続き
投稿者: dorawasabi5001 投稿日時: 2003/07/30 23:18 投稿番号: [2709 / 29399]
この「証言」集からは、「606号」と言う注射が、性病治療に使われたと言う証言が多いです。
『証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』より
*李 玉粉さん
「・・・・女一人が、一日に日本の軍人を20人から30人相手しなければなりませんでした。もともと食べるものがまったくなくて、体が弱りきってる女たちが、こんなたくさんの相手をすると、死んだも同然でした。
すると、中居たちが入ってきて、その女を引きずりだして納戸に入れました。納戸に入れられると、食事を与えられませんでした。注射を打っても効き目がないとみると、軍人達がトラックに乗せて、山に連れていきました。
死んだ人は山に運んでいって捨てられました。草の葉で覆うだけが、せいぜいでした。
生き延びようと思ったら、機転を利かせてうまくやらねばなりませんでした。
兵士達に帰ってしまわれると、仲居に納戸に入れられるので、笑いたくなくても笑わなくてはならず、規定の時間である30分を少しでも越えるよう骨を折りました。
そうすれば、一人でも相手を減らす事ができるからです。
・・・・他の人がみんな寝ている明け方3時にそっと出て行き、自殺しようと海に出かけてみたものの、自殺する決心がつかず、引き返した事もありました。
・・長い間、台湾の事は、思い出すまいとして生きてきた私が証言をする決心をしたのは、昨年(1991年)日本政府が「慰安婦は民間業者たちがした事で、政府や軍は関与していない」と新聞で読んだからです。
「こいつら、このオクプンが、この黒い目を開けて生きている」と言って、歴史の証人になりたかったのです。
・・・それで、1991年7月に釜山日報に連絡して証言しました。
*李 順玉さん
・・・
この藤原に頼んで、死んでもいいから朝鮮に帰りたいと頼むと手伝ってくれました。
慰安婦の中にはすでに朝鮮に行くために慰安所を出た人もいましたが、
国に向かう船が爆撃を受け沈没して死ぬ事が多いということでした。
それでも故郷に帰りたい気持ちが強く藤原に話をしたのです。
・・・
それから半月後に日本に行く赤十字船に乗るよう言われました。・・・
ヨシコとミドリ、エイコは私より先に出たのですが船が爆撃にあって死んだそうです。
*李 相玉さん
一緒にいた女達6人と話し合った結果、此れでも食べないと死んでしまうと言う事で眼をつぶって飲み込みました。
こんな風にして、行動をともにした6人はドコカで死んでしまったのか、私一人だけが生き残りました。
*李 用女さん
慰安所の中で、3,4人は自殺しました。
将校たちが連れ出して、所帯を持つ場合もあり、病気で死んだ女もいたし、逃亡した女もいて、しまいには20人くらいになりました。(最初は50余人)
・・・
*金 台善さん
(敗走中)船が転覆して・・・
キミコは力尽きてその縄を放してしまい、水におぼれて死んでしまいました。
ハルコはコレラにかかって死んでしまいました。
(4人中2人死亡)
*朴 順愛さん
ラバウルに着いたときと同様、そこを出るときの船もとても大きな船でした。
・・・
突然水がこぼれました。
船が魚雷に触れたようです。
・・
身重だった光州の女性一人が海に落ちました。
アキコも落ちました。
・・
8〜9時間海の中で苦しみ、手足はかちかちで震えましたが、どうにか綱につかまり、・・・
船は再び、ラバウルに戻りました。
15人が生き残っていました。(慰安婦50人中生存者15人)
*李 英淑さん
そこでの生活は死んだも同然でした。
もし、死んでも誰にも気づかれない所です。
一緒に来た勿禁面の友達も、一年後病気にかかって死にました。
・・
爆弾が落ちた場所に行ってみると、ご飯を食べていて死んだ人や、眠っている時に死んだ人の死体が、ごろごろ並んでいました。
・・・・
釜山を出発した時は6人でしたが、戻ってきた人は3人だけでした。
*李 容洙さん
その爆撃で、経営者のお妾さんと、背の高い面長の朴という慰安婦が死にました。
『証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』より
*李 玉粉さん
「・・・・女一人が、一日に日本の軍人を20人から30人相手しなければなりませんでした。もともと食べるものがまったくなくて、体が弱りきってる女たちが、こんなたくさんの相手をすると、死んだも同然でした。
すると、中居たちが入ってきて、その女を引きずりだして納戸に入れました。納戸に入れられると、食事を与えられませんでした。注射を打っても効き目がないとみると、軍人達がトラックに乗せて、山に連れていきました。
死んだ人は山に運んでいって捨てられました。草の葉で覆うだけが、せいぜいでした。
生き延びようと思ったら、機転を利かせてうまくやらねばなりませんでした。
兵士達に帰ってしまわれると、仲居に納戸に入れられるので、笑いたくなくても笑わなくてはならず、規定の時間である30分を少しでも越えるよう骨を折りました。
そうすれば、一人でも相手を減らす事ができるからです。
・・・・他の人がみんな寝ている明け方3時にそっと出て行き、自殺しようと海に出かけてみたものの、自殺する決心がつかず、引き返した事もありました。
・・長い間、台湾の事は、思い出すまいとして生きてきた私が証言をする決心をしたのは、昨年(1991年)日本政府が「慰安婦は民間業者たちがした事で、政府や軍は関与していない」と新聞で読んだからです。
「こいつら、このオクプンが、この黒い目を開けて生きている」と言って、歴史の証人になりたかったのです。
・・・それで、1991年7月に釜山日報に連絡して証言しました。
*李 順玉さん
・・・
この藤原に頼んで、死んでもいいから朝鮮に帰りたいと頼むと手伝ってくれました。
慰安婦の中にはすでに朝鮮に行くために慰安所を出た人もいましたが、
国に向かう船が爆撃を受け沈没して死ぬ事が多いということでした。
それでも故郷に帰りたい気持ちが強く藤原に話をしたのです。
・・・
それから半月後に日本に行く赤十字船に乗るよう言われました。・・・
ヨシコとミドリ、エイコは私より先に出たのですが船が爆撃にあって死んだそうです。
*李 相玉さん
一緒にいた女達6人と話し合った結果、此れでも食べないと死んでしまうと言う事で眼をつぶって飲み込みました。
こんな風にして、行動をともにした6人はドコカで死んでしまったのか、私一人だけが生き残りました。
*李 用女さん
慰安所の中で、3,4人は自殺しました。
将校たちが連れ出して、所帯を持つ場合もあり、病気で死んだ女もいたし、逃亡した女もいて、しまいには20人くらいになりました。(最初は50余人)
・・・
*金 台善さん
(敗走中)船が転覆して・・・
キミコは力尽きてその縄を放してしまい、水におぼれて死んでしまいました。
ハルコはコレラにかかって死んでしまいました。
(4人中2人死亡)
*朴 順愛さん
ラバウルに着いたときと同様、そこを出るときの船もとても大きな船でした。
・・・
突然水がこぼれました。
船が魚雷に触れたようです。
・・
身重だった光州の女性一人が海に落ちました。
アキコも落ちました。
・・
8〜9時間海の中で苦しみ、手足はかちかちで震えましたが、どうにか綱につかまり、・・・
船は再び、ラバウルに戻りました。
15人が生き残っていました。(慰安婦50人中生存者15人)
*李 英淑さん
そこでの生活は死んだも同然でした。
もし、死んでも誰にも気づかれない所です。
一緒に来た勿禁面の友達も、一年後病気にかかって死にました。
・・
爆弾が落ちた場所に行ってみると、ご飯を食べていて死んだ人や、眠っている時に死んだ人の死体が、ごろごろ並んでいました。
・・・・
釜山を出発した時は6人でしたが、戻ってきた人は3人だけでした。
*李 容洙さん
その爆撃で、経営者のお妾さんと、背の高い面長の朴という慰安婦が死にました。
これは メッセージ 1 (yuukouheiwa さん)への返信です.