何故トンスラーは土人なのか?
投稿者: pokosi2000 投稿日時: 2011/10/13 21:00 投稿番号: [26185 / 29399]
以前俺はトンスル半島の歴史は、国史の編纂で500年、退嬰下した李氏朝鮮の統治で計1000年の遅れと思っていた。
しかし、俺の認識は間違っていた。
魏志の記述
其俗少綱紀、國邑雖有主帥、邑落雜居、不能善相制御。無跪拜之禮。居處作草屋土室、形如冢。其戸在上舉家共在中、無長幼男女之別。
当時のシナ人から見ても家の如きものに住む土人の生活がそこにあった。
これより1500年たって日本人は全く同じ土人を見る事になる。
ちなみに同じ書の日本の記録。
有屋室、父母兄弟臥息異處。
家の如きものと室で大きな違いがある、即ち当時からトンスル半島に住んでいたのは土人。
宮本小一外務大丞、朝鮮国京城に行く
一般民家
その家屋は石と泥をもって築立し、稲藁を葺いて屋根としている。茅は焚き火の用に使うという。窓が小さく、大人が家に入って立つことが出来ないようだ。たいていの家に「床」というものが無く、土の上に藁むしろを敷いて座す。その狭さ不潔さといい殆ど穴居の類である。
そういう家が表裏の別なく密集し、路地には乱石が磊落して、ほとんど足をいれることが出来ない。村の中央の家に行こうとするには、どの路地をどう曲がっていけばよいのか分からないぐらいである。
寝起きするのも容易でないような家の中にはわずかに1、2の炊具を見る。
ただ、日本人の眼に入るのは、貧家に不釣合いなほど大きな黒色の磁器甕がどこの家にもあるということである。これは木の樽が無いゆえの水を溜める甕であろう。質は頗る堅牢である。
http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/siryou/index.htm
日本による併合前のトンスル半島にはトンスル土人の生活があった。
現在のトンスラーも基本的には同じトンスル土人である。
法治それなに?おいしいの?の世界である。
なにが日本に文化を伝えただ、トンスル半島には文化は存在しない。
百済からの仏教伝来に関しても面白い資料がある。
『梁書』百済伝
中大通六年、大同七年、累遣使獻方物;并請涅盤等經義、毛詩博士、并工匠、畫師等、敕並給之。
中大通六年とは534年だ百済が日本に仏教を伝えたとされる538年とたいしたタイムラグはない。
即ち百済はシナからやっとのことで貰った仏教文化を横流ししただけ。
百済の仏教建築は現物が残っていないので定かではない、恐らくシナの影響を受けた軸組構造をとっていたと思われる。
しかし法隆寺は軸組構造をとっていない。いわば校倉作りの不思議な構造。
http://www.kjclub.com/jp/exchange/theme/read.php?uid=9314&fid=9314&thread=1000000&idx=1&page=2&tname=exc_board_11&number=6329
日本に軸組構造の寺院が現れるの710年の薬師寺から百済が滅びてから50年もたってる。
しかし、俺の認識は間違っていた。
魏志の記述
其俗少綱紀、國邑雖有主帥、邑落雜居、不能善相制御。無跪拜之禮。居處作草屋土室、形如冢。其戸在上舉家共在中、無長幼男女之別。
当時のシナ人から見ても家の如きものに住む土人の生活がそこにあった。
これより1500年たって日本人は全く同じ土人を見る事になる。
ちなみに同じ書の日本の記録。
有屋室、父母兄弟臥息異處。
家の如きものと室で大きな違いがある、即ち当時からトンスル半島に住んでいたのは土人。
宮本小一外務大丞、朝鮮国京城に行く
一般民家
その家屋は石と泥をもって築立し、稲藁を葺いて屋根としている。茅は焚き火の用に使うという。窓が小さく、大人が家に入って立つことが出来ないようだ。たいていの家に「床」というものが無く、土の上に藁むしろを敷いて座す。その狭さ不潔さといい殆ど穴居の類である。
そういう家が表裏の別なく密集し、路地には乱石が磊落して、ほとんど足をいれることが出来ない。村の中央の家に行こうとするには、どの路地をどう曲がっていけばよいのか分からないぐらいである。
寝起きするのも容易でないような家の中にはわずかに1、2の炊具を見る。
ただ、日本人の眼に入るのは、貧家に不釣合いなほど大きな黒色の磁器甕がどこの家にもあるということである。これは木の樽が無いゆえの水を溜める甕であろう。質は頗る堅牢である。
http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/siryou/index.htm
日本による併合前のトンスル半島にはトンスル土人の生活があった。
現在のトンスラーも基本的には同じトンスル土人である。
法治それなに?おいしいの?の世界である。
なにが日本に文化を伝えただ、トンスル半島には文化は存在しない。
百済からの仏教伝来に関しても面白い資料がある。
『梁書』百済伝
中大通六年、大同七年、累遣使獻方物;并請涅盤等經義、毛詩博士、并工匠、畫師等、敕並給之。
中大通六年とは534年だ百済が日本に仏教を伝えたとされる538年とたいしたタイムラグはない。
即ち百済はシナからやっとのことで貰った仏教文化を横流ししただけ。
百済の仏教建築は現物が残っていないので定かではない、恐らくシナの影響を受けた軸組構造をとっていたと思われる。
しかし法隆寺は軸組構造をとっていない。いわば校倉作りの不思議な構造。
http://www.kjclub.com/jp/exchange/theme/read.php?uid=9314&fid=9314&thread=1000000&idx=1&page=2&tname=exc_board_11&number=6329
日本に軸組構造の寺院が現れるの710年の薬師寺から百済が滅びてから50年もたってる。