東ティモール・・・現地人を脅し使って
投稿者: dorawasabi5001 投稿日時: 2010/02/18 00:40 投稿番号: [21488 / 29399]
女たちを集めさせる。
戦後、加害者と被害者が混在しながら生き続けなければならない
苦しい状況を残した。
これは他の地域でも同様。
◇エルメネジルド・ベロさんの話
日本軍がバウカウに来た時、ほとんどの者が山へ逃げた。オーストラリアに避難した者もいる。私の親族にもオーストラリアに逃げた者がいる。しかし私と妻は東ティモールに残り、一旦山へ逃げた。町に戻ってくると自分の家は日本軍に奪われていた。
日本軍が駐留するようになると、彼らは「慰安婦」にする若い女性を求めた。
私も日本軍に差し出すための美しい若い女性を捜さなければならなかった。
命令に従わなければ殺すと脅された。若い女性を捜すだけでなく、私の家も明け渡せと命じられた。家は大きく慰安所にするのにうってつけだったからだ。家は改造され「ティリロロ慰安所」となった。
ティリロロの慰安所にいるほとんどの女性は17才から20才くらいだった。
全員がバウカウ出身というわけではなく、オッスなど他の場所から連れてこられた女性もいた。
また、インドネシアのジャワ島のような東ティモール以外から送られてきた女性もいた。
ティリロロの慰安所には中国(台湾?)出身の女性もいた。
ほとんどが独身の女性だったが、結婚しているのに無理やり夫から引き離された女性もた。ジャワや中国から来た女性たちはずっとその慰安所にいたわけではなく、2、3日あるいは2、3週間で別の場所に移された。
慰安所の女性たちは苦しんでいた。
昼間は農場で働かされ、日本兵のために洗濯をし、料理をつくり、夜は性的欲求を満たすことを要求された。
もし日本兵に対する性的奉仕を拒否すれば、彼女たちは拷問を受けたり、ひど暴力を受けるのが常だった。
あまりの野蛮さに耐えられず逃げ出した女性もいた。中にはうまく逃げおおせた女性もいた。
しかし、例えば、ススディオという女性が逃げた時の話だが、私は罰としてひどい目にあった。ススディオは17才くらいで、褐色の肌をしたとても美しい女性だった。
彼女はカイシドゥ・ポボサンというティリロロ村の出身で私が差出した女性だった。
日本軍は私がススディオを逃がしたと疑った。日本軍はススディオを見つけることができなかったので、逆上し、私を尋問し暴行を加えた。血だらけになった私は馬の背に括りつけられて家へ返された。
私のいとこのアナシタシアは慰安婦にされる前、カルロス・レモスという男性と暮らしていた。
彼女も日本軍の慰安婦にさせられた。自由の身になった後、二人は別れた。その後アナスタシアは今日まで結婚せずひとりで生きてきた。彼女が二度と結婚しなかったのはこの時経験した心の痛み故だ。
ブランカという女性はポルトガル人ピレス中尉の妾のひとりだった。ピレス中尉はかつてバウカウの警備隊長だった。
彼は日本軍侵攻時に一旦オーストラリアへ避難したが、その後東ティモールに潜入し、しかし結局日本軍に捕らえられてディリに護送された。ピレス中尉が逮捕されるとブランカは日本軍に連行され慰安婦にされた。
日本軍のある軍曹の「妻」にされたエルダ・サルダーニャは既に亡くなっているが、その軍曹との間に娘がいる。その軍曹の「妻」にされる前、彼女は結婚していた。彼女の夫は日本軍に殺害されていた。(2001年1月2日談)
【補足/エルメネジルドさんの記憶にある慰安所設置の責任者の名前及び階級は、捜索第48連隊所属のある将校の名前及び階級と一致した。さらにエルメネジルドさんは多数の将校写真の中からその人物を特定した。】
・・・
http://www.asahi-net.or.jp/~ak4a-mtn/news/quarterly/number3/sexslavery3.html
口を閉ざしたまま死んでしまった日本軍幹部たちが大部分だろう。
しかし被害者達にお詫びの気持ちがあるなら、
死ぬ前に証言するなり、書き記して残しておいて欲しいものだと思う。
少しでも謝罪の気持ちを表して欲しい。
戦後、加害者と被害者が混在しながら生き続けなければならない
苦しい状況を残した。
これは他の地域でも同様。
◇エルメネジルド・ベロさんの話
日本軍がバウカウに来た時、ほとんどの者が山へ逃げた。オーストラリアに避難した者もいる。私の親族にもオーストラリアに逃げた者がいる。しかし私と妻は東ティモールに残り、一旦山へ逃げた。町に戻ってくると自分の家は日本軍に奪われていた。
日本軍が駐留するようになると、彼らは「慰安婦」にする若い女性を求めた。
私も日本軍に差し出すための美しい若い女性を捜さなければならなかった。
命令に従わなければ殺すと脅された。若い女性を捜すだけでなく、私の家も明け渡せと命じられた。家は大きく慰安所にするのにうってつけだったからだ。家は改造され「ティリロロ慰安所」となった。
ティリロロの慰安所にいるほとんどの女性は17才から20才くらいだった。
全員がバウカウ出身というわけではなく、オッスなど他の場所から連れてこられた女性もいた。
また、インドネシアのジャワ島のような東ティモール以外から送られてきた女性もいた。
ティリロロの慰安所には中国(台湾?)出身の女性もいた。
ほとんどが独身の女性だったが、結婚しているのに無理やり夫から引き離された女性もた。ジャワや中国から来た女性たちはずっとその慰安所にいたわけではなく、2、3日あるいは2、3週間で別の場所に移された。
慰安所の女性たちは苦しんでいた。
昼間は農場で働かされ、日本兵のために洗濯をし、料理をつくり、夜は性的欲求を満たすことを要求された。
もし日本兵に対する性的奉仕を拒否すれば、彼女たちは拷問を受けたり、ひど暴力を受けるのが常だった。
あまりの野蛮さに耐えられず逃げ出した女性もいた。中にはうまく逃げおおせた女性もいた。
しかし、例えば、ススディオという女性が逃げた時の話だが、私は罰としてひどい目にあった。ススディオは17才くらいで、褐色の肌をしたとても美しい女性だった。
彼女はカイシドゥ・ポボサンというティリロロ村の出身で私が差出した女性だった。
日本軍は私がススディオを逃がしたと疑った。日本軍はススディオを見つけることができなかったので、逆上し、私を尋問し暴行を加えた。血だらけになった私は馬の背に括りつけられて家へ返された。
私のいとこのアナシタシアは慰安婦にされる前、カルロス・レモスという男性と暮らしていた。
彼女も日本軍の慰安婦にさせられた。自由の身になった後、二人は別れた。その後アナスタシアは今日まで結婚せずひとりで生きてきた。彼女が二度と結婚しなかったのはこの時経験した心の痛み故だ。
ブランカという女性はポルトガル人ピレス中尉の妾のひとりだった。ピレス中尉はかつてバウカウの警備隊長だった。
彼は日本軍侵攻時に一旦オーストラリアへ避難したが、その後東ティモールに潜入し、しかし結局日本軍に捕らえられてディリに護送された。ピレス中尉が逮捕されるとブランカは日本軍に連行され慰安婦にされた。
日本軍のある軍曹の「妻」にされたエルダ・サルダーニャは既に亡くなっているが、その軍曹との間に娘がいる。その軍曹の「妻」にされる前、彼女は結婚していた。彼女の夫は日本軍に殺害されていた。(2001年1月2日談)
【補足/エルメネジルドさんの記憶にある慰安所設置の責任者の名前及び階級は、捜索第48連隊所属のある将校の名前及び階級と一致した。さらにエルメネジルドさんは多数の将校写真の中からその人物を特定した。】
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http://www.asahi-net.or.jp/~ak4a-mtn/news/quarterly/number3/sexslavery3.html
口を閉ざしたまま死んでしまった日本軍幹部たちが大部分だろう。
しかし被害者達にお詫びの気持ちがあるなら、
死ぬ前に証言するなり、書き記して残しておいて欲しいものだと思う。
少しでも謝罪の気持ちを表して欲しい。