Re: 日本はその内乱を何とか治めて?
投稿者: maximirion 投稿日時: 2010/09/27 21:52 投稿番号: [23011 / 29399]
<maximirion>
先の戦争で唯一の勝者が支那の二つの政府であり、他は戦争突入時の思惑を達成できなかったばかりか、戦争以前の権益維持すら適わなかったという事実を見落とすし、多くの被植民地国が漁夫の利として欧米の植民地支配から脱却する道を得たという事実を認識できないのだよ。
その際に、日本が侵攻してインフラ整備と教育を施した地域では、日本の意図せぬ置き土産がその一助になったりもしたのさ。
<t_ohtaguro_2>
1873/04/30
日清修好条規
1874/
台湾派兵
日本は、日清修好条規を締結した翌年に、台湾に派兵していますな♪ww
一体どういう脈絡で、こういうレスを返しているのか不明だが。
基本的に、簡単な事件の経緯は以下の通りだ。
【日清修好条規と台湾派兵】
1871年11月に、台湾に漂着した宮古八重山の漁民69 名のうち、54 名が殺されるという事件が起こっていた(3 名は事故死)。
1872年6月、12 人の帰還によってこの事件を知った鹿児島県では、問罪出兵を建議した。
しかし、日本政府は慎重に対応を検討し、琉球の日本帰属を確実にする事実を積み重ねていった。
同年10月、琉球国王尚泰は琉球藩王に任ぜられ、華族に列せられた。
同月、琉球から外交権を接収し、これまで琉球が外国と締結した条約(たとえば1854 年琉米修好条約)と交際事務を外務省の管轄とすることとし、外務省出張所を那覇に置いた。
他方で、清国に対する隔年朝貢は実施されており、清国から異議はなかった。
73年3月にも、備中小田県(現在の岡山県)の4 名が漂着し、略奪されるという事件が起こった。
そこで政府は、副島種臣外務卿を特命全権大使として清国に派遣し、交渉させた。
清国は、殺人者は「生蛮」に属し、「化外」の地にあって、清国政教の及ばぬところであるとして、責任を認めなかった。
74年2月6日、日本政府は台湾出兵を決定し、西郷従道中将を事実上のリーダー(台湾事務都督)に任じた。
しかし欧米列強が批判的な態度をとると、いったん出兵は中止とされた。
ところが西郷は、政府の許可がなくても出兵するという決意を明らかにしたため、政府は再度出兵に決した。
西郷の軍は5 月長崎を発し原住民を平定した。
これは メッセージ 22966 (t_ohtaguro_2 さん)への返信です.
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