殺され、人生を踏みにじられた少女・女性
投稿者: dorawasabi5001 投稿日時: 2009/05/11 22:42 投稿番号: [21183 / 29399]
★「従軍慰安婦と歴史認識」より
◎市川さん(元憲兵)
憲兵の仕事ははっきり言いますと
「潜務(スパイ関係)」、「警務(渉外関係)」それに庶務という三つの課に分かれていまして、・・・。
私は庶務の方にまわされて「慰安婦」の仕事に配属されたのです。
「慰安婦係」というのは「慰安婦」の方々が兵隊と接触する上において、いろいろな情報が漏れてはいけないということもありまして、利用状況のチェックをするのが私の仕事であった・・・。
誰がどの女の人のところにあがったのかということをまとめて、毎日日記をつけながら「情報は漏れはしないか」というようなことを管理するのが私の任務でした。
・・
そして、士官に報告し、調査もしていたのだから、「軍が関与していない」ということはウソではないかというようなことを、証言したいのです。
◎荒木さん(元軍夫)
私は戦時中に【陸軍の御用船に賄い夫】として乗っていました。
戦時中、門司から15,6隻で船団を組んでサイゴン、タイ国に向けて出発しました。
途中、台湾の高雄に立ち寄り、水や食料などを補給し、翌朝船が出たわけです。
ところがアメリカの潜水艦が待ち構えていて、何隻
かの船はやられてしまいました。
船はバラバラに逃げましたが、又よってきました。海面に浮かんでいる人を助けるためです。
その時に、何人かの女の人も浮かんでいたのです。
兵隊も浮いている。軍属も浮いていました。
それで、無事だった私の船から、タラップを降ろして、助けようとしたのです。
その時、上官が言いました。
「兵隊を先に助けろ」と。それから軍属を助ける。そして言葉は悪いが耐えてください。
「朝鮮ピーは、朝鮮に行けばなんぼでもおるから、助けんでもいいち」
上官はそう命令したのです。
海面に浮いていた女性は「朝鮮人の慰安婦」だったのです。
でも上官は助けるなと命令しました(涙声になる)。
本当に涙が出ました。
今でもその時のお詫びの気持ちで、自分の部屋に40年も朝鮮の人形を飾っております。
手をふって「助けてくれ、助けてくれ」という女の人を置き去りにした時のあのことが、74歳になった今も忘れ切れません。
それから、これはサイゴンとタイの話です。
そこにも慰安所があり、朝鮮の女の人は私のことを「アラキィ、みんなは日曜日は楽しいというけれど
私達は日曜日は地獄だ」と、涙を流して言いました。
兵隊が十人も十五人も軍靴をぶらさげて廊下に並んで順番を待ってるというわけです。
・・
19か20歳くらいの若い女の人が・・・。
その人たちは言いました。
「朝鮮が陸続きだったら、逃げてでも帰りたい、お母さんのところに帰りたい」
病気をしたらもうおしまいち。ご飯も食べさせてもらわれん・・・。
亡くなった方はいくらでもおります。
大連の慰安所のことを話します。
全羅南道から来た朝鮮人慰安婦「ハナコ」さん。
私は賄い夫をしていたので、こうりゃんの握り飯を2つか3つつくってもっていってやったとです。
その握り飯を食べる時の顔が、今でも目に浮かびます。
それだけ朝鮮の女の人は食べるものも十分にもらえず、人間扱いされとらんかったです。
それやけん、よく「帰りたい」というておりました。
***
「帰りたい」のに「帰れない」、これを「強制」と言うのです。
皇軍が強姦所を管理し、少女・女性達を蹂躙していた事は事実。
◎市川さん(元憲兵)
憲兵の仕事ははっきり言いますと
「潜務(スパイ関係)」、「警務(渉外関係)」それに庶務という三つの課に分かれていまして、・・・。
私は庶務の方にまわされて「慰安婦」の仕事に配属されたのです。
「慰安婦係」というのは「慰安婦」の方々が兵隊と接触する上において、いろいろな情報が漏れてはいけないということもありまして、利用状況のチェックをするのが私の仕事であった・・・。
誰がどの女の人のところにあがったのかということをまとめて、毎日日記をつけながら「情報は漏れはしないか」というようなことを管理するのが私の任務でした。
・・
そして、士官に報告し、調査もしていたのだから、「軍が関与していない」ということはウソではないかというようなことを、証言したいのです。
◎荒木さん(元軍夫)
私は戦時中に【陸軍の御用船に賄い夫】として乗っていました。
戦時中、門司から15,6隻で船団を組んでサイゴン、タイ国に向けて出発しました。
途中、台湾の高雄に立ち寄り、水や食料などを補給し、翌朝船が出たわけです。
ところがアメリカの潜水艦が待ち構えていて、何隻
かの船はやられてしまいました。
船はバラバラに逃げましたが、又よってきました。海面に浮かんでいる人を助けるためです。
その時に、何人かの女の人も浮かんでいたのです。
兵隊も浮いている。軍属も浮いていました。
それで、無事だった私の船から、タラップを降ろして、助けようとしたのです。
その時、上官が言いました。
「兵隊を先に助けろ」と。それから軍属を助ける。そして言葉は悪いが耐えてください。
「朝鮮ピーは、朝鮮に行けばなんぼでもおるから、助けんでもいいち」
上官はそう命令したのです。
海面に浮いていた女性は「朝鮮人の慰安婦」だったのです。
でも上官は助けるなと命令しました(涙声になる)。
本当に涙が出ました。
今でもその時のお詫びの気持ちで、自分の部屋に40年も朝鮮の人形を飾っております。
手をふって「助けてくれ、助けてくれ」という女の人を置き去りにした時のあのことが、74歳になった今も忘れ切れません。
それから、これはサイゴンとタイの話です。
そこにも慰安所があり、朝鮮の女の人は私のことを「アラキィ、みんなは日曜日は楽しいというけれど
私達は日曜日は地獄だ」と、涙を流して言いました。
兵隊が十人も十五人も軍靴をぶらさげて廊下に並んで順番を待ってるというわけです。
・・
19か20歳くらいの若い女の人が・・・。
その人たちは言いました。
「朝鮮が陸続きだったら、逃げてでも帰りたい、お母さんのところに帰りたい」
病気をしたらもうおしまいち。ご飯も食べさせてもらわれん・・・。
亡くなった方はいくらでもおります。
大連の慰安所のことを話します。
全羅南道から来た朝鮮人慰安婦「ハナコ」さん。
私は賄い夫をしていたので、こうりゃんの握り飯を2つか3つつくってもっていってやったとです。
その握り飯を食べる時の顔が、今でも目に浮かびます。
それだけ朝鮮の女の人は食べるものも十分にもらえず、人間扱いされとらんかったです。
それやけん、よく「帰りたい」というておりました。
***
「帰りたい」のに「帰れない」、これを「強制」と言うのです。
皇軍が強姦所を管理し、少女・女性達を蹂躙していた事は事実。