なるほど・・強制疎開・食糧収奪・マラリヤ
投稿者: dorawasabi5001 投稿日時: 2007/10/08 00:10 投稿番号: [19503 / 29399]
★―強制疎開マラリア事件・補償問題から歴史改竄までの経過―
・・
2月頃
山下虎雄(偽名)、青年学校の教師として波照間に赴任。・・実は陸軍中野学校の教育を受け派遣された離島残置工作員
・・
3月下旬
山下、米軍が上陸する恐れがあるとして、島民に強制疎開を命令。
・・
【有力者達は、米軍上陸の可能性が低いこと、西表はマラリアの猖獗地であり感染が予想されることから反対したが、】
山下の強硬で暴力を厭わない態度に従わざるを得なかった。
この命令自体は石垣島の八重山守備軍(独立混成第45旅団)から出されたものとされているが、八重山の他の地域に比べ時期が早いことなど疑問が多い。
また、当時、日本側から沖縄への差別意識は根強く、
疎開は住民の安全を守るためと言うより、住民が米軍側につくことを恐れたものという見方が強い。
(この点に関しては山下本人も取材に対し「島民がスパイになる可能性」を述べている。)
3月末
疎開先が西表島の南岸、南風見(はえみ)に決定。準備が始められる。
この際、「上陸した米軍の食糧になる」として、豊富な島の家畜を全て屠殺する命令。
【牛、馬、豚、山羊あわせて3000頭、そして鶏5000羽が殺されたが、その大部分が軍の食糧として徴用された。】
屠殺は1ヶ月を要し、島内には屍骸があふれハエが大量発生、腐臭が漂った。・・
4月1日
米軍、沖縄本島に上陸
4月8日
疎開開始。・・大半の住民は波照間の見える南風見へ。4月終わりまでには全島民が疎開した。
萱葺きの掘立て小屋が建てられ、班や部落ごとの共同生活が始まる。わずかな食糧を共同炊事で分け合った。
山下は脅し、暴力により住民を統制した。一方でごく一部の住民に対しては温和に振舞っていた。・・
山下、【西表西部の炭坑より脱走してきた台湾人労働者を惨殺(5人以上)。また、山下の命令により教師に暴行を加えられた生徒が死亡。】
5月
・・
蚊の発生とともに、マラリア罹病者出始める。
特に、南風見東部地区への疎開者が多く罹病し、体力のない老人や子供から罹病した。
薬は全くなく、患者を隔離するより他手だてがなかった。
しかも多数が罹病するに至り、隔離も無意味となっていった。
【山下自身は軍支給のマラリア薬を持っており、ごく身近な者にのみ分け与えたという。】
・・
6月10日
石垣島においても、マラリア汚染地への疎開命令が出される。(「甲号戦備下令」へ変換。)
軍関係者の回想録によれば、この命令は作戦展開上の必然性と言うよりも、八重山が戦場となる可能性が低下したことによる「たるみ」の引締めと演習的意味が強かったという。
また、軍はマラリア汚染地域を事前に把握していた。
一方で防衛庁の1966年の公文書には、台湾の第十方面軍の情報判断の誤りによる命令と記されているという。
6月23日
沖縄本島南部、摩文仁での牛島司令官自決により、日本軍の組織的抵抗終了
・・
7月2日
米軍、沖縄作戦の終了を宣言
マラリア罹病者が激増、死者もだいぶ出ていたが、
【山下、帰島を許さず。一部の女性達に対し、山奥に建てた避難小屋での集団自決を示唆していたという証言がある。】
・・
8月2日
・・
石垣の軍が許可したにも係らず山下がそれに従わなかったのは、彼が軍本部の直接の指揮下にあったからではないかという分析もある。
彼は陸軍中野学校出身の離島残置工作員であり、その任務は、軍の組織的抵
抗が壊滅した後なお、ゲリラ的活動による敵の後方霍乱を狙うものだったといわれている。
山下は毎日新聞の取材に対し「当時の任務は死んでも言えない」と答えている。
9月7日
沖縄の日本軍、降伏文書に正式に調印
【帰島した島民の間でマラリアが一挙に蔓延、島民のほとんど全員が罹患。戦地より復員した者も感染した。食糧不足による栄養失調が追い討ちをかけ、一旦回復した人々も再発した。】
・・
八重山郡全体でのマラリア被害は、
1945年には患者数16,884人(人口の約半数)、死者数3,674人、
1946年には患者数9,050人、死者数128人となっている。これらも強制疎開を原因とする。
・・
http://www.kt.rim.or.jp/~yami/hateruma/mararia.html
・・
2月頃
山下虎雄(偽名)、青年学校の教師として波照間に赴任。・・実は陸軍中野学校の教育を受け派遣された離島残置工作員
・・
3月下旬
山下、米軍が上陸する恐れがあるとして、島民に強制疎開を命令。
・・
【有力者達は、米軍上陸の可能性が低いこと、西表はマラリアの猖獗地であり感染が予想されることから反対したが、】
山下の強硬で暴力を厭わない態度に従わざるを得なかった。
この命令自体は石垣島の八重山守備軍(独立混成第45旅団)から出されたものとされているが、八重山の他の地域に比べ時期が早いことなど疑問が多い。
また、当時、日本側から沖縄への差別意識は根強く、
疎開は住民の安全を守るためと言うより、住民が米軍側につくことを恐れたものという見方が強い。
(この点に関しては山下本人も取材に対し「島民がスパイになる可能性」を述べている。)
3月末
疎開先が西表島の南岸、南風見(はえみ)に決定。準備が始められる。
この際、「上陸した米軍の食糧になる」として、豊富な島の家畜を全て屠殺する命令。
【牛、馬、豚、山羊あわせて3000頭、そして鶏5000羽が殺されたが、その大部分が軍の食糧として徴用された。】
屠殺は1ヶ月を要し、島内には屍骸があふれハエが大量発生、腐臭が漂った。・・
4月1日
米軍、沖縄本島に上陸
4月8日
疎開開始。・・大半の住民は波照間の見える南風見へ。4月終わりまでには全島民が疎開した。
萱葺きの掘立て小屋が建てられ、班や部落ごとの共同生活が始まる。わずかな食糧を共同炊事で分け合った。
山下は脅し、暴力により住民を統制した。一方でごく一部の住民に対しては温和に振舞っていた。・・
山下、【西表西部の炭坑より脱走してきた台湾人労働者を惨殺(5人以上)。また、山下の命令により教師に暴行を加えられた生徒が死亡。】
5月
・・
蚊の発生とともに、マラリア罹病者出始める。
特に、南風見東部地区への疎開者が多く罹病し、体力のない老人や子供から罹病した。
薬は全くなく、患者を隔離するより他手だてがなかった。
しかも多数が罹病するに至り、隔離も無意味となっていった。
【山下自身は軍支給のマラリア薬を持っており、ごく身近な者にのみ分け与えたという。】
・・
6月10日
石垣島においても、マラリア汚染地への疎開命令が出される。(「甲号戦備下令」へ変換。)
軍関係者の回想録によれば、この命令は作戦展開上の必然性と言うよりも、八重山が戦場となる可能性が低下したことによる「たるみ」の引締めと演習的意味が強かったという。
また、軍はマラリア汚染地域を事前に把握していた。
一方で防衛庁の1966年の公文書には、台湾の第十方面軍の情報判断の誤りによる命令と記されているという。
6月23日
沖縄本島南部、摩文仁での牛島司令官自決により、日本軍の組織的抵抗終了
・・
7月2日
米軍、沖縄作戦の終了を宣言
マラリア罹病者が激増、死者もだいぶ出ていたが、
【山下、帰島を許さず。一部の女性達に対し、山奥に建てた避難小屋での集団自決を示唆していたという証言がある。】
・・
8月2日
・・
石垣の軍が許可したにも係らず山下がそれに従わなかったのは、彼が軍本部の直接の指揮下にあったからではないかという分析もある。
彼は陸軍中野学校出身の離島残置工作員であり、その任務は、軍の組織的抵
抗が壊滅した後なお、ゲリラ的活動による敵の後方霍乱を狙うものだったといわれている。
山下は毎日新聞の取材に対し「当時の任務は死んでも言えない」と答えている。
9月7日
沖縄の日本軍、降伏文書に正式に調印
【帰島した島民の間でマラリアが一挙に蔓延、島民のほとんど全員が罹患。戦地より復員した者も感染した。食糧不足による栄養失調が追い討ちをかけ、一旦回復した人々も再発した。】
・・
八重山郡全体でのマラリア被害は、
1945年には患者数16,884人(人口の約半数)、死者数3,674人、
1946年には患者数9,050人、死者数128人となっている。これらも強制疎開を原因とする。
・・
http://www.kt.rim.or.jp/~yami/hateruma/mararia.html