横浜事件
投稿者: shoujouji 投稿日時: 2012/01/06 10:09 投稿番号: [26711 / 29399]
1942年、総合雑誌『改造』(8-9月号)に掲載された細川嘉六の論文「世界史の動向と日本」が
共産主義的でソ連を賛美し「政府のアジア政策を批判するもの」などとして問題となり、『改造』
は発売頒布禁止処分にされた。そして9月14日に細川が新聞紙法違反の容疑で逮捕された。
捜査中に、同著者と『改造』や『中央公論』の編集者などが同席した集合写真が同著者の郷里・
富山県泊町(現・下新川郡朝日町沼保)の料亭旅館「紋左」(もんざ)で見つかり、日本共産党
再結成の謀議をおこなっていたとされた(「泊事件」)。実際は細川が1942年7月5日、出版記念
で宴会を催した際の写真であったとされている[1]。1943年に改造社と中央公論社をはじめ、
朝日新聞社、岩波書店、満鉄調査部などに所属する関係者約60人が次々に治安維持法違反容疑で
検挙され、神奈川県警特別高等警察(特高)は被疑者を革や竹刀で殴打して失神すると気付けに
バケツの水をかけるなど激しい拷問をおこない、4人が獄死(神奈川県警察の管轄事件であった
ために横浜事件と呼ばれるようになった)。『改造』『中央公論』も廃刊となった。
判決が下ったのは終戦直後、即ち治安維持法が廃止される1ヶ月前の1945年8月下旬から9月に
かけてで、約30人が執行猶予付きの有罪とされた。GHQによる戦争犯罪訴追を恐れた政府関係
者によって当時の公判記録は全て焼却され、残っていない(遺族が再審請求に提出した証拠の
「確定判決書」はアメリカ国立公文書記録管理局(NARA)に保存されていた物の謄本(全文
写し)である)。当時手を下した元特高警察官30人が告訴され、うち3人が有罪となったが、
彼らはサンフランシスコ平和条約発効時の大赦により、1日も服役することなく釈放された。
また判検事に対しては何らの処分もされていない。
真相については現在でも不明な部分が多く、言論弾圧的な側面だけではなく反東條英機の
有力な重臣であった近衛文麿の失脚を期したものではないかと推測される場合もある。と
いうのは、細川嘉六が近衛文麿の側近・後藤隆之助の主宰した昭和塾で講師をしていた
関係で、塾からも検挙者がでているからである。
これは メッセージ 26710 (shoujouji さん)への返信です.
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