Re: 揚子江での捕虜殺害を疑う奴がいたから
投稿者: anti_mainas_shikou 投稿日時: 2007/06/07 08:31 投稿番号: [16478 / 29399]
そうかい。
ところで
No.16447の菅野嘉雄氏の所属 歩兵第65連隊連隊砲中隊・一等兵 となっているが
ちょっと変なんだよね。
山田支隊は 本当は 歩兵第百三旅団で その下に
歩兵第65連隊と
山砲兵第19連隊がある。
第65連隊は 歩兵の連隊 であって
砲兵隊は 第19連隊 なんだけどね。
この証言者 間違いなく 本物なんだろうね。
数、沢山、並べても、偽物が交じっていたら、その証言は信用できなくなるよ。
次に、荒海清衛氏は No.16440 で
「十二月十七日
今日は南京入城なり(一部分)。俺等は今日も捕虜の始末だ。一万五千名、今日は山で。大隊で負傷、戦死有り。」
と言っているね。捕虜の始末で 「大隊で負傷、戦死有り。」 は何だろね。
他の人は 「処刑」 と言っているが、処刑で 戦死 はないだろう。
君は、この言葉の意味が解らないのかね。
両角連隊長は揚子江の対岸に、逃がそうとして、暴れられ、結果的に殺したと言ってるんだよ。
多分これが正解だろうね。下っ端は何も知らないから、処刑と言ってるがね。
それから、人数も間違っているよ。
山田支隊は12月13日 幕府山に進出 大量の投降兵を受け入れた その数約一万五千
あまり数が多いので、戦闘員と非戦闘員とが選り分けられた。そして、非戦闘員は解放された。
残る八千人ほどが幕府山南麓のバラックに収容された。
つまり、この時の人数は 八千人 なんだよ。
師団に報告したら「皆殺セト」と言われたが、山田旅団長は命令に従わず、生かしていた。
ところが、十二月十六日 捕虜のバラックで 出火があり、約四千人が逃亡した。
残りは四千人
捕虜が逃亡目的で、放火した となり、旅団長は、師団命令を無視する事ができなくなった。
それで両角連隊長は、田山第一大隊長に次の指令を下した。
《十七日に逃げ残りの捕虜全員を幕府山北側の揚子江南岸に集合せしめ、夜陰に乗じて舟にて北岸に送り、解放せよ。
これがため付近の村落にて舟を集め、また支那人の漕ぎ手を準備せよ。》
決行は17日の夜。
両角連隊長の「手記」より。
《軽舟艇に二、三百人の俘虜を乗せて、長江の中流まで行ったところ、
前岸に警備しておった支那兵が、日本軍の渡河攻撃とばかりに発砲したので、
舟の舵を預かる支那の土民、キモをつぶして江上を右往左往、次第に押し流されるという状況。
ところが、北岸に集結していた俘虜は、この銃声を、日本軍が自分たちを江上に引き出して
銃殺する銃声であると即断し、静寂は破れて、たちまち混乱の巷となったのだ。
二千人ほどのものが一時に猛り立ち、死にもの狂いで逃げまどうので如何ともしがたく、
我が軍もやむなく銃火をもってこれが制止につとめても暗夜のこととて、大部分は陸地方面に逃亡、
一部は揚子江に飛び込み、我が銃火により倒れたる者は、翌朝私も見たのだが、僅少の数に止まっていた。
すべて、これで終わりである。あっけないといえばあっけないが、これが真実である。
表面に出たことは宣伝、誇張が多過ぎる。》
要するに、山田支隊が、結果的に殺害したのは最大でも2千人、
両角連隊長は僅少の数と言っているから、もっと少なかったのだろう。
しかも、これは、計画的なものではなく、不慮の事故だった。
だから、日本兵にも死者が出たんだよ。
君は何も解らず、「これは、よさそうだ」と思う資料に飛びついているだけだよ。
ところで
No.16447の菅野嘉雄氏の所属 歩兵第65連隊連隊砲中隊・一等兵 となっているが
ちょっと変なんだよね。
山田支隊は 本当は 歩兵第百三旅団で その下に
歩兵第65連隊と
山砲兵第19連隊がある。
第65連隊は 歩兵の連隊 であって
砲兵隊は 第19連隊 なんだけどね。
この証言者 間違いなく 本物なんだろうね。
数、沢山、並べても、偽物が交じっていたら、その証言は信用できなくなるよ。
次に、荒海清衛氏は No.16440 で
「十二月十七日
今日は南京入城なり(一部分)。俺等は今日も捕虜の始末だ。一万五千名、今日は山で。大隊で負傷、戦死有り。」
と言っているね。捕虜の始末で 「大隊で負傷、戦死有り。」 は何だろね。
他の人は 「処刑」 と言っているが、処刑で 戦死 はないだろう。
君は、この言葉の意味が解らないのかね。
両角連隊長は揚子江の対岸に、逃がそうとして、暴れられ、結果的に殺したと言ってるんだよ。
多分これが正解だろうね。下っ端は何も知らないから、処刑と言ってるがね。
それから、人数も間違っているよ。
山田支隊は12月13日 幕府山に進出 大量の投降兵を受け入れた その数約一万五千
あまり数が多いので、戦闘員と非戦闘員とが選り分けられた。そして、非戦闘員は解放された。
残る八千人ほどが幕府山南麓のバラックに収容された。
つまり、この時の人数は 八千人 なんだよ。
師団に報告したら「皆殺セト」と言われたが、山田旅団長は命令に従わず、生かしていた。
ところが、十二月十六日 捕虜のバラックで 出火があり、約四千人が逃亡した。
残りは四千人
捕虜が逃亡目的で、放火した となり、旅団長は、師団命令を無視する事ができなくなった。
それで両角連隊長は、田山第一大隊長に次の指令を下した。
《十七日に逃げ残りの捕虜全員を幕府山北側の揚子江南岸に集合せしめ、夜陰に乗じて舟にて北岸に送り、解放せよ。
これがため付近の村落にて舟を集め、また支那人の漕ぎ手を準備せよ。》
決行は17日の夜。
両角連隊長の「手記」より。
《軽舟艇に二、三百人の俘虜を乗せて、長江の中流まで行ったところ、
前岸に警備しておった支那兵が、日本軍の渡河攻撃とばかりに発砲したので、
舟の舵を預かる支那の土民、キモをつぶして江上を右往左往、次第に押し流されるという状況。
ところが、北岸に集結していた俘虜は、この銃声を、日本軍が自分たちを江上に引き出して
銃殺する銃声であると即断し、静寂は破れて、たちまち混乱の巷となったのだ。
二千人ほどのものが一時に猛り立ち、死にもの狂いで逃げまどうので如何ともしがたく、
我が軍もやむなく銃火をもってこれが制止につとめても暗夜のこととて、大部分は陸地方面に逃亡、
一部は揚子江に飛び込み、我が銃火により倒れたる者は、翌朝私も見たのだが、僅少の数に止まっていた。
すべて、これで終わりである。あっけないといえばあっけないが、これが真実である。
表面に出たことは宣伝、誇張が多過ぎる。》
要するに、山田支隊が、結果的に殺害したのは最大でも2千人、
両角連隊長は僅少の数と言っているから、もっと少なかったのだろう。
しかも、これは、計画的なものではなく、不慮の事故だった。
だから、日本兵にも死者が出たんだよ。
君は何も解らず、「これは、よさそうだ」と思う資料に飛びついているだけだよ。
これは メッセージ 16449 (emsle0987 さん)への返信です.