続き
投稿者: dorawasabi5001 投稿日時: 2009/06/07 00:59 投稿番号: [21218 / 29399]
何もできなくて
嘉手納の朝鮮人慰安婦の慰安所は、嘉手納のムラウチの民家を利用していましたが、よく場所をかえていました。
ある日、往診の帰りに嘉手納のムラウチを歩いていると、民家の前に三〇人ぐらいの兵隊が並んでいました。
その家の玄関には暖簾がかかっていて、みんな並んで、次々に入っていきましたよ。そして、終わったらどんどん帰っていく。後で考えたらあんまりにも残酷でね。だから、戦後このことを考えると、日本人って動物以下だと怒りがこみあげます。
女の人に限らず、朝鮮半島の方から男の人たちも連れてこられていました。
彼らは比謝矼辺りで土方仕事をさせられていたのですが、夏の暑い日も、冬の寒い日も奴隷のように働かされて、ちょっとでも休んでいたら「また休んでいるのか、早くやれ」と怒られてね。
私は先生と往診に出ることが多かったので、彼らの姿をよく見かけていました。
食事なんかは、いつ見ても硬くて味の無いカンパンだけ。それを二、三〇人でかたまって食べているのを見ると、何か持っていってたべさせたいと思うんですが、先生に「怒られるよ」と止められて、見ているだけしかできませんでした。
大山医院は、読谷山村・北谷村・越来村を往診するほどの当時にしては大きな医院で、その二階は日本軍の隊長に貸していました。
隊長は威張りくさってはいましたが、食べ物なんかもふんだんに病院へ持ち込んできていて、それらは普通の人がとても食べられないようなおいしいものでしたよ。肉や魚を食べたり、果物の缶詰めなんかもありました。
http://www.k0001.jp/sonsi/vol05b/chap06/content/docu140.html性病などや衰弱死した少女はどれくらいいたのでしょうか?
この連行された少女達は戦後どうなったのでしょうか。
4月に米軍が沖縄上陸してから、
戦闘に巻き込まれ、死傷した少女はどれくらいいたのでしょうか?
帰還船があったといいますが、こんな体では・・と帰らずに海に身を投げた
り、沖縄に留まったりした少女もいたそうですが、
苦しい生活を強いられたそうです。
もう亡くなってしまいましたが、ペ・ペポンギさんという方がいました。
沖縄に留まったのですが。
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