慰安婦集めは国ぐるみ(1)
投稿者: dorawasabi5000 投稿日時: 2003/03/15 14:17 投稿番号: [1292 / 29399]
以下<市民にいがた>資料集より
<<>>この部分の資料で、政府の認識が変わった。
吉見教授が、発見したもの。
それまでは、「業者が勝手に連れ歩いてた」というような、軍と業者の関係を否定していた。
慰安婦集めの形態とその推移
現在知られている最初の軍慰安所は、海軍によって上海事変(1932.1)直後に設置さ
れた。 1932年から敗戦の45年のあしかけ14年にわたって慰安婦が集められたわ
けであるが、その集め方は、当然にもこうした戦線の拡大の時期によって状況が異な
っている。初期には数は多くなく、1937年の「南京事件」を契機に急増した。この時
期、慰安婦集めはややもすると度が過ぎ、派遣軍が選定した業者が時には誘拐まがい
の方法で募集を行ない、このような不祥事が続けば日本軍に対する日本国民の信頼が
崩れると恐れた陸軍省副官は「各派遣軍は徴集業務を統制し、業者の選定をしっかり
おこない、業者と地元の警察・憲兵との連携を密接に行うよう行うよう」命じた(注
1)。
<<なおこの通牒は兵務局兵務課が立案し、梅津陸軍次官が決裁した。この通牒の最後
には「依命通牒す」とあり、杉山陸軍大臣の委任を受けて発行されたことが明記され
ている。日本政府の認識を決定的に変えさせたこの資料は、「従軍慰安婦」の必要性
自体を暗示しており、この当時、陸軍省は「従軍慰安婦」の果たす「役割」を高く評
価しており、その認識にたち、慰安婦の意義を説く教育参考資料「支那事変の経験よ
り観たる軍紀振作対策」も各部隊に配布している。その内容は、軍慰安所は軍人の志
気の振興、軍規の維持、略奪・強姦・放火・捕虜虐殺などの犯罪の予防、性病の予防
のために必要であると説いているものである(注2)。>>
41年に対米宣戦布告し本格的に太平洋戦争に突入すると、こうした慰安所も泥沼化
していった。戦線が拡大し「慰安婦」の需要が増すと、陸軍省は従来派遣軍にまかせ
ていた軍慰安所の設置を自らも手がけ始めた。1942年9月3日の陸軍省課長会報で倉本
敬次郎恩賞課長は、「将校以下の慰安施設を次の通り作りたり」としてその結果を報
告した。それによると、設置された軍慰安所は、華北100、華中140、華南40、南方10
0、南海10、樺太10、計400ヶ所であった。
台湾軍が南方軍の求めにより「従軍慰安婦」50人を選定し、その渡航許可を陸軍大
臣に求めた公文書(注3)なども発見されている。この申請はもちろん許可され実行
にうつされた。
戦争末期になると兵士の数も増え、それにともない慰安婦集めも激しさを増し、
朝鮮では44年8月に「女子挺身勤労令」が出された。(注4)。
初期には余裕があり、中には望んで応募した者も当然いるだろう。事実、「慰安婦
」問題を調査する市民や研究者の呼び掛けで1992年末、「日本の戦後補償に関する国
際公聴会」が東京で開かれたとき、韓国からの研究報告は、26%が「奴隷狩り」であ
り、68%が「だまされて」であったことを明らかにしている(戦争犠牲者を心に刻む
会編『アジアの声』第7集、東方出版)。台湾でもその数値に近く、さらに限られた
数だが「自発的に」というものもある。もし「強制」を狭く「連行」時の「暴力」に
限定するならば、問題のないケースも少なくないことになる。しかし、「従軍看護婦
」の名の下に募集された者であったり、たとえ自ら志願したものであっても、あるい
は甘言にだまされていても、現地に到着し自分がいったい何をされるかが明確になっ
た時点で、それを拒否して自由に帰国できる経済的・法的保障がなければ、そしてそ
の後軍事的圧力下で性行為を強要されていたとすれば、それはたとえお金を得ていた
としても「強制」以外のなにものでもない。こうして「自ら応募させ」て集めて慰安
婦とし、欺き、強制的に性行為に従事させることを「自発的に応じた」として切り捨
て、「強制の事実はない」などと強弁することは絶対にできない。
<<>>この部分の資料で、政府の認識が変わった。
吉見教授が、発見したもの。
それまでは、「業者が勝手に連れ歩いてた」というような、軍と業者の関係を否定していた。
慰安婦集めの形態とその推移
現在知られている最初の軍慰安所は、海軍によって上海事変(1932.1)直後に設置さ
れた。 1932年から敗戦の45年のあしかけ14年にわたって慰安婦が集められたわ
けであるが、その集め方は、当然にもこうした戦線の拡大の時期によって状況が異な
っている。初期には数は多くなく、1937年の「南京事件」を契機に急増した。この時
期、慰安婦集めはややもすると度が過ぎ、派遣軍が選定した業者が時には誘拐まがい
の方法で募集を行ない、このような不祥事が続けば日本軍に対する日本国民の信頼が
崩れると恐れた陸軍省副官は「各派遣軍は徴集業務を統制し、業者の選定をしっかり
おこない、業者と地元の警察・憲兵との連携を密接に行うよう行うよう」命じた(注
1)。
<<なおこの通牒は兵務局兵務課が立案し、梅津陸軍次官が決裁した。この通牒の最後
には「依命通牒す」とあり、杉山陸軍大臣の委任を受けて発行されたことが明記され
ている。日本政府の認識を決定的に変えさせたこの資料は、「従軍慰安婦」の必要性
自体を暗示しており、この当時、陸軍省は「従軍慰安婦」の果たす「役割」を高く評
価しており、その認識にたち、慰安婦の意義を説く教育参考資料「支那事変の経験よ
り観たる軍紀振作対策」も各部隊に配布している。その内容は、軍慰安所は軍人の志
気の振興、軍規の維持、略奪・強姦・放火・捕虜虐殺などの犯罪の予防、性病の予防
のために必要であると説いているものである(注2)。>>
41年に対米宣戦布告し本格的に太平洋戦争に突入すると、こうした慰安所も泥沼化
していった。戦線が拡大し「慰安婦」の需要が増すと、陸軍省は従来派遣軍にまかせ
ていた軍慰安所の設置を自らも手がけ始めた。1942年9月3日の陸軍省課長会報で倉本
敬次郎恩賞課長は、「将校以下の慰安施設を次の通り作りたり」としてその結果を報
告した。それによると、設置された軍慰安所は、華北100、華中140、華南40、南方10
0、南海10、樺太10、計400ヶ所であった。
台湾軍が南方軍の求めにより「従軍慰安婦」50人を選定し、その渡航許可を陸軍大
臣に求めた公文書(注3)なども発見されている。この申請はもちろん許可され実行
にうつされた。
戦争末期になると兵士の数も増え、それにともない慰安婦集めも激しさを増し、
朝鮮では44年8月に「女子挺身勤労令」が出された。(注4)。
初期には余裕があり、中には望んで応募した者も当然いるだろう。事実、「慰安婦
」問題を調査する市民や研究者の呼び掛けで1992年末、「日本の戦後補償に関する国
際公聴会」が東京で開かれたとき、韓国からの研究報告は、26%が「奴隷狩り」であ
り、68%が「だまされて」であったことを明らかにしている(戦争犠牲者を心に刻む
会編『アジアの声』第7集、東方出版)。台湾でもその数値に近く、さらに限られた
数だが「自発的に」というものもある。もし「強制」を狭く「連行」時の「暴力」に
限定するならば、問題のないケースも少なくないことになる。しかし、「従軍看護婦
」の名の下に募集された者であったり、たとえ自ら志願したものであっても、あるい
は甘言にだまされていても、現地に到着し自分がいったい何をされるかが明確になっ
た時点で、それを拒否して自由に帰国できる経済的・法的保障がなければ、そしてそ
の後軍事的圧力下で性行為を強要されていたとすれば、それはたとえお金を得ていた
としても「強制」以外のなにものでもない。こうして「自ら応募させ」て集めて慰安
婦とし、欺き、強制的に性行為に従事させることを「自発的に応じた」として切り捨
て、「強制の事実はない」などと強弁することは絶対にできない。
これは メッセージ 1279 (kuroneko_pop さん)への返信です.