結論 日本軍の処刑数は最低8万人以上
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2007/07/03 06:34 投稿番号: [17725 / 29399]
第一次上海事件の背景
実に謀略と陰謀に長けてますな。
田中隆吉の証言
1931年9月18日に起きた柳条湖事件を契機として満州を舞台として日華両軍は戦火を交えた(満州事変)が、露骨な侵攻劇は各国からの反発を招いた。柳条湖事件の首謀者板垣征四郎大佐と関東軍高級参謀花谷正少佐らの依頼によって、世界の目を他にそらすために上海公使館付陸軍武官補佐官田中隆吉少佐が計画した謀略であったというもの。実行者は憲兵大尉の重藤憲史と「東洋のマタ・ハリ」川島芳子。
田中の愛人であった川島芳子は中国人の殺し屋を雇い、1932年1月18日の夜、上海の馬玉山路を歩いていた日本人僧侶を襲わせた。
中国人が日本人僧侶を殺害したという事件は、日ごろから中国人に反感を抱いていた上海の日本人居留民の怒りを爆発させ、青年団が中国人街に殴り込みをかけ、各所で暴力事件が続発したため、上海の工部局は戒厳令を敷いた。上海の日本人を保護するために派遣されていたのは海軍陸戦隊の約1000人だったが、中国側は3万5千人だった。治安悪化で日本人が不安に駆られる中、田中隆吉の工作による発砲事件が引き金で、1月28日、蔡廷楷が率いる19路軍(私軍)と戦火を交えた。
国際都市上海を戦場に変え、世界世論の注目を浴びた戦闘は続き、その間に黒竜江省省長である張景恵らによる東北行政委員会が、満州民族出身の元清朝皇帝愛新覚羅溥儀を執政として3月1日に満州国の建国を宣言した。上海事変は満州事変から列強の目を逸らすという目的を達したものといえる。日華両国の停戦協定が成立したのは5月5日のことであった。
これは メッセージ 17724 (unhoo さん)への返信です.
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