イギリスの対日感情
投稿者: fukagawatohei 投稿日時: 2006/05/21 16:41 投稿番号: [11958 / 29399]
(google プログより抜粋)
日本とイギリスの「苦い過去」 小 菅 信 子 (山梨学院大学法学部助教授)
第二次世界大戦中の日本軍による連合軍捕虜処遇問題は、戦後イギリスやオランダ、さらにオーストラリアをはじめとする英連邦諸国の対日観に陰鬱な影を落としてきた。このうち大戦中、日本軍が捕虜とした英軍兵士は約5万人、このなかの約3万人が映画『戦場にかける橋』で知られる泰緬鉄道建設で労働を強いられ、うち20パーセントが死亡した。終戦までに、5万人の英軍捕虜のうち約25パーセントが死亡した。第二次世界大戦におけるイギリス全軍の死亡率は1945年6月までの段階で約5パーセント、同じく独伊軍に捕らえられた英軍捕虜の死亡率も5パーセント。25パーセントという死亡率は、英軍が第二次世界大戦中に経験したあらゆる苛酷な戦い、たとえばノルマンディー上陸作戦やビルマ戦などと比較してもはるかに高い数値である。
日本軍の収容所から解放された捕虜は、アメリカが原爆を投下してくれたおかげで自分たちは助かったのだと感じた。実態が公表されていくにつれて、捕虜取扱いに関して日本人は「ナチよりも残虐」であるという心象が人々の間に広がっていった。イギリスでは、サンフランシスコ講和条約の締結にあたり、日本軍の元捕虜を中心に対日補償請求キャンペーンが展開され、パーシヴァル将軍らは十分な調査と議論がなされるまでイギリス政府は講和条約の署名を拒否すべきだと主張した。講和条約発効後も、戦争犯罪人の早期釈放を求めて訪英した日本政府のミッションに対して、イギリス政府は国民の対日感情の悪さを理由に慎重な姿勢をくずさなかった。1954年イギリスを訪問した吉田茂首相(当時)は、英議会に招かれインターパーリアメンタリ―・ユニオンにおいて演説を行なった。吉田のスピーチは、日英同盟を想起しつつ、反共・日英提携を呼びかける内容であったが、演説が終るや、「いつ英国人捕虜に対する補償問題を片づけるつもりか」などと攻撃的で批判的な質問を矢継ぎ早に浴びせかけられた。
1971年秋、昭和天皇のイギリス訪問にあたって、平素は国民に「人気があるとは決していえない」マウントバッテン卿が、そのスケジュール表から天皇との会見を除外したということだけで、人々の「大喝采」を博し、一躍その株をあげた。マウントバッテン卿は元東南アジア連合軍司令官、エリザベス女王の伯父にあたる。英国紙『オブザーバー』は、「ひとつの事実さえなかったら、天皇を歓迎することができたかもしれない」と評した。訪英中に昭和天皇が植えた記念樹は何者かによって引き抜かれ、それから十数年を経て天皇が臨終の床についたとき、『サン』などの英国大衆紙はこぞって「地獄が天皇を待っている」などと書きたてた。1995年、イギリスは第二次世界大戦の戦勝50周年記念を祝うべく旧敵国ドイツを式典に招きながら、日本代表は招待せず、かわってマスメディアが連日のように日本批判の報道を繰り返した。そして1998年初夏、現天皇の英国訪問に際してなお、日章旗は燃やされ、イギリス人元捕虜らは天皇のパレードに背を向け、口笛を吹いて抗議の意を表した。日本軍の英軍捕虜に対する「否定しがたい残虐性」は、まさに戦後イギリスが抱いた反日感情の源泉であった。
(これだけ、反日的なイギリスが旧日本軍の奇襲攻撃を許すとは、常識では、考えられんの。)
日本とイギリスの「苦い過去」 小 菅 信 子 (山梨学院大学法学部助教授)
第二次世界大戦中の日本軍による連合軍捕虜処遇問題は、戦後イギリスやオランダ、さらにオーストラリアをはじめとする英連邦諸国の対日観に陰鬱な影を落としてきた。このうち大戦中、日本軍が捕虜とした英軍兵士は約5万人、このなかの約3万人が映画『戦場にかける橋』で知られる泰緬鉄道建設で労働を強いられ、うち20パーセントが死亡した。終戦までに、5万人の英軍捕虜のうち約25パーセントが死亡した。第二次世界大戦におけるイギリス全軍の死亡率は1945年6月までの段階で約5パーセント、同じく独伊軍に捕らえられた英軍捕虜の死亡率も5パーセント。25パーセントという死亡率は、英軍が第二次世界大戦中に経験したあらゆる苛酷な戦い、たとえばノルマンディー上陸作戦やビルマ戦などと比較してもはるかに高い数値である。
日本軍の収容所から解放された捕虜は、アメリカが原爆を投下してくれたおかげで自分たちは助かったのだと感じた。実態が公表されていくにつれて、捕虜取扱いに関して日本人は「ナチよりも残虐」であるという心象が人々の間に広がっていった。イギリスでは、サンフランシスコ講和条約の締結にあたり、日本軍の元捕虜を中心に対日補償請求キャンペーンが展開され、パーシヴァル将軍らは十分な調査と議論がなされるまでイギリス政府は講和条約の署名を拒否すべきだと主張した。講和条約発効後も、戦争犯罪人の早期釈放を求めて訪英した日本政府のミッションに対して、イギリス政府は国民の対日感情の悪さを理由に慎重な姿勢をくずさなかった。1954年イギリスを訪問した吉田茂首相(当時)は、英議会に招かれインターパーリアメンタリ―・ユニオンにおいて演説を行なった。吉田のスピーチは、日英同盟を想起しつつ、反共・日英提携を呼びかける内容であったが、演説が終るや、「いつ英国人捕虜に対する補償問題を片づけるつもりか」などと攻撃的で批判的な質問を矢継ぎ早に浴びせかけられた。
1971年秋、昭和天皇のイギリス訪問にあたって、平素は国民に「人気があるとは決していえない」マウントバッテン卿が、そのスケジュール表から天皇との会見を除外したということだけで、人々の「大喝采」を博し、一躍その株をあげた。マウントバッテン卿は元東南アジア連合軍司令官、エリザベス女王の伯父にあたる。英国紙『オブザーバー』は、「ひとつの事実さえなかったら、天皇を歓迎することができたかもしれない」と評した。訪英中に昭和天皇が植えた記念樹は何者かによって引き抜かれ、それから十数年を経て天皇が臨終の床についたとき、『サン』などの英国大衆紙はこぞって「地獄が天皇を待っている」などと書きたてた。1995年、イギリスは第二次世界大戦の戦勝50周年記念を祝うべく旧敵国ドイツを式典に招きながら、日本代表は招待せず、かわってマスメディアが連日のように日本批判の報道を繰り返した。そして1998年初夏、現天皇の英国訪問に際してなお、日章旗は燃やされ、イギリス人元捕虜らは天皇のパレードに背を向け、口笛を吹いて抗議の意を表した。日本軍の英軍捕虜に対する「否定しがたい残虐性」は、まさに戦後イギリスが抱いた反日感情の源泉であった。
(これだけ、反日的なイギリスが旧日本軍の奇襲攻撃を許すとは、常識では、考えられんの。)
これは メッセージ 11957 (unkai1956 さん)への返信です.