Re: 日本と韓国の議論の広場(ヨコ)
投稿者: topics_jk 投稿日時: 2008/04/20 12:46 投稿番号: [98302 / 230347]
>古代に中国王朝の支援を受けて朝鮮を統一した王朝以後朝鮮は中国王朝の属国となり自国の女を貢ぎ物として中国王朝に送った。<
属国ではなく、冊封国と言うのさ。当時の世界最高水準文明国家中国に朝貢すれば、その何倍もの見返りがあったということさ。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%8A%E5%B0%81
日本も同じだな。
古代
後漢の代より倭国からの朝貢が記録に残る。倭の五王が冊封されていたと言われ、中国の南朝に対して断続的に朝貢を続けていた。これは朝鮮半島における勢力争いへの支援を引き出す目的だったと言われるが、南朝は北朝への対抗上高句麗との関係を重視したため倭国側の意図は果たせず、朝貢も途絶える。
遣隋使においては聖徳太子が「天子の国書」を送って隋の煬帝を激怒させたが、結局は隋からは倭王として臣下の扱いを受けた。
遣唐使は朝貢形式で行われている。日本の側の君主は「天皇」を既に自称している事から、中国皇帝とは対等だったはずであるが、対等貿易を行っていたという記録は無い。おそらく現場の担当者が、ごまかしを行っていたのではないかと推測される。その廃止以降当面は中国の冊封体制に加わることはなかった。五代十国の呉越や、北宋・南宋とも交流があったが、藤原氏や平氏、その他民間の商人によるものであり、正式な国家交流ではなかった。渤海との貿易においては、逆に渤海の側が日本に対して渤海使を派遣し、日本側は朝貢として受け入れた。当時の日本の国力では、毎年の朝貢に対して回賜を行う能力は無く、12年に1度に制限するに至った。
中世
倭寇に悩まされる明は、日本側に有利な朝貢関係の設定と引き換えに倭寇を取り締まらせようとする。日本の南北朝期に九州に南朝派政権を構えていた懐良親王が「日本国王良懐」として明に朝貢を行う。その後室町幕府3代将軍の足利義満が明朝に対して使節を派遣して「日本国王」に冊封される。以後、外交文書に使用して日明貿易(勘合貿易)を開始。父の名目的対明臣従路線を嫌った4代将軍足利義持による一時的な停止はあったものの日本側に有利な取引による利益は捨てがたく、まもなく義持自身により再開され、以降室町時代を通じて行われた。足利義政は進貢すら省略し一方的な銅銭の賜与を懇願した事もあり、これは一度認められたものの再び懇願した際には拒絶される。
近世
室町幕府の弱体化により、大内氏などの大名により勘合貿易が継続される。安土桃山時代には、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)が行われ、日明関係は断絶。江戸時代には一応関係は修復されるが、江戸幕府は朝鮮とは国交を結んだものの、明とは正式に国交を結ばず、いわゆる民間交流レベルの貿易となった。朝鮮に対しては、徳川将軍は「日本国大君」と称し(一時期「日本国王」と称す)、対等な関係で国交を結んだ。また、明が満州族の清に征服されると、真の中華皇帝を日本の天皇に擬える尊王思想(小中華思想)が高まり、日本は中国中心の華夷秩序からは脱却する。
>中国王朝の使者が来ると朝鮮王は出迎えに行き、地面に何回も頭をこすりつけた。<
清の時代には、中国皇帝に対しは、誰でも「三跪九叩」という拝礼の形式を取っている。「跪」の号令で跪き、「一叩」の号令で手を地面につけ、額を地面に打ち付け、「二叩、三叩」とさらに2回打ちつける。起立する。これを3回繰り返す。「ラストエンペラー」を見たことないのかな?(笑)
こう書くと、「使者に対して」と返すだろうが、身分の上下は関係なく、使者=中国皇帝として礼を尽くす。日本の上意と同じ。
正しい歴史を学ぼうね。(笑)
属国ではなく、冊封国と言うのさ。当時の世界最高水準文明国家中国に朝貢すれば、その何倍もの見返りがあったということさ。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%8A%E5%B0%81
日本も同じだな。
古代
後漢の代より倭国からの朝貢が記録に残る。倭の五王が冊封されていたと言われ、中国の南朝に対して断続的に朝貢を続けていた。これは朝鮮半島における勢力争いへの支援を引き出す目的だったと言われるが、南朝は北朝への対抗上高句麗との関係を重視したため倭国側の意図は果たせず、朝貢も途絶える。
遣隋使においては聖徳太子が「天子の国書」を送って隋の煬帝を激怒させたが、結局は隋からは倭王として臣下の扱いを受けた。
遣唐使は朝貢形式で行われている。日本の側の君主は「天皇」を既に自称している事から、中国皇帝とは対等だったはずであるが、対等貿易を行っていたという記録は無い。おそらく現場の担当者が、ごまかしを行っていたのではないかと推測される。その廃止以降当面は中国の冊封体制に加わることはなかった。五代十国の呉越や、北宋・南宋とも交流があったが、藤原氏や平氏、その他民間の商人によるものであり、正式な国家交流ではなかった。渤海との貿易においては、逆に渤海の側が日本に対して渤海使を派遣し、日本側は朝貢として受け入れた。当時の日本の国力では、毎年の朝貢に対して回賜を行う能力は無く、12年に1度に制限するに至った。
中世
倭寇に悩まされる明は、日本側に有利な朝貢関係の設定と引き換えに倭寇を取り締まらせようとする。日本の南北朝期に九州に南朝派政権を構えていた懐良親王が「日本国王良懐」として明に朝貢を行う。その後室町幕府3代将軍の足利義満が明朝に対して使節を派遣して「日本国王」に冊封される。以後、外交文書に使用して日明貿易(勘合貿易)を開始。父の名目的対明臣従路線を嫌った4代将軍足利義持による一時的な停止はあったものの日本側に有利な取引による利益は捨てがたく、まもなく義持自身により再開され、以降室町時代を通じて行われた。足利義政は進貢すら省略し一方的な銅銭の賜与を懇願した事もあり、これは一度認められたものの再び懇願した際には拒絶される。
近世
室町幕府の弱体化により、大内氏などの大名により勘合貿易が継続される。安土桃山時代には、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)が行われ、日明関係は断絶。江戸時代には一応関係は修復されるが、江戸幕府は朝鮮とは国交を結んだものの、明とは正式に国交を結ばず、いわゆる民間交流レベルの貿易となった。朝鮮に対しては、徳川将軍は「日本国大君」と称し(一時期「日本国王」と称す)、対等な関係で国交を結んだ。また、明が満州族の清に征服されると、真の中華皇帝を日本の天皇に擬える尊王思想(小中華思想)が高まり、日本は中国中心の華夷秩序からは脱却する。
>中国王朝の使者が来ると朝鮮王は出迎えに行き、地面に何回も頭をこすりつけた。<
清の時代には、中国皇帝に対しは、誰でも「三跪九叩」という拝礼の形式を取っている。「跪」の号令で跪き、「一叩」の号令で手を地面につけ、額を地面に打ち付け、「二叩、三叩」とさらに2回打ちつける。起立する。これを3回繰り返す。「ラストエンペラー」を見たことないのかな?(笑)
こう書くと、「使者に対して」と返すだろうが、身分の上下は関係なく、使者=中国皇帝として礼を尽くす。日本の上意と同じ。
正しい歴史を学ぼうね。(笑)
これは メッセージ 98295 (sozkmhk さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/ffckdca4h4z9qa4n5doc0a4n9adbel_1/98302.html