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ミャンマー の歴史教科書に 日本は、1

投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2008/03/22 21:34 投稿番号: [199 / 1344]
ミャンマー
8年生用
「ビルマ史」(ビルマ語)
ビルマ連邦社会主義共和国教育省
初等中等教育カリキュラム。教科書委員会編

1. 植民地時代(1885〜1948年)
反英闘争(1940〜1942年)

*30人志士
ビルマ、フリーダムブロック結成後(39年10月結成総裁バモオ、書記長アウンサン)反英、半植民地闘争はより活発になった。
総督は特別の権限をもって「1940年防衛法」を制定しタキン党員、学生、労働者、政治指導者などを逮捕し、投獄するなどの弾圧を行った。(40年の防衛法の制定により“自由ブロック”は非合法グループとなった)
タキン。アウンサンに対してもザルン町で行ったチン山岳州に関する演説を理由に、ヘンザダ警察が懸賞金つきで指名手配した、が巧妙に立ち回り逮捕を免れた。(タキン=ドバマ協会のメンバー、ビルマの主人)

ドバマ協会の青年たちによって結成された人民革命党は外国からの武器援助に
よって武装蜂起することを行動方針として定めており、その実現のためにタキン,アウンサンは他の1名の同士とともに1940年8月変装し、船で国外へ脱出した。彼らが中国アモイに滞在中、ビルマでは人民革命党が、ミスターミナミと名乗る人物と接触をもった。

ミナミとは実は日本軍の鈴木大佐であった。
(鈴木啓司陸軍大佐=偽名は南益世。「南機関の機関長」1941年2月ビルマ工作の為の大本営直属の特務機関として正式発足、タイ、バンコクに本部を置いた。ビルマ侵攻後、軍政部の方針と衝突,42年6月解散された。)

人民革命党からの連絡を受け、タキン,アウンサンは鈴木大佐と日本国内で会った。タキン、アウンサンはビルマ独立計画書を書き上げ、日本軍に提出した。
日本側は資金、人員、武器の援助を行うことで合意し、タキン、アウンサンは1941年初頭ひそかにビルマへ戻った。
人民革命党に彼は計画を説明し、30人の青年を4つのグループに分け、日本に送り出し、海南島および台湾でおよそ4ヶ月間の軍事訓練を受けさせた。
この30人の青年達が、のちにビルマの歴史に名を残す,30人の志士である。

2. BIA
30人の志士が困難に耐えて軍事訓練を受けていた時期、1941年12月7日   日本軍は宣戦布告なしに、アメリカの真珠湾を爆撃した。1939年以来の第2次世界大戦の戦火はアジアへも広がることになった。
やがて、30人志士もタイ国バンコクへ移動した。
1941年12月26日ビルマ独立義勇軍(BurumaIndependenceArmy)を結成した。勢力はシャン族やビルマ族を含めて1500人程度だった。

アウンサン将軍(ボ、テーザ)率いるビルマ独立義勇軍本隊は日本軍とともに作戦行動を展開、1942年初頭にはビルマ国内へ侵攻した。日本はモーラミャイン(ビルマ南部の都市)に入れば、ビルマ独立を宣言させると言う約束を反古にしたばかりか、ファシズムによる支配を実施し始めた。
1942年3月BIAはラングーンを占領し、その後インド国境までイギリス軍を追って掃討を行った。その結果イギリス植民地軍はビルマから完全に撤退したのである。

BIA指導者はタニンダリーを制圧した段階でビルマ独立を明確に宣言させるよう日本軍指導者に要求した、しかし、日本側はラングーンを占領すれば独立を宣言させるとしか答えなかった。ラングーンを占領すると、今度は上ビルマ(ビルマ北半分)を占領してからと、、言を左右にした。こうして、ビルマ人は徐徐に日本の策略に気づいていったのである。

ビルマに独立を与えたくなかった日本は、ビルマ全土を制圧し終えた1942年7月に2万3千人近くの勢力になっていたBIA(ビルマ独立義勇軍)を解散させ、兵力3千人規模に過ぎないBDA(ビルマ防衛軍)に改編した。
このBDA時代に国防省やミンガラドン士官学校などが創設された。

1943年8月   日本はビルマに形ばかりの独立を与えた。
独立後バモオ博士が最高指導者の地位についた。
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