白馬事件 天皇軍の将校たちが・・
投稿者: dorawasabi5001 投稿日時: 2012/08/24 00:45 投稿番号: [27918 / 29399]
★戦争中日本軍将校がオランダ人を強制連行し慰安婦にしたことで有名なスマラン事件(白馬事件)。
2007年6月日本の右派国会議員らが掲載した広告「FACTS」でも触れられている。
この事件はオランダ軍により裁かれたため証拠資料があり、
【日本軍による従軍慰安婦強制連行の明確な証拠である。】
ではその内容はいかなものか?
この事件は吉見義明が早期にオランダ軍事法廷の裁判記録を発見し、その代表的な著書「従軍慰安婦」(岩波新書)でくわしく紹介している。
また最近雑誌「週刊金曜日」(2007年6月22日号)でもオランダ軍事法廷の裁判記録が紹介されており、英語版がここ(http://www.kinyobi.co.jp/MiscPages/comfort_women)で読める。ここでは、その概要を示し、証拠である裁判資料も少しを紹介しよう。
(1)事件の概要
1944年日本軍占領中のインドネシア、ジャワ島で日本軍若手将校により抑留所にいたオランダ人女性に対して行われた強制売春・強姦事件である。
南方軍管轄の第16軍幹部候補生隊がオランダ人女性36人をスマランにあった慰安所4カ所に強制連行し慰安婦とした。戦後オランダ臨時軍事法廷でBC戦犯として裁かれ、軍人・業者らに有罪が宣告されている。
当時スマランには既に慰安所があったが性病の蔓延から新たな慰安所の設置が計画された。
慰安所設置を要請された幹部候補生隊長は、慰安所には自由意思の者だけ雇うようにという軍司令部の指示を無視した。
担当将校・警察・業者は、ハルマヘラ抑留所、アンバラワ抑留所、ゲダンガン抑留所から18才から28才の合計36人のオランダ人女性を強制的に集め、スマランの4つの慰安所(将校倶楽部、スマラン倶楽部、日の丸倶楽部、青雲荘)に連行した。1944年3月1日から営業を始め、女性達は毎日強姦された。
給料は払われず、暴行され、その上、性病を移された者、妊娠した者がいる。しかし自分の娘を連れ去られたオランダ人リーダーの訴えにより、陸軍省から捕虜調査に来た小田島董大佐の勧告により軍司令部は、1944年4月末に4箇所の慰安所を閉鎖した。
【しかし、日本軍は、当事者を軍法会議にかける事も処罰も行なわなかったし(広告「FACTS」の決定的な間違い)、首謀者である能崎清次少将はその後昇進し、敗戦直後には勲一等瑞宝章を受勲している。】
終戦後の1948年、バタビア臨時軍法会議でBC級戦犯として11人が有罪とされた。罪名は強制連行、強制売春(婦女子強制売淫)、強姦である。
有罪者は、軍人および慰安所を経営していた日本人業者等であり、責任者である岡田陸軍少佐には死刑が宣告された。
また、中心的役割をはたしたと目される大久保朝雄中佐は戦後、日本に帰っていたが裁判を逃れるため割腹自殺した。
(2)証拠となる裁判資料
証人尋問調書1:当時44才のアンバラワ抑留所代表者の証言
1946年6月24日ハーグにて
1944年2月26日、3人の日本人が抑留所に現れ、自分たちは憲兵隊の将校であると言いました。私は彼らから1枚の名簿を渡されました。そこにはアンバラワの郊外の事務所で仕事をすることになった11人の婦人と若い女性の名前がでており、半時間以内に出発の準備をせよというのでした。(略)これはできない相談だと私たちは答えました。(略)
集合した私たちの激しい抗議の中を若い女性達は数時間後には出発しました。ここで付言しておきたいのは、選び出された女性達は2人を例外として「世間づれした」水商売のタイプではなかったという事です。(慰安婦の強制連行の終了)
1944年4月末、日本軍の大佐(慰安所を閉鎖させた小田島董大佐)が副官を伴って抑留所に現れました。
私たちはすぐに若い女性についての要望を述べました。大佐はこの事情をまったく知らないことが明らかでした。彼は家族ができるだけ早く娘達のところにいけるようにすると、力を込めて約束しました。(略)
証人尋問調書2:当時25才の連行された女性の証言
1948年8月27日バタビアにて
・・
http://zeimusmaki.iza.ne.jp/blog/entry/231007/
2007年6月日本の右派国会議員らが掲載した広告「FACTS」でも触れられている。
この事件はオランダ軍により裁かれたため証拠資料があり、
【日本軍による従軍慰安婦強制連行の明確な証拠である。】
ではその内容はいかなものか?
この事件は吉見義明が早期にオランダ軍事法廷の裁判記録を発見し、その代表的な著書「従軍慰安婦」(岩波新書)でくわしく紹介している。
また最近雑誌「週刊金曜日」(2007年6月22日号)でもオランダ軍事法廷の裁判記録が紹介されており、英語版がここ(http://www.kinyobi.co.jp/MiscPages/comfort_women)で読める。ここでは、その概要を示し、証拠である裁判資料も少しを紹介しよう。
(1)事件の概要
1944年日本軍占領中のインドネシア、ジャワ島で日本軍若手将校により抑留所にいたオランダ人女性に対して行われた強制売春・強姦事件である。
南方軍管轄の第16軍幹部候補生隊がオランダ人女性36人をスマランにあった慰安所4カ所に強制連行し慰安婦とした。戦後オランダ臨時軍事法廷でBC戦犯として裁かれ、軍人・業者らに有罪が宣告されている。
当時スマランには既に慰安所があったが性病の蔓延から新たな慰安所の設置が計画された。
慰安所設置を要請された幹部候補生隊長は、慰安所には自由意思の者だけ雇うようにという軍司令部の指示を無視した。
担当将校・警察・業者は、ハルマヘラ抑留所、アンバラワ抑留所、ゲダンガン抑留所から18才から28才の合計36人のオランダ人女性を強制的に集め、スマランの4つの慰安所(将校倶楽部、スマラン倶楽部、日の丸倶楽部、青雲荘)に連行した。1944年3月1日から営業を始め、女性達は毎日強姦された。
給料は払われず、暴行され、その上、性病を移された者、妊娠した者がいる。しかし自分の娘を連れ去られたオランダ人リーダーの訴えにより、陸軍省から捕虜調査に来た小田島董大佐の勧告により軍司令部は、1944年4月末に4箇所の慰安所を閉鎖した。
【しかし、日本軍は、当事者を軍法会議にかける事も処罰も行なわなかったし(広告「FACTS」の決定的な間違い)、首謀者である能崎清次少将はその後昇進し、敗戦直後には勲一等瑞宝章を受勲している。】
終戦後の1948年、バタビア臨時軍法会議でBC級戦犯として11人が有罪とされた。罪名は強制連行、強制売春(婦女子強制売淫)、強姦である。
有罪者は、軍人および慰安所を経営していた日本人業者等であり、責任者である岡田陸軍少佐には死刑が宣告された。
また、中心的役割をはたしたと目される大久保朝雄中佐は戦後、日本に帰っていたが裁判を逃れるため割腹自殺した。
(2)証拠となる裁判資料
証人尋問調書1:当時44才のアンバラワ抑留所代表者の証言
1946年6月24日ハーグにて
1944年2月26日、3人の日本人が抑留所に現れ、自分たちは憲兵隊の将校であると言いました。私は彼らから1枚の名簿を渡されました。そこにはアンバラワの郊外の事務所で仕事をすることになった11人の婦人と若い女性の名前がでており、半時間以内に出発の準備をせよというのでした。(略)これはできない相談だと私たちは答えました。(略)
集合した私たちの激しい抗議の中を若い女性達は数時間後には出発しました。ここで付言しておきたいのは、選び出された女性達は2人を例外として「世間づれした」水商売のタイプではなかったという事です。(慰安婦の強制連行の終了)
1944年4月末、日本軍の大佐(慰安所を閉鎖させた小田島董大佐)が副官を伴って抑留所に現れました。
私たちはすぐに若い女性についての要望を述べました。大佐はこの事情をまったく知らないことが明らかでした。彼は家族ができるだけ早く娘達のところにいけるようにすると、力を込めて約束しました。(略)
証人尋問調書2:当時25才の連行された女性の証言
1948年8月27日バタビアにて
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http://zeimusmaki.iza.ne.jp/blog/entry/231007/