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Re: CoreaとKorea

投稿者: kim_taek_joo 投稿日時: 2008/02/08 06:35 投稿番号: [89220 / 230347]
  オリンピックが迫ると予選が行われるが、3人の枠中2人が朝鮮人となったので、軍部の強い意向もあって現地に4人の選手を派遣することになった。6月に下関を出発し、鉄道でユーラシア大陸を横断するルートでベルリンに向かった。故郷を通過した時は真夜中だったが、数千人の人々が激励に訪れてくれた。 競技の数日前に現地で最終予選が行われた。日本人1人は途中で脱落、もう1人はコースを外れ先回りしたが、それでも1位になれなかった。結局、最終的に日本代表の3人中2人が朝鮮半島出身者となった。

  マラソンは8月9日15時にスタートした。2位に入賞したハーパー選手(イギリス)のアドバイスもあって孫選手は見事優勝し、もう1人の朝鮮人南昇龍選手(2001年2月20日死去)も3位に入賞した。しかし「オリンピックに出場するまで、優勝者の栄光をたたえて国旗を掲揚し、国歌が演奏されるという儀式を知らず」、表彰式では戸惑わざるを得なかった。

  その夜、日本選手団本部が開いた祝賀パーティーには参加せず、ベルリン在住の安鳳根(独立運動の闘士安重根の従弟!)に招かれ、祖国の旗「太極旗」を初めて目にし、熱いものが身体を流れていった。これ以後、名前をハングルで書き、その横に朝鮮半島の地図を描くか、Koreaと書くよう一層心掛けた。 祖国では、8月25日に東亜日報が胸の「日の丸」を抹消して新聞に掲載したため、朝鮮総督府から発行停止を命じられた。

  事件の1ヶ月後、船で長崎に到着した。彼だけ別室に呼ばれ、「帰国途中、誰に会い、どのような話をしたのだ」と追求された。どこへ行っても監視の目がついて回り、「優勝を返上したい気分」だった。 1936年10月に祖国へ帰ったが、一切の歓迎行事を禁止された。普専商科(現高麗大学)に入学しても新入生歓迎行事を秘密集会と通報され、警察が踏み込んで来た。結局2学期には退学した。 再び渡日し、「陸上はやらない、静かにしている」を条件に明治大学への入学を許された。だから人目に付く場では決して走らなかった。1941年に太平洋戦争が始まると、祖国では日本式姓名(創氏改名)が強要された。また日本の圧力で学徒兵志願の勧誘に各地を回らざるを得なかった。1939年には結婚したが、解放直前に妻は病死した。

  終戦で祖国が解放されると、陸上のコーチとして後身の指導にあたった。縁あって1947年に参加したボストン・マラソンでは、徐潤福選手が優勝した。そして1950年のボストン・マラソンでは、1位から3位までを(1948年8月15日に独立した)新生大韓民国の選手が独占し、太極旗が3本掲揚された。孫コーチの胸に熱いものがこみ上げた。 しかし帰国5日目に朝鮮戦争が開戦、朝鮮民主主義人民共和国軍占領下のソウルで彼を尋問したのは実の甥だった。1951年にはボストン・マラソンへの韓国の参加はならなかったが、1位になった田中茂樹選手に日本語読みの「そん   きてい」名で「田中くんの優勝はアジアの優勝です」とした祝電が届いた。
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