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欧州統合の母

投稿者: asianrobo 投稿日時: 2008/04/12 21:17 投稿番号: [253 / 1344]
リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー。

ヨーロッパが互いに争いあっていた1923年に欧州統合の理想を掲げ、汎ヨーロッパ主義を著し、現在はEUの父と呼ばれる人物ですが、彼の母親が日本人である事をどれくらいの人が知っているでしょうか。

クーデンホーフ・ミツコ(旧姓:青山ミツ(戸籍上・通称は光子))がその人です。

青山光子は1874年に東京・牛込にある商家の三女として生まれました。
光子が18歳となった1892年の冬、彼女はある事故に遭遇します。
眼前で乗馬中の外国人が氷に脚を取られ馬ごと転倒したのです。
それを見た彼女は、相手が当時まだ珍しかった外国人にも拘らず即座に救助し、手厚く看護しました。
この外国人こそが、オーストリア=ハンガリー帝国外交官ハインリヒ・クーデンホーフ伯爵で、この事が切欠となったのか、二人は恋に落ち、周囲の激しい反対を押し切って翌年には結婚(これは日本で始めての正式な国際結婚と言われます)。
結婚の翌年にはハンス光太郎を、その二年後にはリヒャルト栄次郎を授かっています。

そんな光子に転機が訪れます。

夫であるハインリヒ・クーデンホーフ伯爵に、本国から帰国命令が下ったのです。

光子は、未だ遵守差別の残るヨーロッパに渡る事になったのですが、その際、皇后様からお招きを受け、
「そなたは日本人の代表だからいかなる場合でも、大和撫子の本分を忘れぬように」
とのお言葉を授かります。
この事は、彼女の生涯で大きな柱となりました。

オーストリアに渡ってから数年は幸せな日々を送る事が出来ました。
夫であるハインリヒ・クーデンホーフ伯爵は、光子に対し偏見の目を向ける者たちに対し、「私の妻をヨーロッパ人と同じに扱わないものには決闘を申し込む」と宣言して光子を護りましたし、三男ゲオルフ他4人、合わせて7人の子にも恵まれ、1905年には日露戦争に日本が勝利した事で国際的地位が向上した事もあり、光子への偏見も次第に薄らいでいきました。

しかし、その幸せも長くは続きませんでした。

1906年にハインリヒ・クーデンホーフ伯爵が急逝してしまったのです。

夫の死に悲しむ光子。しかし、更に追い討ちをかけるような出来事が起こります。
ハインリヒの遺産は全て光子が相続するように遺言をしていましたが、他の一族は日本人に先祖伝来の財産を奪われてなるものかと訴訟を起こしたのです。

光子は唯一の見方であった夫を失いまわりが敵だらけという状況でくじけそうになりましたが、皇后陛下から賜った言葉を支えに奮起。
全ての訴訟を受けて立ち、全てに勝訴し夫の遺産を相続、伯爵夫人として家政を取り仕切るだけでなく社交界にも積極的に参加し、「黒髪の貴婦人」と呼ばれるようにまでなりました。

また、子供たちをオーストリア貴族に恥じないよう厳しく教育します。

その事について、後にリヒャルト・ニコラウス・栄次郎・クーデンホーフ=カレルギーは
「若くして夫を失ったあと、七人のこどもを立派に育ててくれたのですが、母は、こどもの教育については、夫である私どもの父の精神を、そのまま受け継いでおりました。つまり、日本人としてではなく、ヨーロッパ人として、キリスト教徒としてでした。息子たちよりも、娘たちに対して、より厳格でした。私は、こうした母がいなかったとしたら、決してパン・ヨーロッパ運動をはじめることはなかっただろうと考えています。」
と語っています。

こうして名実共にクーデンホーフ家の当主となった光子でしたが、その晩年は寂しいものでした。

第一次大戦の敗戦により、クーデンホーフ家は財産の大半を失い、子供たちとは考え方の違い等から次女オルガを残して別離、自身も脳溢血から半身不随となってしまいます。

そして1941年、光子はオルガに見取られ、その生涯を閉じました。


彼女は日本人女性として、必死に生きただけなのかもしれません。
客観的に見て、幸福な人生だったとはいえないでしょう。
しかし、彼女が居たからこそ、汎ヨーロッパ主義が生まれ、現在のEUが形作られたのです。

欧州統合の母と呼ばれるに相応しい彼女の生涯を讃えたいと思います。
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