石垣島でも・・
投稿者: dorawasabi5001 投稿日時: 2012/02/25 01:21 投稿番号: [27265 / 29399]
★われらの「内」なる戦争犯罪(9)石垣島事件・久米島事件 2007/03/08
両事件の事実関係・補遺
慰安婦と慰安所
鹿山兵曹長が久米島の「山」の中に、若い女性を連れて転々としていたという証言がある。
ただし、その女性がどのような背景を持った人だったかは、詳らかではない。
神奈川県相模原市在住の久米島出身のある主婦の証言では、
鹿山兵曹長が連れていたのは、【当時16歳の娘】であったことだけが分かっている。
久米島の場合、慰安婦または慰安所のような施設は造られていなかったようで、鹿山兵曹長は隊長の特権を利して、こういう若い女性を愛人としていたのであろう。
しかし、彼、鹿山の性向から考えて離島や朝鮮人住民を蔑視していたと見られ、それと同じ意味で石垣島のケースが問題となる。
石垣島には慰安所跡と伝わる場所がある。
幹部はもとより一般下士官兵に至るまで、慰安婦を「ピー」と蔑称したという。
八重山諸島以外でも、南方の基地、たとえばトッラク島春島の慰安所も、「ピー屋」と呼ばれていた。
石垣島の慰安所は、米軍の上陸が予想されるようになると、急遽、バンナ山の警備隊本部近くに設置されたが、38震洋特別攻撃隊隊長旅井理喜男氏の手記によれば、この慰安所は司令、副長など幹部が街で囲っていた女性が主であったと記している。(*1)
(*1)補注=旅井理喜男氏は予備学生出身の士官。手記は「愛媛の文化」第30号所収。
こうした慰安婦中には、朝鮮出身の女性がいたことが旅井の手記にも記されている。ただし慰安婦としては、どういう経緯で石垣島など八重山群島の島々に連れてこられたかは不詳である。
八重山群島には、NHKの朝ドラで有名になった小浜島がある。ここにも慰安所が設置されていたという。
旅井の記録では、彼が震洋特別攻撃隊長としてこの島に駐留していた昭和20年(1945)2〜3月時点では、ナークレーやニシンダ集落に慰安所はなかったというが、後に引野部隊が引き継いでから慰安所が設置され、朝鮮女性や沖縄女性が慰安婦としてここにいたと記録されている。
【石垣島では、慰安場付近で海軍の将兵に出遭った野戦病院の看護婦(当時の呼称による)が、彼らに「お前は朝鮮ピーか」と言い寄られたともあり、かなりの数の朝鮮出身慰安婦が存在したことが覗われる。】
ただ、わたしが長崎原爆被爆復元地図の仕事中に入手した日本政府が作成した図表では、国はもとより朝鮮や台湾から白昼堂々と連行された記録が残されていた。
【連行者は日本警察官であった。入手した資料中では、男性が圧倒的に多かったが、中には女性らしい名前も残されていて、彼女らが日本に連行された後にどのような仕事に就いていたかは不詳であった。】(*2)
(*2)補注=上に挙げた表については内容の裏取りができなかったが、いわゆる「政治団体」が即座に反応してきたことから、日本政府としては公式には触れることができず、それで「情報をリーク」したものと思われた。一種の政治的・物理的恫喝であろう。この記事の文脈では、同じような事情があったかと思われる。
***
マラリア猖獗の地への住民避難
石垣島を含む八重山群島での戦闘では、日本軍の戦死者は陸海軍合わせて670名、ただ1945年12月に建立された「大東亜戦争陸海軍戦没者合葬碑」の銘文では、667名となっているという。(*1)
(*1)補注=南山舎刊 大田静男著『八重山の戦争』p.32
***
この内、戦没者の大半がマラリアによる戦病者であった。これには民間人のマラリヤ罹病による死亡者が積算されていない。あくまで軍人だけの数である。民間人死没者の統計は、当時の行政の力では、正確な数を把握するに至らなかったという。しかし、避難地に指定された山間の地は、ハマダラカが多数生息していた。日本軍にキニーネなどの薬剤を領布してくれるよう頼んだが、拒否されたという証言が残っている。
・・このことが後々、われわれ日本人の性向を「戦後体制」として再編してゆく格好な理由となった。平和国家、民主主義国家、自由主義国家の理念とは、こうした犠牲を放置したまま構築されたのである。(つづく)
(田口汎)
http://www.janjan.jp/area/0703/0703071239/1.php
両事件の事実関係・補遺
慰安婦と慰安所
鹿山兵曹長が久米島の「山」の中に、若い女性を連れて転々としていたという証言がある。
ただし、その女性がどのような背景を持った人だったかは、詳らかではない。
神奈川県相模原市在住の久米島出身のある主婦の証言では、
鹿山兵曹長が連れていたのは、【当時16歳の娘】であったことだけが分かっている。
久米島の場合、慰安婦または慰安所のような施設は造られていなかったようで、鹿山兵曹長は隊長の特権を利して、こういう若い女性を愛人としていたのであろう。
しかし、彼、鹿山の性向から考えて離島や朝鮮人住民を蔑視していたと見られ、それと同じ意味で石垣島のケースが問題となる。
石垣島には慰安所跡と伝わる場所がある。
幹部はもとより一般下士官兵に至るまで、慰安婦を「ピー」と蔑称したという。
八重山諸島以外でも、南方の基地、たとえばトッラク島春島の慰安所も、「ピー屋」と呼ばれていた。
石垣島の慰安所は、米軍の上陸が予想されるようになると、急遽、バンナ山の警備隊本部近くに設置されたが、38震洋特別攻撃隊隊長旅井理喜男氏の手記によれば、この慰安所は司令、副長など幹部が街で囲っていた女性が主であったと記している。(*1)
(*1)補注=旅井理喜男氏は予備学生出身の士官。手記は「愛媛の文化」第30号所収。
こうした慰安婦中には、朝鮮出身の女性がいたことが旅井の手記にも記されている。ただし慰安婦としては、どういう経緯で石垣島など八重山群島の島々に連れてこられたかは不詳である。
八重山群島には、NHKの朝ドラで有名になった小浜島がある。ここにも慰安所が設置されていたという。
旅井の記録では、彼が震洋特別攻撃隊長としてこの島に駐留していた昭和20年(1945)2〜3月時点では、ナークレーやニシンダ集落に慰安所はなかったというが、後に引野部隊が引き継いでから慰安所が設置され、朝鮮女性や沖縄女性が慰安婦としてここにいたと記録されている。
【石垣島では、慰安場付近で海軍の将兵に出遭った野戦病院の看護婦(当時の呼称による)が、彼らに「お前は朝鮮ピーか」と言い寄られたともあり、かなりの数の朝鮮出身慰安婦が存在したことが覗われる。】
ただ、わたしが長崎原爆被爆復元地図の仕事中に入手した日本政府が作成した図表では、国はもとより朝鮮や台湾から白昼堂々と連行された記録が残されていた。
【連行者は日本警察官であった。入手した資料中では、男性が圧倒的に多かったが、中には女性らしい名前も残されていて、彼女らが日本に連行された後にどのような仕事に就いていたかは不詳であった。】(*2)
(*2)補注=上に挙げた表については内容の裏取りができなかったが、いわゆる「政治団体」が即座に反応してきたことから、日本政府としては公式には触れることができず、それで「情報をリーク」したものと思われた。一種の政治的・物理的恫喝であろう。この記事の文脈では、同じような事情があったかと思われる。
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マラリア猖獗の地への住民避難
石垣島を含む八重山群島での戦闘では、日本軍の戦死者は陸海軍合わせて670名、ただ1945年12月に建立された「大東亜戦争陸海軍戦没者合葬碑」の銘文では、667名となっているという。(*1)
(*1)補注=南山舎刊 大田静男著『八重山の戦争』p.32
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この内、戦没者の大半がマラリアによる戦病者であった。これには民間人のマラリヤ罹病による死亡者が積算されていない。あくまで軍人だけの数である。民間人死没者の統計は、当時の行政の力では、正確な数を把握するに至らなかったという。しかし、避難地に指定された山間の地は、ハマダラカが多数生息していた。日本軍にキニーネなどの薬剤を領布してくれるよう頼んだが、拒否されたという証言が残っている。
・・このことが後々、われわれ日本人の性向を「戦後体制」として再編してゆく格好な理由となった。平和国家、民主主義国家、自由主義国家の理念とは、こうした犠牲を放置したまま構築されたのである。(つづく)
(田口汎)
http://www.janjan.jp/area/0703/0703071239/1.php