Re: 映画「ラストエンペラー」2
投稿者: mokneybrain123 投稿日時: 2010/01/07 23:13 投稿番号: [21456 / 29399]
>満州帝国の陰の権力者である甘粕正彦は満州映画協会会長であり、山口淑子の上司でもあったわけです。
客観的な見方ができるかどうか疑問です。
挙げたサイトで引用しているのは山口淑子の『李香蘭 私の半生』だけではありません。入江曜子『貴妃は毒殺されたか』からも引用しています。
>『李香蘭 私の半生』 によれば、当時の満州国宮廷には近代医学の知識を持った者は誰もいなく、昔の清王朝時代そのままの加持祈祷が行われていたため、見かねた吉岡安直が新京第 一病院長の小野寺直助博士を呼ぶことを提案すると溥儀はしぶしぶ承知。ところが小野寺博士が診察した時には、譚玉齢の病状はすでに腸チフスから脳膜炎を併 発していて手遅れで、やむなく博士はブドウ糖を注射しただけで帰らざるえなかったと書いてあります。
続いて 『貴妃は毒殺されたか』 には小野寺博士がブドウ糖を注射して帰ったまでは 『李香蘭 私の半生』 と同じですが、その後のことが詳しく書かれています。
小野寺博士が帰った後、黄子生(宮廷の中国人医師)は別の日本人医師、新京医科大学教授で新京病院の内科医長である橋本元文の自宅を尋ね、無理をいって往診を頼んだのです。これは 『わが半生』 にも書かれています。もっとも橋本医師の名は出てきませんが。
なぜ黄子生が別の医師を呼んだのかはわかりませんが、現在でいうところのセカンド・オピニオン(別の医師に診察させ、誤診を防ぐこと)のつもりだったのかもしれません。
橋本は翌日も往診を頼まれたため宮廷に行きましたが、治療してもはや手遅れであることを溥儀に伝えると、溥儀からは1時間でもいいから延命してほしい、といわれました。
橋本の判断では多少でも延命するには輸血をする以外にはなかったので、すぐに勤務先の新京病院に電話し、付属看護学校からO型の血液をもった生徒を呼ぶように指示しました。譚玉齢の血液型はO型でした。
輸血すると譚玉齢はほんの少し生色をとり戻しました。それを見た溥儀は、『ありがとう、ありがとう』 と両手で橋本の手を握りしめたのです。その翌日、橋本は譚玉齢の死を告げる電話を受けています。
さて毒殺されたのと、手遅れとはいえ医師に診察させたが亡くなったのとでは大違いです。まして下手人とは何ごとでしょう。
私は東京裁判での溥儀の証言は偽証であり、『貴妃は毒殺されたか』が譚玉齢の急死の真相だと思っています。なにしろ譚玉齢の死の2ヵ月後、溥儀は橋本を宮廷に招き、労をねぎらってドイツ製のワインを贈っているのです。
橋本は新聞で東京裁判での溥儀の証言を知ると驚いて、知人を介して弁護士団に連絡し、吉岡の名誉のためにも法廷で証言すると告げたのです。
しかし東京裁判はあまりにも政治的であり、勝者が敗者を裁くという報復裁判なので、ソ連や中国への配慮から橋本の出廷は実現せず、彼が入江曜子のインタビューに応じたのはそれから51年後のことでした。http://www9.wind.ne.jp/fujin/rekisi/china/karyu/yosioka.htm
溥儀というのは皇帝として異常な育てられ方をしたためか人格が恐ろしくゆがんだ人間のようですね。それをさも歴史(邪悪な日本軍国主義)に翻弄された悲劇の皇帝みたいに歪曲して描くのは許せません。
まったく架空の人物、架空のお話ならともかく、歴史に立脚しているなら史実を枉げてはいけません。日本人に対する名誉毀損です。
客観的な見方ができるかどうか疑問です。
挙げたサイトで引用しているのは山口淑子の『李香蘭 私の半生』だけではありません。入江曜子『貴妃は毒殺されたか』からも引用しています。
>『李香蘭 私の半生』 によれば、当時の満州国宮廷には近代医学の知識を持った者は誰もいなく、昔の清王朝時代そのままの加持祈祷が行われていたため、見かねた吉岡安直が新京第 一病院長の小野寺直助博士を呼ぶことを提案すると溥儀はしぶしぶ承知。ところが小野寺博士が診察した時には、譚玉齢の病状はすでに腸チフスから脳膜炎を併 発していて手遅れで、やむなく博士はブドウ糖を注射しただけで帰らざるえなかったと書いてあります。
続いて 『貴妃は毒殺されたか』 には小野寺博士がブドウ糖を注射して帰ったまでは 『李香蘭 私の半生』 と同じですが、その後のことが詳しく書かれています。
小野寺博士が帰った後、黄子生(宮廷の中国人医師)は別の日本人医師、新京医科大学教授で新京病院の内科医長である橋本元文の自宅を尋ね、無理をいって往診を頼んだのです。これは 『わが半生』 にも書かれています。もっとも橋本医師の名は出てきませんが。
なぜ黄子生が別の医師を呼んだのかはわかりませんが、現在でいうところのセカンド・オピニオン(別の医師に診察させ、誤診を防ぐこと)のつもりだったのかもしれません。
橋本は翌日も往診を頼まれたため宮廷に行きましたが、治療してもはや手遅れであることを溥儀に伝えると、溥儀からは1時間でもいいから延命してほしい、といわれました。
橋本の判断では多少でも延命するには輸血をする以外にはなかったので、すぐに勤務先の新京病院に電話し、付属看護学校からO型の血液をもった生徒を呼ぶように指示しました。譚玉齢の血液型はO型でした。
輸血すると譚玉齢はほんの少し生色をとり戻しました。それを見た溥儀は、『ありがとう、ありがとう』 と両手で橋本の手を握りしめたのです。その翌日、橋本は譚玉齢の死を告げる電話を受けています。
さて毒殺されたのと、手遅れとはいえ医師に診察させたが亡くなったのとでは大違いです。まして下手人とは何ごとでしょう。
私は東京裁判での溥儀の証言は偽証であり、『貴妃は毒殺されたか』が譚玉齢の急死の真相だと思っています。なにしろ譚玉齢の死の2ヵ月後、溥儀は橋本を宮廷に招き、労をねぎらってドイツ製のワインを贈っているのです。
橋本は新聞で東京裁判での溥儀の証言を知ると驚いて、知人を介して弁護士団に連絡し、吉岡の名誉のためにも法廷で証言すると告げたのです。
しかし東京裁判はあまりにも政治的であり、勝者が敗者を裁くという報復裁判なので、ソ連や中国への配慮から橋本の出廷は実現せず、彼が入江曜子のインタビューに応じたのはそれから51年後のことでした。http://www9.wind.ne.jp/fujin/rekisi/china/karyu/yosioka.htm
溥儀というのは皇帝として異常な育てられ方をしたためか人格が恐ろしくゆがんだ人間のようですね。それをさも歴史(邪悪な日本軍国主義)に翻弄された悲劇の皇帝みたいに歪曲して描くのは許せません。
まったく架空の人物、架空のお話ならともかく、歴史に立脚しているなら史実を枉げてはいけません。日本人に対する名誉毀損です。
これは メッセージ 21451 (anthony_749 さん)への返信です.