれに拍車をかける結果となったのだと思う。
(略)
要するに宣戦の詔勅なき戦争、名分の明らかならざる戦い、日支事変は畢竟、王師ではなく、驕兵であったかもしれぬ。
自分は戦場を旅し、大陸における実状を知るにおよんで、在支百万の日本軍が聖戦の師であるか、侵略の驕兵なるかの疑問に悩まざるを得なかった。
このことは自分のみならず現地を知るものの多数が考えさせられた問題であったと思う。しかし国民のなかの多数の者がそれを自覚し得えたとしても、すでに軍国主義の怒涛が逆巻き、もはや何人の力をもってしてもそれを阻止することは不可能であった。
児玉誉士夫『われかく戦えり』広済堂出版 p.79-80
(洞『南京大虐殺――「まぼろし」化工作批判』p.136-137)
昭和十二年の秋ごろ、さきに盧溝橋事件に端を発した日支事変は燎原の火のごとく全面的に拡大されつつあった。そんなある日、笠木先生の使いで、河相先生を外務省の情報部長室にお訪ねしたのであった。
若輩の自分は、一人前の国士気取りで、大いに天下国家を論じた次第だが、その折、河相先生が自分に『児玉君、聖戦とはなにを意味するものか! 皇軍とはいかにあるべきであるかを知っているか!』と言われ、数枚の写真を自分に示され、『これが皇軍の姿か! このまま行けば、皇軍どころか、日本軍は崩壊するぞ!』と言われた。
その写真は現地から送られたもので、日本軍が良民を虐殺している場面や、中国の婦女子を暴行しているといった、見るに堪えないものであった。
笹川良一達も戦後大阪で、連合軍相手の「RAA」と言う慰安施設を大々的にやり、「日本女性」を差し出したそうだ。
>「強盗殺人は悪い」という基準は、当然皇軍の侵略戦争にも当てはまり、その上、放火・強かんまでくり返したのであるから、弁解の余地もない。
ほんとね。「皇軍の加害」だけは見ないふり出来る人って、都合のいいフィルターが脳みそにかけてある、「フィルター頭」なんだ、きっと。
> 児玉誉士夫という泥棒は、戦後アメリカの犬として大活躍したが、中国からの略奪品が多すぎて、よって重すぎて飛行機も離陸がやっとこさだったというぞ。
↓ 皇軍の残虐に憤慨してたのに、自分も盗賊やったのか。
(児玉誉士夫氏は、1938(昭13)年6月から8月にかけて中国を旅している。以下は、このときの経験に関して氏が戦後に述懐した内容である。)
自分は日本を発つ前に外務省情報部長河相達夫氏を訪ねて、外地を旅する必要な援助と注意を受けたが、そのとき河相氏が数枚の写真を見せて「これが天皇の軍隊がすることだろうか」と言って憤慨していたが、それは現地にある日本軍が中国の婦女に暴行を加えている、
みるに堪えぬ写真であった。そのとき、ふと、これは中国政府が民衆に抗日思想を宣伝するためのトリックではなかろうかと疑ったが、いろいろなできごとに直面してみると、
***この写真は真実であることを肯定せざるを得なかった。
当時大同では、「大同に処女なし」という言葉があったが、この言葉の意味は日本軍の恥辱を意味するものであった。
また占領地の寺や廟に行ってみても仏像の首などが無惨にとり毀され、その壁に「何年何月何部隊占領」などと落書きしてあった。
人間が神や聖人でないかぎり、どこの軍隊でも戦場では若干の非行はあるとしても、当時、日増しに激化してきた中国の抗日思想の源が満州事変のみではなく、
***こうした日本軍の常識はずれの行為がさらにそれに拍車をかける結果となったのだと思う。
(略)
要するに宣戦の詔勅なき戦争、名分の明らかならざる戦い、日支事変は畢竟、王師ではなく、驕兵であったかもしれぬ。
自分は戦場を旅し、大陸における実状を知るにおよんで、在支百万の日本軍が聖戦の師であるか、侵略の驕兵なるかの疑問に悩まざるを得なかった。
このことは自分のみならず現地を知るものの多数が考えさせられた問題であったと思う。しかし国民のなかの多数の者がそれを自覚し得えたとしても、すでに軍国主義の怒涛が逆巻き、もはや何人の力をもってしてもそれを阻止することは不可能であった。
児玉誉士夫『われかく戦えり』広済堂出版 p.79-80
(洞『南京大虐殺――「まぼろし」化工作批判』p.136-137)
昭和十二年の秋ごろ、さきに盧溝橋事件に端を発した日支事変は燎原の火のごとく全面的に拡大されつつあった。そんなある日、笠木先生の使いで、河相先生を外務省の情報部長室にお訪ねしたのであった。
若輩の自分は、一人前の国士気取りで、大いに天下国家を論じた次第だが、その折、河相先生が自分に『児玉君、聖戦とはなにを意味するものか! 皇軍とはいかにあるべきであるかを知っているか!』と言われ、数枚の写真を自分に示され、『これが皇軍の姿か! このまま行けば、皇軍どころか、日本軍は崩壊するぞ!』と言われた。
その写真は現地から送られたもので、日本軍が良民を虐殺している場面や、中国の婦女子を暴行しているといった、見るに堪えないものであった。
これは メッセージ 4272 (syoumenkyousi さん)への返信です.