日本軍に対する抵抗運動
投稿者: fukagawatohei 投稿日時: 2011/01/24 09:39 投稿番号: [24369 / 29399]
>日本が行ったのはアジア解放、現実となった
ご立派なご意見ですね。
ほんじゃ〜、どうしてフィリッピンじゃ〜、日本軍に対する
抵抗運動があったの?
wiki等参照:
- QUOTE -
ほとんどのフィリピン人は日本軍との対比からアメリカに対する忠誠心を持ち続けており、地下のラジオや新聞からのニュースを得るためだけにすら、あらゆる危険を冒した。
多くのフィリピン人が山中における日本への抵抗運動に参加し、日本軍と直接戦った。そうした運動に加わる事のない者も、日本人の命令に従わないように抵抗したり、日本人をからかったりするなどのレジスタンスを示すようになった。
抵抗運動は日本軍にとって徐々に脅威となりつつあり、それが大衆的な支援を受けていたので、ついには日本軍将校にフィリピン人への思い切った対策を採らせることになった。
ゲリラ活動が広まるにつれ、「村の焼き討ち」「ゲリラ容疑者への拷問」「集団虐殺」と日本軍のフィリピン人レジスタンスへの対策は熾烈を極めて行った。
このことが、さらにフィリピン人を日本軍から遠ざける要因となった。
1944〜45年にアメリカ軍が再上陸する頃には、フィリピン経済は疲弊していた。
フィリピン人はかつての宗主国アメリカ軍を諸手を挙げて歓迎したが、このとき日本軍の報復行為は頂点に達していた。
日本軍によるもっとも過酷な残虐行為・・・大量虐殺・婦女暴行・破壊行為が起きたのは戦争末期のことだった。
- UNQUOTE -
日本軍を手本にしたミャンマー軍事独裁政権:
- QUOTE -
軍事政権つづけるビルマ国軍は日本軍が養成した。
ミャンマー(ビルマ)が今の国のかたちで独立したのは第2時世界大戦終戦後まもない1948年のこと。
インドやパキスタン、スリランカ(当時の国名はセイロン)などといっしょに「イギリス領インド」に組み入れられていたイギリスの支配体系からの独立だった。
このミャンマー(ビルマ)建国の背景に、日本の存在があったこと、意外と知られていない。
1941年、太平洋戦争開戦と同時に日本はシンガポール、インドネシアなど東南アジアを侵攻(フランス領インドシナは開戦前に侵攻)。
ミャンマー(ビルマ)にも侵攻の手はのび、1942年には首都ラングーン(現在の名称はヤンゴン)も制圧、ほぼ全土を占領下においた。
ミャンマー(ビルマ)侵攻が比較的たやすく成功したのは、日本軍の侵攻部隊がミャンマー(ビルマ)人の民族主義者と手を組み、軍事的支援を行って独立運動を支援したという背景があった。
かれら民族主義者のリーダーこそが、ミャンマー(ビルマ)建国の父と慕われるアウンサンだった。
しかし日本軍はミャンマー(ビルマ)を占領すると、ミャンマー(ビルマ)の独立はまったく認めず、もっぱら日本軍の重要拠点として支配し続けようとした(のちに独立は認めたが、形だけのものだった)。
これに反発したアウンサンらは、いっぽうで日本の敗色が濃くなっていったこともあって、日本から離れ、日本支配に対する抵抗運動をはじめた。
こうして、日本が敗戦しミャンマー(ビルマ)がイギリスの支配に戻ったときには、アウンサンらの抵抗部隊(ビルマ国民軍)の存在はもはや無視できない大きさになった。
彼らは抵抗運動でつちかった力を背景にイギリスと交渉を重ね、ほかのイギリス領インド諸国があいついで独立していくという流れも味方につけた。
しかし、アウンサンは独立を目前に控えて暗殺される。
このことが、このあとのミャンマー(ビルマ)の混迷の原因の1つである。
アウンサンらが築いたビルマ国民軍は、独立後現在ミャンマー(ビルマ)国軍としてその力を継承。1960年代以降は直接政治に関与し軍事政権を維持し続けている。
そんなミャンマー(ビルマ)国軍の組織は、最初彼らに支援を与え軍事訓練を施した日本軍に近いといわれている。
ミャンマー(ビルマ)国軍の軍事政権も、日本戦中の軍人首相による政権をほうふつとさせる。
- UNQUOTE -
マレーシア人の抵抗運動:
- QUOTE -
トゥン・ムハンマド・ガザリ・シャフィ(マレー語: Muhammad Ghazali Shafie、1922年3月22日 - 2010年1月24日)は、マレーシアの政治家。外務大臣や自治大臣を務めた。
パハン州クアラ・リピスに生まれた。第二次世界大戦の日本軍によるマレーシア占領時はウェールズ大学やロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで学び[2]、日本軍に対する秘密抵抗運動に加わった。その後、公務員勤めから政治家に転身。1973年から81年まで住宅・情報大臣を、84年まで外務大臣を務めた。
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ご立派なご意見ですね。
ほんじゃ〜、どうしてフィリッピンじゃ〜、日本軍に対する
抵抗運動があったの?
wiki等参照:
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ほとんどのフィリピン人は日本軍との対比からアメリカに対する忠誠心を持ち続けており、地下のラジオや新聞からのニュースを得るためだけにすら、あらゆる危険を冒した。
多くのフィリピン人が山中における日本への抵抗運動に参加し、日本軍と直接戦った。そうした運動に加わる事のない者も、日本人の命令に従わないように抵抗したり、日本人をからかったりするなどのレジスタンスを示すようになった。
抵抗運動は日本軍にとって徐々に脅威となりつつあり、それが大衆的な支援を受けていたので、ついには日本軍将校にフィリピン人への思い切った対策を採らせることになった。
ゲリラ活動が広まるにつれ、「村の焼き討ち」「ゲリラ容疑者への拷問」「集団虐殺」と日本軍のフィリピン人レジスタンスへの対策は熾烈を極めて行った。
このことが、さらにフィリピン人を日本軍から遠ざける要因となった。
1944〜45年にアメリカ軍が再上陸する頃には、フィリピン経済は疲弊していた。
フィリピン人はかつての宗主国アメリカ軍を諸手を挙げて歓迎したが、このとき日本軍の報復行為は頂点に達していた。
日本軍によるもっとも過酷な残虐行為・・・大量虐殺・婦女暴行・破壊行為が起きたのは戦争末期のことだった。
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日本軍を手本にしたミャンマー軍事独裁政権:
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軍事政権つづけるビルマ国軍は日本軍が養成した。
ミャンマー(ビルマ)が今の国のかたちで独立したのは第2時世界大戦終戦後まもない1948年のこと。
インドやパキスタン、スリランカ(当時の国名はセイロン)などといっしょに「イギリス領インド」に組み入れられていたイギリスの支配体系からの独立だった。
このミャンマー(ビルマ)建国の背景に、日本の存在があったこと、意外と知られていない。
1941年、太平洋戦争開戦と同時に日本はシンガポール、インドネシアなど東南アジアを侵攻(フランス領インドシナは開戦前に侵攻)。
ミャンマー(ビルマ)にも侵攻の手はのび、1942年には首都ラングーン(現在の名称はヤンゴン)も制圧、ほぼ全土を占領下においた。
ミャンマー(ビルマ)侵攻が比較的たやすく成功したのは、日本軍の侵攻部隊がミャンマー(ビルマ)人の民族主義者と手を組み、軍事的支援を行って独立運動を支援したという背景があった。
かれら民族主義者のリーダーこそが、ミャンマー(ビルマ)建国の父と慕われるアウンサンだった。
しかし日本軍はミャンマー(ビルマ)を占領すると、ミャンマー(ビルマ)の独立はまったく認めず、もっぱら日本軍の重要拠点として支配し続けようとした(のちに独立は認めたが、形だけのものだった)。
これに反発したアウンサンらは、いっぽうで日本の敗色が濃くなっていったこともあって、日本から離れ、日本支配に対する抵抗運動をはじめた。
こうして、日本が敗戦しミャンマー(ビルマ)がイギリスの支配に戻ったときには、アウンサンらの抵抗部隊(ビルマ国民軍)の存在はもはや無視できない大きさになった。
彼らは抵抗運動でつちかった力を背景にイギリスと交渉を重ね、ほかのイギリス領インド諸国があいついで独立していくという流れも味方につけた。
しかし、アウンサンは独立を目前に控えて暗殺される。
このことが、このあとのミャンマー(ビルマ)の混迷の原因の1つである。
アウンサンらが築いたビルマ国民軍は、独立後現在ミャンマー(ビルマ)国軍としてその力を継承。1960年代以降は直接政治に関与し軍事政権を維持し続けている。
そんなミャンマー(ビルマ)国軍の組織は、最初彼らに支援を与え軍事訓練を施した日本軍に近いといわれている。
ミャンマー(ビルマ)国軍の軍事政権も、日本戦中の軍人首相による政権をほうふつとさせる。
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マレーシア人の抵抗運動:
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トゥン・ムハンマド・ガザリ・シャフィ(マレー語: Muhammad Ghazali Shafie、1922年3月22日 - 2010年1月24日)は、マレーシアの政治家。外務大臣や自治大臣を務めた。
パハン州クアラ・リピスに生まれた。第二次世界大戦の日本軍によるマレーシア占領時はウェールズ大学やロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで学び[2]、日本軍に対する秘密抵抗運動に加わった。その後、公務員勤めから政治家に転身。1973年から81年まで住宅・情報大臣を、84年まで外務大臣を務めた。
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これは メッセージ 24367 (nyankotyanndamon さん)への返信です.