南京虐殺はなぜ起きたのか①
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2007/07/21 10:02 投稿番号: [18169 / 29399]
戦争の実相を知る世代が
少数派となったことに比例するように、
声高に憲法9条の改廃を叫ぶ勢力が 目立つようになった現在。
国民一人ひとりが真剣に考え、語るべきは、未来の日本のあり方だが、
そのためには 過去の歴史に学び、教訓とすることが重要だと思う。
そうした観点からみたとき あらためて気づく事実は、
改憲を主張する者の大多数は ヤスクニ派に代表されるように
侵略戦争への反省や旧軍部の蛮行に対する批判の声を否定することに執着を示す。
彼らの 過去の歴史にむき合う姿勢には 疑問を感じざるを得ない。
典型的な事例として、南京虐殺事件否定派の策動があげられる。
世界的にみて常識として歴史の事実である事件まで「まぼろし」だなどと
否定する人間が この国にのみ存在し、同時に改憲を主張しているのだ。
南京虐殺は あったのか無かったのか、などと 今さら論じるのは無意味だ。
それは、動かしがたい事実であり、議論の余地はない。
検証すべき問題は、なぜ そのような残虐な事件が起きたのかということであり、
それを考察することによって、改憲がもたらす結果を考える手がかりにもなると思う。
南京周辺における戦闘にさいしての日本軍による虐殺の中で
とくに問題になるのは、婦女暴行や民間人虐殺ばかりでなく、
大量の捕虜の組織的殺害が行なわれたことにある。
捕虜の殺害は、当時も 明白な国際法違反だった。
1899年にハーグ平和会議で制定され、1907年の第2回平和会議で改訂された
「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」には、日本政府も加入して1912年に批准している。
この条約は 捕虜に対する人道的処遇について定めたものであり、
人権尊重の観念が生まれた近代社会になって、
戦争の遂行について はじめて国際的な規範を示したものだった。
日本は、みずからを近代国家として世界に認知させようとしているあいだは、
戦時国際法を遵守する努力をしていた。
たとえば、日露戦争におけるロシア人捕虜や 第一次大戦におけるドイツ人捕虜を
収容所で好遇するなど 当時の日本は、国際法の“模範生”だった。
しかし、欧米人に対する場合とアジア人に対する場合には、異なった基準があった。
それは 軍国主義が強まり、靖国精神が広く行き渡った昭和に入ると露骨になる。
満州事変を経たのちの1933年1月、陸軍歩兵学校は
「対支那軍戦闘法ノ研究」というパンフレットを 参考書として配布した。
これは、同校教官であった大佐の研究を、校長の序を付して刊行したもので、
その中に「捕虜ノ処置」という項目があり、以下のように書かれている。
捕虜ハ他列国人ニ対スル如ク必ズシモ之レヲ後送監禁シテ戦局ヲ待ツヲ要セズ、
特別ノ場合ノ外現地又ハ他ノ地方ニ移シ釈放シテ可ナリ
支那人ハ戸籍法完全ナラザルノミナラズ特ニ兵員ハ浮浪者多ク其存在ヲ
確認セラレアルモノ少キヲ以テ仮ニ之レヲ殺害又ハ他ノ地方ニ放ツモ
世間的ニ問題トナルコト無シ
中国兵捕虜は、他国人のように国際法に基く処置をしなくてもよい、
殺しても問題にはならない、と述べたこの文書には、
あきらかに 中国の人々への蔑視があらわれている。
当時、日本人には 他のアジア諸国民を見下す 傲慢な思想が植付けられていたが、
それに加えて、日本軍の、少なくとも陸軍将校は、
このような参考書によって、対中国への戦術を学んでいたことになる。
声高に憲法9条の改廃を叫ぶ勢力が 目立つようになった現在。
国民一人ひとりが真剣に考え、語るべきは、未来の日本のあり方だが、
そのためには 過去の歴史に学び、教訓とすることが重要だと思う。
そうした観点からみたとき あらためて気づく事実は、
改憲を主張する者の大多数は ヤスクニ派に代表されるように
侵略戦争への反省や旧軍部の蛮行に対する批判の声を否定することに執着を示す。
彼らの 過去の歴史にむき合う姿勢には 疑問を感じざるを得ない。
典型的な事例として、南京虐殺事件否定派の策動があげられる。
世界的にみて常識として歴史の事実である事件まで「まぼろし」だなどと
否定する人間が この国にのみ存在し、同時に改憲を主張しているのだ。
南京虐殺は あったのか無かったのか、などと 今さら論じるのは無意味だ。
それは、動かしがたい事実であり、議論の余地はない。
検証すべき問題は、なぜ そのような残虐な事件が起きたのかということであり、
それを考察することによって、改憲がもたらす結果を考える手がかりにもなると思う。
南京周辺における戦闘にさいしての日本軍による虐殺の中で
とくに問題になるのは、婦女暴行や民間人虐殺ばかりでなく、
大量の捕虜の組織的殺害が行なわれたことにある。
捕虜の殺害は、当時も 明白な国際法違反だった。
1899年にハーグ平和会議で制定され、1907年の第2回平和会議で改訂された
「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」には、日本政府も加入して1912年に批准している。
この条約は 捕虜に対する人道的処遇について定めたものであり、
人権尊重の観念が生まれた近代社会になって、
戦争の遂行について はじめて国際的な規範を示したものだった。
日本は、みずからを近代国家として世界に認知させようとしているあいだは、
戦時国際法を遵守する努力をしていた。
たとえば、日露戦争におけるロシア人捕虜や 第一次大戦におけるドイツ人捕虜を
収容所で好遇するなど 当時の日本は、国際法の“模範生”だった。
しかし、欧米人に対する場合とアジア人に対する場合には、異なった基準があった。
それは 軍国主義が強まり、靖国精神が広く行き渡った昭和に入ると露骨になる。
満州事変を経たのちの1933年1月、陸軍歩兵学校は
「対支那軍戦闘法ノ研究」というパンフレットを 参考書として配布した。
これは、同校教官であった大佐の研究を、校長の序を付して刊行したもので、
その中に「捕虜ノ処置」という項目があり、以下のように書かれている。
捕虜ハ他列国人ニ対スル如ク必ズシモ之レヲ後送監禁シテ戦局ヲ待ツヲ要セズ、
特別ノ場合ノ外現地又ハ他ノ地方ニ移シ釈放シテ可ナリ
支那人ハ戸籍法完全ナラザルノミナラズ特ニ兵員ハ浮浪者多ク其存在ヲ
確認セラレアルモノ少キヲ以テ仮ニ之レヲ殺害又ハ他ノ地方ニ放ツモ
世間的ニ問題トナルコト無シ
中国兵捕虜は、他国人のように国際法に基く処置をしなくてもよい、
殺しても問題にはならない、と述べたこの文書には、
あきらかに 中国の人々への蔑視があらわれている。
当時、日本人には 他のアジア諸国民を見下す 傲慢な思想が植付けられていたが、
それに加えて、日本軍の、少なくとも陸軍将校は、
このような参考書によって、対中国への戦術を学んでいたことになる。
これは メッセージ 1 (yuukouheiwa さん)への返信です.