サイパン島の激戦1
投稿者: narurin 投稿日時: 2005/06/29 10:43 投稿番号: [9440 / 230347]
某板から引っ張ってきたものです。ソースは、産経新聞だそうです。
記事だけ、引用させていただきました。長いので、二つに分けて投稿させてください。
【ニッポンの還暦】戦後60年 人・世相 サイパン陥落(上)昭和19年
月光照らす地獄
「ただただ私は、兵隊さんたちがかわいそうで、助けてあげたかったのです」
菅野静子(79)=神奈川県逗子市=は今も、毎年六月になると、サイパン戦の三週間を思わずにはいられない。
昭和十九年当時、「南洋の東京」といわれる繁栄を誇ったガラパンで、水産会社に勤める十八歳の少女だった。家族は近くのテニアン島に住んでいた。米軍上陸翌日の六月十六日から、七月七日の玉砕まで、菅野は民間人が入れない陸軍の野戦病院に行き、志願して看護婦となった。「病院」といっても、施設があるわけではない。すり鉢状の盆地に、負傷兵が並べられているだけ。「地獄というものがあれば、こんな所だろうと思ったものです」。菅野は当時を振り返った。
六月十一日に始まった米軍の空襲によって、ガラパンには負傷者があふれていた。菅野は職場に運び込まれる負傷兵を前に、見よう見まねで傷口にほぐしたたばこをあて、引っ張り出した下着のゴムで止血した。山の洞窟(どうくつ)に避難した後も、負傷者の手当てに尽くしたが、十五日に米軍の上陸が始まると、水源地ドンニーにあるという野戦病院に向かった。
南洋特有の明るい新月が、野球場のような盆地に並ぶ重傷兵を浮かび上がらせていた。「看護婦を志願してきました」。自然に言葉が出た。
「ありがたいが、早く山を下りなさい」。周囲から「隊長殿」と呼ばれる中年の院長と押し問答になり、菅野はせきを切ったように話していた。
「家族はみんな死んでしまいました。何でもしますから、ここで働かせてください」
少佐の襟章を付けた隊長は菅野の話を聞き終わると、自分の赤十字の腕章を外し、菅野の細い腕に巻きつけた。
「あんたはこの野戦病院の特志看護婦だ。ただしここは軍隊だ。苦しいこともあるけれど、我慢してしっかりやるんだよ」
さっそく三人の軍医、七人の衛生兵と手術を手伝った。手負いの兵士は三千人以上。懐中電灯で手元を照らしながら、ざくろのように割れた傷口に、食い込む黒い破片を取り除く。うみと血で固まった包帯を替え、傷口に群がるウジを取り除いた。
しかし破傷風が蔓延(まんえん)し、日を追うごとに死体を捨てる作業が増える。頭はぼやけ、手だけが機械のように動く。不眠不休の手当ての合間、水をくみに現場を離れると、空気がうまかった。
米軍の攻撃は激しさを増した。六月二十六日夜、ドンニー最後の食糧が配られた。乾パン一袋と缶詰一つ。手榴弾(しゅりゅうだん)は七人に一つずつしか渡らなかった。サイパン守備軍の司令部から、野戦病院閉鎖命令が出ていた。患者を戦闘に巻き込まないためではあったが、それは同時に重症患者の自決も意味する。隊長が強い口調で言った。
「命令により、本野戦病院はマタンシャに移動する。気の毒だが、歩行できない者は残す。日本軍人として恥じない最期を、遂げてくれ」。傷ついた若い将校がかすかに声を出した。「看護婦さん、『九段の母』…知ってるか」。老母が靖国神社に戦死した息子に会いに行く。そんな情景を描いた歌だ。
小さな声で四番まで歌うと、重傷兵から「おれたちは、靖国神社に行くんだな」「そうだ靖国で会おう」の声が上がった。間を置いて隊長が、小さな声で出発を告げ、一行は歩き出した。菅野も続いた。「看護婦さん、ありがとう」「隊長殿、軍医殿、看護婦さん、さようなら」「看護婦さん、死んではダメだぞ」
菅野は振り返らず、走った。背中越しにバンバンと炸裂(さくれつ)音が続いた。「お母さん」「タケボー」。家族の名を呼ぶ声。頭にカッと血が上り、足がもつれた。
記事だけ、引用させていただきました。長いので、二つに分けて投稿させてください。
【ニッポンの還暦】戦後60年 人・世相 サイパン陥落(上)昭和19年
月光照らす地獄
「ただただ私は、兵隊さんたちがかわいそうで、助けてあげたかったのです」
菅野静子(79)=神奈川県逗子市=は今も、毎年六月になると、サイパン戦の三週間を思わずにはいられない。
昭和十九年当時、「南洋の東京」といわれる繁栄を誇ったガラパンで、水産会社に勤める十八歳の少女だった。家族は近くのテニアン島に住んでいた。米軍上陸翌日の六月十六日から、七月七日の玉砕まで、菅野は民間人が入れない陸軍の野戦病院に行き、志願して看護婦となった。「病院」といっても、施設があるわけではない。すり鉢状の盆地に、負傷兵が並べられているだけ。「地獄というものがあれば、こんな所だろうと思ったものです」。菅野は当時を振り返った。
六月十一日に始まった米軍の空襲によって、ガラパンには負傷者があふれていた。菅野は職場に運び込まれる負傷兵を前に、見よう見まねで傷口にほぐしたたばこをあて、引っ張り出した下着のゴムで止血した。山の洞窟(どうくつ)に避難した後も、負傷者の手当てに尽くしたが、十五日に米軍の上陸が始まると、水源地ドンニーにあるという野戦病院に向かった。
南洋特有の明るい新月が、野球場のような盆地に並ぶ重傷兵を浮かび上がらせていた。「看護婦を志願してきました」。自然に言葉が出た。
「ありがたいが、早く山を下りなさい」。周囲から「隊長殿」と呼ばれる中年の院長と押し問答になり、菅野はせきを切ったように話していた。
「家族はみんな死んでしまいました。何でもしますから、ここで働かせてください」
少佐の襟章を付けた隊長は菅野の話を聞き終わると、自分の赤十字の腕章を外し、菅野の細い腕に巻きつけた。
「あんたはこの野戦病院の特志看護婦だ。ただしここは軍隊だ。苦しいこともあるけれど、我慢してしっかりやるんだよ」
さっそく三人の軍医、七人の衛生兵と手術を手伝った。手負いの兵士は三千人以上。懐中電灯で手元を照らしながら、ざくろのように割れた傷口に、食い込む黒い破片を取り除く。うみと血で固まった包帯を替え、傷口に群がるウジを取り除いた。
しかし破傷風が蔓延(まんえん)し、日を追うごとに死体を捨てる作業が増える。頭はぼやけ、手だけが機械のように動く。不眠不休の手当ての合間、水をくみに現場を離れると、空気がうまかった。
米軍の攻撃は激しさを増した。六月二十六日夜、ドンニー最後の食糧が配られた。乾パン一袋と缶詰一つ。手榴弾(しゅりゅうだん)は七人に一つずつしか渡らなかった。サイパン守備軍の司令部から、野戦病院閉鎖命令が出ていた。患者を戦闘に巻き込まないためではあったが、それは同時に重症患者の自決も意味する。隊長が強い口調で言った。
「命令により、本野戦病院はマタンシャに移動する。気の毒だが、歩行できない者は残す。日本軍人として恥じない最期を、遂げてくれ」。傷ついた若い将校がかすかに声を出した。「看護婦さん、『九段の母』…知ってるか」。老母が靖国神社に戦死した息子に会いに行く。そんな情景を描いた歌だ。
小さな声で四番まで歌うと、重傷兵から「おれたちは、靖国神社に行くんだな」「そうだ靖国で会おう」の声が上がった。間を置いて隊長が、小さな声で出発を告げ、一行は歩き出した。菅野も続いた。「看護婦さん、ありがとう」「隊長殿、軍医殿、看護婦さん、さようなら」「看護婦さん、死んではダメだぞ」
菅野は振り返らず、走った。背中越しにバンバンと炸裂(さくれつ)音が続いた。「お母さん」「タケボー」。家族の名を呼ぶ声。頭にカッと血が上り、足がもつれた。
これは メッセージ 1 (the_rich_and_smooth さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/ffckdca4h4z9qa4n5doc0a4n9adbel_1/9440.html