Re: 教科書にも記載されている事実
投稿者: rugaruga12 投稿日時: 2008/02/13 09:55 投稿番号: [90032 / 230347]
>朝鮮王朝は明と女真ばかりでなく、日本
これらに呼びつけられて貢物払ったり朝鮮通信使と言う名のパレード要員として呼ばれていたですがね。
>倭冠の侵略がやまなかったので
ただの密貿易ですがね。
>こうして世宗時代には200余隻の艦隊を動員して、倭冠の巣窟である対馬島の討伐もした
一万数千の兵を用いてわずか数百に負ける快挙を成し遂げてくれましたけどね。対馬にはハンイバルとかスキピオでもいたのでしょうかねぇ。
>倭寇の侵略は目立たって少なくなった。
貿易商人ですから交易ルートが確保されれば海賊行為なんかやる必要性はないだけですけど
>朝鮮の先進的な文物
中国経由でくるからそれらはおまけですけどね。
>朝鮮と明に対する侵略を準備した。
秀吉の当初の目的は日中貿易の再開であり李朝にはその仲介を依頼したのですが全く無視されたためきれた秀吉が侵攻したのがいわゆる朝鮮出兵です。
>武器と戦略の不備で敗れた。
「朝鮮の国力と国防力が急速にに強化され」はどこに言ったのでしょうね
>全国各地で義兵が立って倭軍とたたかった。
ついでに李氏朝鮮軍とも戦いました。その武功は加藤清正や小西行長にも勝るとも劣らないもので各種役所を襲撃し、機能不全状態に落としいれ、ソウルにも一番乗りして宮殿に火を放つなど大活躍です。後明軍とも戦いました。おまけに一般市民とも戦いました・・・ようは食うに困った人々の無差別な略奪ともいうのですが。
>海戦での李舜臣の勝利とともに戦況を変えた。
単に明の援軍と石田三成らの指導による戦線及び補給ラインの整備の結果戦線が膠着又は落ち着いただけですが。
ちなみに李舜臣はたしかに当初は勝つには勝っていますがなんら戦況には影響を与えておらず、それどころか日本側がシーレーン保持を優先した結果、逆に負けが込み日本軍との海戦には消極的となりました。それが原因で一度クビになりましたが。
>官軍の戦闘能力を大幅に強化、作戦がより組織性を帯びるようになった。
その結果、第二回戦である慶長の役では出撃を渋ってクビになった李舜臣の変わりに海軍の指揮をまかされた元均は返り討ちにあって戦死を皮切りに泗川の戦いでは30の1(しかも余裕綽々で援軍すら断った)島津軍に惨敗し、蔚山城の戦いでは準備不足の上に20分の一以下の防衛軍に撃退され、露梁海戦では小西隊の撤退を支援すべき急遽編成された寄せ集めの水軍を攻撃したはいいが李舜臣以下、明朝鮮連合軍の幹部がバッタバッタと討ち取られた挙句、小西隊は無事撤退と言うような成果が上がっております。
ちなみにかなりの幹部クラスに戦死者を出している明・李氏朝鮮連合軍に対して日本側の指揮官(大名)クラスでの戦死者(戦病死は除く)はたったの一名。しかも一万石強で、加藤清正や石田三成など主な参加者は後の関が原などで活躍しております。
>倭乱でわれわれが勝利をおさめることができたのは
最高指導者である秀吉が死んだので撤退しただけですが。
>空名帳(貧民救済のために富裕者に官位を売り、その代金の証書……訳者)
世間様ではそれは売官といって官を買った連中は貧困対策どころか元手を取ろうと重税を課しまくるため悪政の一種としてみなされますけど。
>朝鮮と明が戦争で疲弊した隙に乗じて北方の女真族が急速に成長した。
単に周辺のライバルを滅ぼして高原を再統一しただけですが。
>日本の文化発展に大きな影響を及ぼした。
いや、ぜんぜん。略奪品と言ってもせいぜいお土産程度ですし、江戸幕府以降、日中貿易も再開されたので必要なものは直で手にはいりました。
そもそも江戸時代に花開いた文化と中国朝鮮の文化にてもにつきませんけど
これらに呼びつけられて貢物払ったり朝鮮通信使と言う名のパレード要員として呼ばれていたですがね。
>倭冠の侵略がやまなかったので
ただの密貿易ですがね。
>こうして世宗時代には200余隻の艦隊を動員して、倭冠の巣窟である対馬島の討伐もした
一万数千の兵を用いてわずか数百に負ける快挙を成し遂げてくれましたけどね。対馬にはハンイバルとかスキピオでもいたのでしょうかねぇ。
>倭寇の侵略は目立たって少なくなった。
貿易商人ですから交易ルートが確保されれば海賊行為なんかやる必要性はないだけですけど
>朝鮮の先進的な文物
中国経由でくるからそれらはおまけですけどね。
>朝鮮と明に対する侵略を準備した。
秀吉の当初の目的は日中貿易の再開であり李朝にはその仲介を依頼したのですが全く無視されたためきれた秀吉が侵攻したのがいわゆる朝鮮出兵です。
>武器と戦略の不備で敗れた。
「朝鮮の国力と国防力が急速にに強化され」はどこに言ったのでしょうね
>全国各地で義兵が立って倭軍とたたかった。
ついでに李氏朝鮮軍とも戦いました。その武功は加藤清正や小西行長にも勝るとも劣らないもので各種役所を襲撃し、機能不全状態に落としいれ、ソウルにも一番乗りして宮殿に火を放つなど大活躍です。後明軍とも戦いました。おまけに一般市民とも戦いました・・・ようは食うに困った人々の無差別な略奪ともいうのですが。
>海戦での李舜臣の勝利とともに戦況を変えた。
単に明の援軍と石田三成らの指導による戦線及び補給ラインの整備の結果戦線が膠着又は落ち着いただけですが。
ちなみに李舜臣はたしかに当初は勝つには勝っていますがなんら戦況には影響を与えておらず、それどころか日本側がシーレーン保持を優先した結果、逆に負けが込み日本軍との海戦には消極的となりました。それが原因で一度クビになりましたが。
>官軍の戦闘能力を大幅に強化、作戦がより組織性を帯びるようになった。
その結果、第二回戦である慶長の役では出撃を渋ってクビになった李舜臣の変わりに海軍の指揮をまかされた元均は返り討ちにあって戦死を皮切りに泗川の戦いでは30の1(しかも余裕綽々で援軍すら断った)島津軍に惨敗し、蔚山城の戦いでは準備不足の上に20分の一以下の防衛軍に撃退され、露梁海戦では小西隊の撤退を支援すべき急遽編成された寄せ集めの水軍を攻撃したはいいが李舜臣以下、明朝鮮連合軍の幹部がバッタバッタと討ち取られた挙句、小西隊は無事撤退と言うような成果が上がっております。
ちなみにかなりの幹部クラスに戦死者を出している明・李氏朝鮮連合軍に対して日本側の指揮官(大名)クラスでの戦死者(戦病死は除く)はたったの一名。しかも一万石強で、加藤清正や石田三成など主な参加者は後の関が原などで活躍しております。
>倭乱でわれわれが勝利をおさめることができたのは
最高指導者である秀吉が死んだので撤退しただけですが。
>空名帳(貧民救済のために富裕者に官位を売り、その代金の証書……訳者)
世間様ではそれは売官といって官を買った連中は貧困対策どころか元手を取ろうと重税を課しまくるため悪政の一種としてみなされますけど。
>朝鮮と明が戦争で疲弊した隙に乗じて北方の女真族が急速に成長した。
単に周辺のライバルを滅ぼして高原を再統一しただけですが。
>日本の文化発展に大きな影響を及ぼした。
いや、ぜんぜん。略奪品と言ってもせいぜいお土産程度ですし、江戸幕府以降、日中貿易も再開されたので必要なものは直で手にはいりました。
そもそも江戸時代に花開いた文化と中国朝鮮の文化にてもにつきませんけど
これは メッセージ 90014 (kim_taek_joo さん)への返信です.
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